日の名残り第40_話1

「遠く離れた君へ... 五島列島より愛を込めて」 ~カズオ・イシグロ『日の名残り』徹底解剖・第40話



~~~ 三日目・午後 五島列島・中通島 ~~~



ねえねえ、この地図見て!

なんやねん?

ここ中通島の形って、十字架に似てるよね!

ホンマやな。

しかも「逆さ十字」や。

「逆さ十字」と言えば、使徒ペトロの象徴だぞ。

カラヴァッジォ『聖ペトロの逆さ磔』

使徒ペトロって、おかえもんが、さっき話してたやつじゃんか!

これは偶然なのか…?

それとも、全てあいつのシナリオ通り…

あのオッサンがそんな綿密な計画を立てとるわけないやろ。

常に行き当たりばったりの男や。

そういえば、おかえもんは?

どこ行っちゃったんだろう?

デッキに行ったぞ。外の空気を吸いにな。

アノ…

スミマセン…

はい?なんでしょう?

チョット…

キイテモ…イイデスカ?

バックパッカーか…

極東のこんな辺鄙な島まで、ひとりで遥々やって来たんやな。

ワイに何でも聞いたらええ、孤独な旅人よ。

メルシーボークー!

ワタシノナマエハ…ジャックデス…

アイアムナンボク、ナイストゥミートゥ!

ジャックさん、どうしたんですか?

コノフネハ…

サセボマデ…イキマスカ?

ハァ!?

サセボイキノフネジャ…ナイノデスカ?

これは五島列島行きの船だ。

ここ奈良尾港を出たら福江に向かう。だから佐世保行きの船ではないんだよ。

ただ、列島の一番北の宇久島は、いちおう佐世保市だけど…

Ça C'est Bon⁉

Oui, Ça C'est Bon.

ナカヂ、フランス語しゃべれるの!?

Oui.

俺たちはチャンネル諸島から来たんだぞ。

女王陛下の島だけど、ほとんどフランスみたいなもんだ。

Ça C'est Bon...

Ça C'est Bon?

Ça C'est Bon!

Ça C'est Bon.

なんだなんだ?

ジャックがバックパックからバイオリン取り出したよ!

どうしても歌いたい歌があるそうだ。

Ça C'est Boーーn!


L'Angelus『Ca C'est Bon』

カッコいいじゃんか、ジャック!

サセボサセボって、そこまで佐世保に強い思い入れがあるんか…

ウィ、ムッシュー…

ワタシニトッテ…サセボハ…

アコガレノチ…

そこまで憧れとるなら、船を間違えるなっちゅうハナシや。

ワタシハ…ココデフネヲオリテ…

ウクジマヘムカイマス…


ドモアリガトゴゼマシタ…

バイバ~イ!

ボン・ヴォヤージュ!

達者でな、孤独な旅人!


しかし、どこかで聞いたことあるような話だったな…

憧れの佐世保行きの船に乗ったかと思ったら、行き先が違ってたって…

これだろ。

『Lonesome Traveler(邦題:孤独な旅人)』
ジャック・ケルアック (著)、中上 哲夫 (翻訳)

ああ!

最初の話が使徒ペトロの「Quo vadis?」だった短編集!

そして8つの短編を逆から読むと、カズオ・イシグロの『日の名残り』になるトンデモナイ短編集!

第4章『Slobs of the Kitchen Sea(キッチンの海の野蛮人達)』で、ケルアックは佐世保に行きたくてサンフランシスコで船に乗るが、船はパナマ運河を通ってメキシコ湾に入り、ミシシッピ川を遡って行ってしまう。日本へ輸出する石油を積み込みにな。

ちなみに他の短編にも「佐世保」の名前は登場する。

しかし結局ケルアックは、一度も佐世保を訪れることはなかったそうだ。

さっきのジャックは、もしかしてケルアックだったの…?

Jack Kerouac(1922-1969)

ケルアックは1969年に亡くなってるだろ。

確かに似てたが、他人の空似だ。

しかし何でケルアックは本の中で佐世保を連発しとったんや?

そこまで憧れとったんなら、行けばええハナシや…

あまり深い意味はなかったようだ。

たぶん「響き」が気に入ってたんだろう。

「SASEBO(サセボ)」と「Ca C'est Bon(サセボン)」はよく似てるからな。

サセボサセボじゃなくて、サセボンサセボンって言ってたのか…

ところで「Ca C'est Bon」ってどうゆう意味なの?

「いいね!」って意味だ。

それは連呼したくなる!

お、船が動き出したぞ。

しかしおかえもん、戻って来ないな…

俺も外の空気吸いに行くがてら、ちょっと捜してくるよ。

オイラたち、寒いからパス~!



~~~ 三日目・午後 五島灘 ~~~




・・・・・

お、いたいた。

何してるんだ、そんなところで?

寒くないのか?

ああ、カヅオ君…

島の景色や港を行き交う人たちを見ていたんです…

そしたら、何だかいろんなことが胸に込み上げて来て…

俺も九州で生まれ、小さな島で育ったから、こういう景色にはグッとくるものがある…

え?

九州生まれなんですか?

ああ…

俺の先祖は随分昔に海を渡って来たそうだ…

遠い遠いところから、長い長い旅を経てな…

・・・・・

おっと、つまらん話をしてしまったな…

俺のことはどうでもいい…君の話を聞かせてくれよ。

ここで何について物思いにふけってたんだ?

僕も随分と遠くまで来たな…って…

何気なく始めた『日の名残り』の考察が、まさかこんなことになるとは…

最初の頃が、何だかずっと昔の出来事のように思える…

そもそものきっかけは何だったんだ?

覚えてるか?

え~と…

あれは確か去年の秋頃だったかな…

ある映画サイトから「映画と小説を絡めて『日の名残り』について記事を書いてくれないか?」って言われて…

びっくりしちゃったんですよね…

去年の秋といえば、ちょうどカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した時期だな…

しかしなぜビックリしたんだ?

だって僕は普段小説なんて読まないし、小説に関する記事だって書いたことなかったんですよ…

4年に1冊読むか読まないかってくらいの人間なんです…

オリンピックみたいだな…

いや、オリンピックは夏冬で二年に一回だから、それ以下だ…

僕は本も読まなければテレビも映画も全く見ない人間だったんですよね…

だから「カズオ・イシグロ」って言われても「誰?」って思いました…

でもせっかくの依頼だし、ちゃんとやろうと思い、初めて本を読んだわけです…

どんな印象だった?

正直、最初の感想は「え?」って感じでした…

え?

いえ別に「面白くなかった」というわけではありません。

ただこの作品がイギリスの文学賞「ブッカー賞」を受賞していて、しかもノーベル文学賞まで受賞したカズオ・イシグロの代表作と言われているから、「?」だったわけです。

だって「ブッカー賞」って、凄い賞ですよね?

世界中の本屋さんで「ブッカー賞・受賞作」って本にシールが貼られるくらいですから…

完全ドメスティックな日本の文学賞とは、わけが違います。

確かにそうだな…

カズオ・イシグロの受賞の前年なんて、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』が最終選考で受賞濃厚になり、それが発端になってイギリスとイランの国交が断絶され、世界的な宗教問題にも発展しました…

一年後のカズオ・イシグロの受賞当時も、まだ『悪魔の詩』騒ぎは世界各地で大変な状態だったくらいです。

それくらい影響力のある文学賞なんですよ…

だから僕は『日の名残り』を読んで、これはオカシイぞと思ったんです。

「何かが隠されている」ってね…

なるほど…

そして映画のほうも観ることにしました…

そこで気付いたんです。

小説版と違う描写がいくつかあり、それには明らかに「意図」があるということを…

つまり、小説を映画化するにあたり、どうしても「こぼれ落ちてしまう大事なこと」を、まったく違う描写に置き換える必要に迫られたんだな、って気付いたんですよ…

まったく違う描写か…

例えば冒頭のオークションシーンや…

アメリカ人の新主人と、その朝食シーン…

ええ…

それから、ミス・ケントンとの再会場所である「ローズガーデン・ホテル」も大きく変わったな…

ダンスホールまであって、『ブルー・ムーン』なんてベタな歌が流れていた…

そして桟橋のシーンとラストも…

その違いを比べて気がついたんです…

すべては、

「新主人が中東・石油利権に関する米国のエージェントだということ」

「スティーブンスがバイセクシャルのユダヤ人であるということ」

「イエスの生涯を逆回転で再生する」

という『日の名残り』の秘められた重要テーマを、2時間という映画に収めるために変更された点だったということを…

小説と映画の相違点から気付いたのか…

ええ、この「原作と異なるシーン」に全ての謎を解くカギがありました…

そして映画の制作チームのメンツからも、何の意味もない変更はしないはずだと確信したわけです…

このチームのウリは、

イスマイル・マーチャントが「インドのイスラム教徒」

ジェームズ・アイヴォリーが「アイルランド系の父とフランス系の母をもつアメリカ人」

ルース・プラワー・ジャブヴァーラが「ドイツのユダヤ人」

という複雑なバックボーン。

しかもマーチャントとアイヴォリーは私生活でも同性のパートナー同士でした…

さらにそこにユダヤ系のノーベル文学賞作家ハロルド・ピンターが脚本家として参加していたんです。

これは「ただごと」ではないですよね…

たかだか、英国風「大人の恋愛映画」のために集まるメンツではないんです…

確かにそうだな…

この『日の名残り』という作品は、ある種の「ディアスポラ」を描いたものです…

「祖国」や「本来あるべき場所」から遠く離れ、異国の地で「ある種の異物」として暮らしているにもかかわらず、あたかも「その地の伝統」を背負ってるかのように振る舞っている「滑稽な男」の物語なんです…

・・・・・

そしてそれは、カズオ・イシグロ自身の姿が投影されたものでもあったんですね…

日本人の両親のもと、日本人として長崎に生まれ、5歳で渡英し、28歳で英国人になったカズオ・イシグロの姿が…

だから長崎半島に地形が似てるコーンウォールを、主人公の旅の目的地にしたんだな…

執事長スティーブンスだけがカズオ・イシグロの投影じゃありません…

女中頭ミス・ケントンも、そうなんです…

ミス・ケントンも?

イシグロは、ミス・ケントンにこんなことを言わせてます…

「最初は、長い間、夫を愛することができませんでした。ダーリントン・ホールを辞めたとき、私にはほんとうに辞めるという気がなかったのだと思います。(中略)長い間、私は不幸でした。たいへん不幸でした。でも、時間が一年一年と過ぎていき、戦争があり、キャサリンが大きくなり、そしてある日、私は夫を愛していることに気づきました。これだけ時間をともにすると、いつの間にか、その人に慣れるのでしょうね。(中略)でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を(中略)考えてしまうのですわ。でも、そのたびに、すぐに気がつきますの。(中略)結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。(中略)人並みの幸せはある。もしかしたら人並み以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

カズオ・イシグロ(著)土屋政雄(訳)『日の名残り』より

たとえ本来の居場所じゃなくても、その地で年月を重ねることで、その地が否が応でもその人の居場所になる…

日本の地を離れ、日本人であることも離れたカズオ・イシグロの複雑な思いが、このミス・ケントンのセリフに込められていたんだな…

ええ…

俺にも痛い程わかる…

カヅオ君…

君はもしや…

波と風の音…

海に浮かぶ小さな島々…

俺の中の原風景も、こんなところだった…

このあたりは小さな島がたくさんあって風光明媚ですが、高度成長期以降は急激な人口流出に歯止めがかからず、島はどんどん寂れていきました…

若者が就学や就職で島を離れたっきり戻って来なかったからですね…

このあたりの景色が、美しいけど、どこか物悲しいのは、そういうわけか…

今ちょうど右手に見えるのが椛島(かばしま)…

そして左手に見えるのが奈留島(なるしま)ですね…

こうして瞳を閉じて耳をすませば…

さまざまな記憶がよみがえる…

ああ、サングラスしてるから気付きませんでしたよ…

君も目を閉じて耳を澄ましてごらん…

気持ちが安らかになる…

ああ…

本当だ…

気持ちいい…

俺、実は…

・・・・・

聞いてるのか?

え?

すみません、考えごとしてたもんで…

そういえばその帽子…

なかなか似合ってるぞ。

持って来てよかったな…

海風は、まだ冷たいから…


荒井由実『瞳を閉じて』



――つづく――



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