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シン・日曜美術館『ジブリの耳をすませば』~転~「自由画検定委員 中篇:雪渡り⑦」


前回はこちら


2019年 7月 フランス
アルザス地方 コルマール



RESTAURANT JAPONAIS NAGOYA
日本料理レストラン ナゴヤ




しかし『報恩抄』で日蓮が言ってることは、『雪渡り』を書いた時の賢治の心境とは全く違ってる。

賢治はちっとも両親や故郷に「報恩」してねえ。


だから言ってるでしょう。早合点しなさんなと。

ここまでの忠孝美談は前フリみたいなもの。

法華経と日蓮の本領が発揮されるのはここからです。

ここから『報恩抄』の神髄が展開されるのですよ…


ここからだと?


『報恩抄』の冒頭で、日蓮はこう続けます。


大恩だいおんを報ぜんには 必ず仏法ぶっぽうを習ひ極め智者ちしゃとならで叶うべきか

たとへば衆盲しゅうもうを導かんには 生盲いきめくらの身にては橋河きょうがを渡しがたし

方風ほうふうわきまえざらん大舟たいせん諸商しょしょうを導きて宝山ほうざんに至るべしや

仏法を習い極めんと思はば  いとまあらずば叶うべからず

いとまあらんと思はば 父母 師匠 国主等にしたがいては 叶うべからず

是非ぜひにつけて出離しゅつりの道をわきまへざらんほどは

父母 師匠等の心にしたがうべからず


これは何と言ってるのですか?


仏法を習得し、その教えを極め、世界人類を救済するためには、故郷へ帰省して恩返しなどしている暇はない…

いちいち父母や郷里の人の言うことに従っているようでは、大きな目標を達成できない…

一度故郷を後にしたら、二度と帰らないという覚悟を決めなさい…

そう日蓮は言っています。


ええっ!? 親不孝を勧めているのですか?


まじ『カントリー・ロード』だな。



「親不孝のすゝめ」ではありません。

日蓮はこう言っていましたよね?

狐や亀などの動物ですら恩を感じるのだから、人が恩を感じてそれを返すのは当たり前のことだと。


はい。予譲も弘演も命を捨てて主君の恩に報いました。


ただ、法華経に帰依する者にとっては、その「恩」の定義が世間一般の「恩」とは異なると言っているのです。


恩の定義が異なる?


日蓮も「父母・師匠に従うな、二度と故郷へ帰るな」と言った後、「これは常識外れに聞こえるだろう」と言い、その真意を説明します。


この義は諸人 思はくけんにも外れ

みょうにも叶うまじと思う

しかれども外典げてん孝経こうきょうにも 父母 主君にしたがはずして

忠臣ちゅうしん 孝人こうじんなるやうもみえたり

内典ないてんの仏経にいわ

「恩を無為むいるは 真実報恩しんじつほうおんの者なり」等 云云うんぬん

比干ひかんが王にしたがわずして賢人の名をとり

悉達太子しったたいし浄飯大王じょうぼんだいおうそむきて三界第一さんがいだいいちの孝となりし これなり


また謎の人物が出て来たな。

比干と悉達太子って誰だ?


比干(ひかん)とは、古代中国、殷(いん)の国の最後の王 紂王(ちゅうおう)の叔父にあたる人物…

この紂王は、酒池肉林という言葉の由来にもなったほど、贅沢を好み、女性関係も乱れていました…

自らを神同然だと公言していた紂王には誰も意見できず、どんどん人心は離れて国力は落ち、殷の国は強大な国 周に飲み込まれる寸前になっていました…

これを危惧した叔父の比干は、紂王の目の前で堂々と酒池肉林を批判します…

紂王が発言を取り消すよう求めても、比干は一歩も引かず、主君である紂王への批判を続けました…

激怒した紂王は、ついに比干を斬首…

しかも、見せしめに比干の心臓を取り出し、それを皆の前で晒しものにしたのです…

そしてその後まもなく、殷の国は周に滅ぼされてしまいました…


王の乱れた女性関係を目の前で批判して処刑された?

処刑された後に心臓を取り出され、それを見世物にされた?

なんか洗礼者ヨハネの話みてえだな…


『John the Baptist rebuking Herod』
(ヘロデの乱れた結婚を非難する洗礼者ヨハネ)
giovanni fattori(ジョヴァンニ・ファットーリ)


『The Feast of Herod(ヘロデの宴)』
Lucas Cranach(ルーカス・クラナッハ)


またそうやって関係のない話をする…


しかし似てねえか?


たまたまだよ。たまたま。


そうかなあ…

で、次の悉達太子(しったたいし)は何者だ?

浄飯大王(じょうぼんだいおう)に背いて三界第一の孝行者になった悉達太子てのは?


この人ですよ。



高峰三枝子?

つまり、お釈迦様ってことか?



悉達太子こと ゴータマ・シッダッタ/ガウタマ・シッダールタ(Gotama Siddhattha/Gautama Siddhārtha)は、シャーキヤ(釈迦)族の地方領主シュッドーダナ(浄飯大王)の長男として生まれ、家の跡継ぎとして育てられました…

しかし成人したのち、家の宗教であるバラモン教に疑問を抱き、家族や故郷を捨てて出家…

人々が蔑んでいた社会的弱者たちの中に入り、共に暮らし始めます…

父シュッドーダナが「なぜ我が家を恥ずかしめるのだ?」と聞けば「これは宇宙の意思であり、久遠の過去から定められていたこと」と答え、父が泣きながら「乞食みたいな真似をしないでくれ」「家族を改宗させないでくれ」と訴えても、一切聞き入れませんでした…



つまり仏法を極めて世界人類を救済しようと志す人間は、主君や父に従わなかった比干やお釈迦様のようでなければならない、ということか…


そしてここから日蓮は、『法華経』こそが宇宙の真理であると、延々と語ります。

世界のすべての人に南無妙法蓮華経の題目を唱えさせ、あの世ではなくこの世に極楽浄土を実現させることが、法華経に帰依した者にとっての「本当の恩返し」であると…

それを一言で言い表したのが「恩を無為むいるは 真実報恩しんじつほうおんの者なり」ですね。


なるほど。これなら賢治の心境や行動と一致する。

同志トシのために故郷花巻の実家に帰ったけれど、家の跡継ぎになることや改宗は拒否し、自分に課せられた「本当の恩返し」である法華文学に勤しんだ…


ちなみに『報恩抄』は、こう締めくくられます。


日本国にほんこく一同いちどう南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょうなり

されば花は根にかへり 真味しんみは土にとどまる

功徳くどくは 故 道善房どうぜんぼう聖霊しょうりょう御身おんみに集まるべし

南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

建治けんじ二年 太歳丙子たいさいひのえ七月二十一日 之を記す

甲州こうしゅう 波木井郷はきいごう 身延山みのぶさんより

安房あわの国 東条とうじょうこおり 清澄山せいちょうざん 浄顕房じょうけんぼう 義成房ぎしょうぼうの もと奉送ぶそう


「されば花は根にかへり 真味しんみは土にとどまる」って「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」みたいだな。



最後の部分は受取人の名前になっている…

『報恩抄』は誰かに宛てた手紙だったんですか?


安房の国 東条郡とは現在の千葉県鴨川市近辺のことで、日蓮の生まれ故郷になります。

清澄山(せいちょうざん)とは、日蓮が12歳の時に入門し、32歳で退去するまで籍を置いた寺院「清澄寺」のことで、受取人の二人 浄顕房(じょうけんぼう)と義成房(ぎしょうぼう)は、日蓮の兄弟子にあたる人物。

この『報恩抄』は、日蓮の師匠だった清澄寺の僧「道善房」が死に、その知らせを受けた日蓮が兄弟子二人に宛てて書いたものなのです。

亡き師の墓前で、これを読み上げてくださいと…


『報恩抄』は亡き師匠に捧げる手紙だったんですか?

そんな大事なことなら、故郷の寺へ行って自分の声で直接、亡き師に捧げればいいじゃないですか?


だよな。

武田鉄矢の『母に捧げるバラード ’82』みたいに自分の声で直接。



もう忘れてしまったのですか?

日蓮は故郷へ帰りたくても帰れない身だったのです。

清澄寺は天台宗の寺で、事実上の破門状態にあった日蓮は、門をくぐることが出来ませんでした。

そして故郷 東条郡の人々の多くは浄土宗系の念仏衆で、南無阿弥陀仏を唱えていると天罰が下ると批判した日蓮は、地元民に命を狙われていました。

まさに『ルカによる福音書』でイエスが言う「預言者は故郷で歓迎されない」そのままに…


あっ、そうだった…


自分を仏門に導いてくれた師匠の死を弔いたくても、故郷へは帰れない…

何一つ恩返しも出来ず、たいへんな迷惑ばかりかけてしまったけれど、師匠はそんな自分のことをわかってくれるはず…

なぜなら、法華経を極め、あまねく世界に広め、人類全体を救済することが、何よりの恩返しになるのだから…

そんな複雑な想いが『報恩抄』という形になったのです…


だから書き出しが、あの「キツネの例え話」だったんだな。

キツネは生まれ育った親の巣穴を出たら二度と故郷へ帰ることはないけれど、死の際には故郷の巣穴の方向へ頭を向ける…

これはまさに日蓮のことだ。


そういうこと。

そして『雪渡り』を書いた時期の賢治も同じ心境でした。

だから『報恩抄』の冒頭に出て来る「キツネ」と『ルカによる福音書』に出て来る「キツネ」に着目したのでしょう。



『ルカによる福音書』第13章「神の国の宴」…


13:32 そこで彼らに言われた、「あの狐のところへ行ってこう言え、『見よ、わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、また、病気を癒し、そして三日目にわざを終えるであろう。
13:33 しかし、今日も明日も、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。
13:34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前につかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。
13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とお前たちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。


そして続く第14章から法華経のようにイエスの例え話が次々と語られます。

とあるパリサイ派の有力者の家で行われた、安息日の食事会での説法です。

まずイエスは、招かれた客人たちが上座に座っていることに対して「婚宴の例え話」をしました…


14:7 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬(たとえ)を語られた。
14:8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。
14:9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『この方に座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。
14:10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。
14:11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。


婚宴に招かれる…

もしかして「コン宴」か?



可能性はありますね。

「婚宴の例え話」の次は「晩餐会の例え話」ですから…


14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。
14:14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。


狐の幻燈会には、賢治の親族がモデルになっている「一郎、二郎、三郎」の兄弟たちは呼ばれなかった…

呼ばれたのは、賢治と妹トシ(とし子)がモデルの「四郎」と「かん子」だけ…

なぜなら賢治は貧乏人で、自分のことを不具者と自嘲していた…

そして賢治の妹トシは結核を患う病人だった…



狐の幻燈会に一郎、二郎、三郎は行けないという描写を読んで、トシはすぐに気がついたに違いない…

これは『ルカによる福音書』のこの部分が元ネタだと…


そして「晩餐会の例え話」は、こう続きます。


14:15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大勢の人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、お許しください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それを調べに行くところです。どうぞ、お許しください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人は怒って僕に言った、『今すぐに町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道や垣根のあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理矢理にひっぱってきなさい。
14:24 あなた方に言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。
14:25 大勢の群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、
14:26「誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。


この激烈な例え話は、神の前に立つ1人の人間としての覚悟のことを言っている…

覚悟をもって帰依の言葉「Amen(アーメン)」を言う…

日蓮主義なら「南無妙法蓮華経」と…


そして「財産は捨てろ」「塩味」「戻って来た一匹の羊・一枚の銀貨」の後に語られるのが、有名な「二人の息子」の例え話…


15:11 また言われた、「ある人に、ふたりの息子があった。
15:12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで父はその身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
15:14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどい飢饉があったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
15:15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
15:16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
15:17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大勢いるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
15:18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
15:19 もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
15:21 息子は父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』。
15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、履物を足にはかせなさい。
15:23 また、肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて楽しもうではないか。
15:24 この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
15:25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
15:26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
15:27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛を屠らせなさったのです』。
15:28 兄は怒って家に入ろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
15:29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに、友だちと楽しむために子山羊一匹も下さったことはありません。
15:30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛を屠りなさいました』。
15:31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
15:32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前である』」。


賢治も本心では、この放蕩息子の例え話のように、父 政次郎に受け入れてもらいたかったんだろうな…

『雪渡り』の最後のシーンのように…


なんだか放蕩息子とその兄の話は、賢治と弟 清六を反対にして、さらにいろいろごちゃ混ぜにした感じだな。

家から少し離れた畑にいて弟の来訪に気がつかなかった兄は、家の黒板に「下ノ畑ニ居リマス」と書いていた賢治のようだ。



確かにそうですね。

ちなみにこの「放蕩息子とその兄」の例え話も、とある兄弟の話をごちゃ混ぜにしたものです。


この例え話の兄弟には元ネタがあるのか?


畑仕事をする兄が、肉によって「父」から贔屓にされる弟に対して「ずるい!」と嫉妬する話といえば…

アダムとイヴの子供、カインとアベルですね。


『Cain and Abel』


あ、そうか…

旧約『創世記』では、神が兄カインの農作物よりも弟アベルの小羊の肉を贔屓したことによってカインによるアベル殺害事件が起こり、それ以降、神への捧げものは小羊の肉が一番となった…

そしてイエスは、兄弟の「父」に「弟は死んだけど生き返った」と言わせ、ショックを受けていた兄に対しても「わたしのものは全部お前のものだ」と言って安心させた…

これはイエス自身が贖いの小羊、つまり最後の生贄となることで、失楽園以降ずっと続いてきた原罪を打ち消し、生贄の習慣をやめさせるということを意味する…


その通り。壮大な伏線回収ですね。

そして次に語られるのは「負債軽減の例え話」です。


16:1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
16:2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
16:3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物乞いするのは恥ずかしい。
16:4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
16:5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
16:6『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこに座って、五十樽と書き変えなさい』。
16:7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
16:8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方を褒めた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
16:9 またあなた方に言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなた方を永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
16:10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
16:11 だから、もしあなた方が不正の富について忠実でなかったら、誰が真の富を任せるだろうか。
16:12 また、もし他の人のものについて忠実でなかったら、誰があなた方のものを与えてくれようか。
16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできない」。


東京へ家出をする前、賢治は実家の質屋を手伝っていた…

だけど、生活に困っている人たちの足元を見てお金を貸す仕事が、嫌で嫌で仕方なかった…

きっと賢治は、この例え話の家令のように出来たらいいなと、思っていたのかもしれない…

生活に困っている人の借金を減らしてあげることが、世界ぜんたいの幸福になると…


イエスは「貧しいラザロ」「からし種の一粒」などの例え話をし、エルサレムへ向けて歩き、サマリアへ差し掛かります。

そして「神の国」について尋ねられ、こう答えました。


17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなた方のただ中にあるのだ」。


神の国というのは、どこか遠くの特別な場所にあるのではない…

それは、ひとりひとりの心の中にある…



この考え方は日蓮とよく似ている。

極楽浄土を「あの世」とした浄土宗・浄土真宗に対して、日蓮は「この世」に極楽浄土を実現できると説いた。

世界全体が法華経に帰依すれば、人は本当の幸せを手に入れられると…


『ルカによる福音書』の例え話のすべてを挙げていたらキリがないので、このへんにしておきましょう。

もう十分に『法華経』や『報恩抄』との類似性がわかってもらえたと思います。

では、もう一度、白狐の紺三郎が現れたシーンを…


「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、よめいほしい、ほしい。」と二人は森へ向いて高く叫びました。
 しばらくしいんとしましたので二人はも一度叫ぼうとして息をのみこんだとき森の中から
「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」と云いいながら、キシリキシリ雪をふんで白い狐の子が出て来ました。
 四郎は少しぎょっとしてかん子をうしろにかばって、しっかり足をふんばって叫びました。
「狐こんこん白狐、お嫁ほしけりゃ、とってやろよ。」
 すると狐がまだまるで小さいくせに銀の針のようなおひげをピンと一つひねって云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、おらはお嫁はいらないよ。」
 四郎が笑って云いました。
「狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃもちやろか。」
 すると狐の子も頭を二つ三つ振ふって面白そうに云いました。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、きびの団子をおれやろか。」
 かん子もあんまり面白いので四郎のうしろにかくれたままそっと歌いました。
「狐こんこん狐の子、狐の団子はうさのくそ。」



キーワードは「嫁をとる」だな。

宮沢家の長男である賢治も、長女のトシも、独身のままこの世を去った。

親が子に一番望むこと「結婚」をしないまま…


そして白狐の紺三郎も「嫁はいらない」と言いました。

だから四郎とかん子は「それなら餅をやろう」と言ったわけです。

なぜなら、キツネの名前は「紺」だから…


ん? どういう意味だ?


嫁をとらない「紺」だから「餅」なのです。

「紺」という字は「糸(イト)甘し」ですから。



もしかして「糸(イト)甘し」の「糸(イト)」とは…

法華経の「経」であり、イエスキリストの頭と後ろ「イト」なのですか?


左様。

「経」は「たて糸」という意味でした。

そして縦に書かれた「イエスキリスト」の「イト」も「たてイト」です。



イエスも嫁はいらないと言った…

神の国に入る者には、嫁はいらないと…

そして生涯独身だった…


「甘」は何なんだ?

なぜ「イト」が「甘」だと「餅」になるんだよ?


だって聖書にも出て来るじゃないですか。

「甘」の「餅」が。


は? 聖書に甘い餅なんか出て来ないだろ。

そもそもイエスが餅を食ったなんて聞いたことがない。


はっはっは。そうでしょうか?


餅は東アジアの食べ物だ。東地中海沿岸にはない。



何事も決めつけはいけませんよ。

それでは解説しましょう。

イエスが食べた「甘」の「餅」を…



à suivre

つ づ く




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