見出し画像

青葉市子、デカルト、のMechanism

青葉市子さんについて書きました。
『機械仕掛けの宇宙』とデカルトのMechanism(機械論)の近くて遠い関係について。
以下本文です。

想像してみる。
ある女性が、たった一人で暮らしていて、誰にも会わず、ただ自足している。彼女が歌う歌は、どのようなものだろう、と。
他者のいない世界。彼女と、彼女にとって「物」である対象との、表面、重さ、有用性との対話。
動物たち。
わたしたちとは、すなわち彼女とは、知覚構造の違うものとだけ向き合うこと。虫、植物。
風、雨。
他者性。
彼女にとって、現実とは、自己とは、限られたフレームの中で明滅する光と影、彼女の局限された視界と完全に一致した、「いま・ここ」だけが移り変わる通時性の先端、ただそれだけだろう。それは、カントの言うような空間と時間の中にはない。彼女は、自分の立ち位置を測ったりはしない。相対性は彼女に無縁であり、事物の存在と区別される場としての絶対空間も意味をなさない。彼女は、デカルト的な世界、すなわち、物質が隙間なく敷き詰まった世界の一部として、その他の別の部分と接触しているに過ぎない。
しかし、それは、彼女にとって、世界のごく一部のことでしかないだろう。
彼女の過去と未来は端的に不可視だろう。
昼と夜の繰り返し。差異と反復。非対称性に取り囲まれた世界。すなわち、差異の生成の永遠回帰の中にいながら、そのことに無自覚であり続けること。

「すなわち、昼と闇、明と暗、夢と覚醒、太陽の真実と真夜中の力、こうしたそれぞれの単純な分割である。〈時間〉を〈境界〉のはてしない回帰としてのみ受容する基本的な形象である」(ミシェル・フーコー『狂気の歴史』)

彼女はきっと、空想と現実の区別がつかないに違いない。
彼女は女である。すなわち、分裂した断片の片割れである。しかし、彼女は、鏡となって自分の姿を映し出してくれる存在としての伴侶を持たない。
彼女は、「あなた」について歌うだろう。しかし、彼女が愛する人/彼女を愛する人は、彼女の目の前にはいないだろう。
孤独なものは、愛を知らないわけではない。しかし、それを知っているわけでもない。彼女は、愛の不当性について無知なのである。
彼女に、「幸せか?」と問うことは無意味だろう。彼女はそれに対し「幸せではないとはどういうことか?」と問い返すだけである。

彼女の歌う歌は、きっと青葉市子のそれに似ているに違いない。
青葉は語る。

"歌が自然にでき、それが楽しいからやっているだけ"
"何かを表現しようと思ってやっているわけじゃない"

と。
青葉は鏡を見ながら歌っているわけではない。歌うことは、彼女にとって、それを聴く人との関係を築くことではない。彼女は一人きりで歌い、作った曲は彼女自身から切り離されていく。

"「もう私のものではなくなっていく」って、お別れするつもりで曲は書いています"
"誰かの歌になっていけばいい"

彼女の歌を聴く人が、それをどう受け取るかに関して、彼女は端的に無関係を保ち続ける。そこに対話はない。
歌い手と聴き手の、個々バラバラに切り離された「内面性」と呼ばれるもの、鍵のかけられた個室トイレのように、誰も入ってはいけない空間。その沈殿性、堆積物、その水面に響く音を鳴らすこと。それが、彼女が歌うということである。

冬の夕。17時には暗くなり、街の家々には明かりが灯る。互いに離れた明かりは点々として見え、その光は遠くを照らすものではない。それぞれの家には鍵がかけられ、知らない人はその中に入れない。家の中は暖かく、穏やかで、心地良い。たとえ、その中に一人きりでいるのだとしても。

彼女が物語を歌うのは、それが閉じた「別の世界」だからだ。彼女は作曲の前に作詞する、そうでなければ、歌いながら詞を作り、確認するのだという。彼女が歌うためには、この「別の世界」の存在が不可欠であり、それは歌の後に作られるわけではない。なぜなら、彼女の歌は、その物語の中だけに響くのであり、その外にいるものに聴かせるようなものではないからだ。歌が鳴るとき、それが響くものとして、物語は既に存在していなければならない。

「物語」と「その外」。「空想」と「現実」。

"大学に通いながらプリントの裏に物語を書いていました。そういうものと歌詞はつながっています"

物語と内的に"つながっている"歌詞は、青葉の歌となって、現実世界の空気を振動させる。

青葉が「ギターを弾きたい」と思う動機となった曲、後に彼女の師となる山田庵巳の『機械仕掛けの宇宙』を彼女が演奏するとき、わたしたちは彼女がまさに「一人きりの歌=別の世界」に入っていくその姿を、垣間見ることが出来る。
その曲は、こんな語りから始まる。

"あるところに太陽が決して昇らない街がありました"

これは歌詞ではなく、単にこのあとに続く物語への導入である。
曲の歌詞は、その街に住むある一人の男(?※)が、"愛しい君"に向かって語りかける、その独白によって構成されている。
歌い手(=青葉)の語りかける声は、この男(?)の心情と連動しているように思われる。しかし、彼が語りかけるこの"愛しい君"は、彼の目の前にはいないに違いない。なぜなら彼は、

"傍に居てくれるなら
ぎゅっと抱き合えるなら
他に何にもいらない"

と歌うからだ。これは、相手の存在が、自己の内部の欠如をすべて充填できると盲信する片想いの心理である。
仮に、彼が語りかける「君」が実在する誰かだとしても、その人物は彼が期待するような"他"のすべてに代わる存在にはなり得ないだろう。孤独なものは、自由自在に片想いをする。彼の語る言葉は、目の前に確かに存在する"愛しい君"に対するものではなく、彼の内部に反響する彼の内なる声なのである。

"君にいいもの見せてあげよう
なんにもできないこの僕が
全てをかけて こしらえた
機械仕掛けの宇宙"

微かに聞こえる吐息の音、僅かな沈黙。このフレーズを歌うとき、青葉の声は、ある種の狂気の色を帯びているように思える。この曲の全体は、導入の語りから分かる通り、もちろん初めから空想された物語の中にある。しかし、この曲の構成は、空想の中で語り手がもう一つの空想をさらに開く二重構造になっている。夢と現実。現実と空想。デカルトが物体のひしめき合う世界の只中で、必死に境界線を引いたその二項対立は、後の時代になって、理性と狂気を判別するために使われるリトマス試験紙となった。
この現実。この理性。そこに身を置くものが、そこから逸脱するためには、狂気を要請する必要がある。
ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で指摘した理性と狂気、その昼/夜の関係は、同一平面の裏表である。それはまるで、男/女のように互いを自らの欠けた断片とする凸と凹だ。

「今や妄想は、困窮と幻惑との、存在の孤独と外観のきらめきとの、無媒介的な充足と幻想の非存在との、永遠で瞬間的な対決の場である」(『狂気の歴史』)

物語の語り手(僕≒青葉)が、男と女、実在と非存在、空想と現実の分割された対立線を乗り越えるために要請されること、それは、理性と狂気の境界を踏み越え、その分割を廃棄することである。それによって、青葉の歌は、物語の内側に入るのだ。歌は、聴衆から切り離され、青葉自身からも切り離されて、物語の内側、内面性の中だけに響くものになる。

哲学や自然科学に多少精通している人ならばすぐさま気付くことだと思うが、『機械仕掛けの宇宙』という、この曲につけられたタイトルは、「機械論(Mechanism)」によって宇宙の性質の記述を試みたデカルトの思想そのものを思わせる(デカルトは、人間、地上/地球、宇宙が、すべて共通のMechanismを持つと考えた先駆的な科学者だった)。空想と現実の分離を実現せしめたと思われた彼の「機械」は、今度はそれらを統合するためのものとして、以前とはまったく役割を逆転されたものとして、ここで再び現れている。
青葉は、"この曲を弾きたくて"ギターを始めたという。『機械仕掛けの宇宙』は、彼女が「一人きりの歌の世界」に入っていくための入り口、その鍵となっている。彼女はこの曲を

"山田(庵巳)さんの曲の中でも自分にとって一番大切で、心の一番暗くてあたたかいところにある曲"

と表現する。
「別の世界」に属するものである彼女の歌は、空想と現実を等価なものとして響かせる。もちろん、青葉は狂人ではない。デカルトが空想と現実を分けるために拠り所とした、「判然性」と「明証性」の感覚は、彼女にとっても同じように働いているだろう(それは普遍性の領域である)。しかし、彼女の物語としての空想は、その存在論的な地盤を、『機械仕掛けの宇宙』(Mechanism Universe)によって支えられている。

"機械仕掛けの宇宙は回り続ける
ゆっくり 静かに"

物語の"僕"は、"君"に向かって語りかける。しかし、それは、誰かと誰かの間に築かれる関係ではなく、空想と現実、男と女、狂気と理性の絶え間ない分割を内的に統合する「一人きり」の内側にある関係なのである。
孤独な女。欠けているもの。その断片。人間がその欠如の充足を「外」に求めたところで、決して満ち足りることがないことは、既に多くの識者が認めている。欲望のファウスト的な成長。デカルトに始まった現実に対する偏愛は、機械仕掛けの宇宙によって、覆されようとしている。わたし(コギトcogito)とは、意識と現実の設置面のことではなく、そこから切り離されて、内側でそっと息を潜めるもののことである。

"心配ない 来て
ここに かくれて
心配ない 見て
外は 戦場だよ"(『外は戦場だよ』作詞:坂本慎太郎)

この詞はまさに、青葉の初期の活動のイメージに重なる。
しかし、『機械仕掛けの宇宙』が収められているアルバム『0』は、青葉が音楽に対するスタンスを変えていくその分岐点的な作品になっている。

"毎日の風景 ずっとつづくね
慣れなきゃ、
いきのこり ぼくら、"(『いきのこり・ぼくら』)

いつか、外に出る日が来るだろう。「わたし」は、関係に還元されて糸になるだろう。その日まで、わたしたちの片想いは許されるだろう。
その日まで、その日まで、、、。


#アート #芸術 #アーティスト #芸術 #批評 #芸術批評 #音楽 #ミュージシャン #音楽批評 #哲学 #デカルト #カント #フーコー #青葉市子 #山田庵巳 #坂本慎太郎 #コーネリアス #小山田圭吾 #機械仕掛けの宇宙 #機械論 #Mechanism #art #孤独 #狂気の歴史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?