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(1)『サンフランシスコにもういない』

 世間から一目おかれるいやゆる〝エリート〟たちは、ひとたび旅に出れば、崇高な思想や哲学の一つ二つ誰に言われるともなくこしらえて、いざ帰国するなり、周囲に吹聴しては、いやにもてはやされ、いやに尊敬され、いやに自信と矜持と知性とを発散させる。
 いま見苦しいほど嫌味ったらしい書き方をしたけれど、これは自分には成し得ないことを目の前で成されたときに抱く自然な苛立ちと憧憬の裏返しにすぎない。つまり、
――ああいう語るやつ、僕もやりたい。
 でもやり方がわからない。
 僕は大学二年の夏休みを丸々つかって、アメリカのサンフランシスコにある語学学校に通うことにした。将来アメリカで働きたいと思っていた。使える英語力が必要だった。そこでこの留学を機に、旅先での経験をいっぱし気取って語れる〝エリート〟を目指すのもよいと考えた。
 だけど、そう思い至ったは良いものの、エリートたちはなぜあんな立派な考えを旅先からテイクアウトできるのか、僕にはさっぱりわからなかった。エリートらしく旅先の歴史をひと通り調べてから渡航するからだろうか。あるいは、あえて調べなくともすでに当たり前の知識としてそれらを身に着けているからこそ、街の情景を的確に読み解いては素晴らしい見解を展開ということなのだろうか。
 さっぱりわからない。
 しかしひとつ言えることは、そんな知性・感性ともにマルコポーロな旅人エリートたちを目の前にするとたいがい僕は「へえ、僕なんか旅行に行ってもボーっと過ごしちゃうわー」とか「『楽しー』しか考えてないわー」と冗談めかして、へりくだる。とてもじゃないがエリートらしく振る舞えない。そうしてふわふわしていた方が、じっさいには気が楽だし、何より〝ウケる〟からそんな態度をとってしまう。
 ここで少し話は逸れるが、こうした態度は何も旅人エリートを前にした場合に限らず、たとえばエリート君あるいはエリート女史の神童エピソードなぞを聞いた時にもよく「へえ、自分なんか小学生の頃、何も考えてなかったわー」とへらへら、ふわふわ、してしまう。そうしたコミュニケーション様式が別に悪いこととは思わないが、まるで自分の人生の苦々しさがわからなくなるまでにふわふわの粉砂糖を振りまくっては、美化された見掛け倒しの現状に甘々に甘んじるこの態度には、僕が目指す語れる〝エリート〟の姿形はない。一皮向けないと、とも思う。
 さらに話は逸れるが、留学に行く前の女子は、日本にいた頃にはものすごく丁寧に前髪をつくり込んでいたのに、帰国した途端「えっ、前髪? じゃま」とばかりにガッと掻き上げ、賢さが滲み出る秀でたおでこをツルりと出すというメタモルフォーゼを遂げるケースが後を絶たない。そこには目に見えて心情の変化があるわけで、世間にはどうも「留学に行った人間は一皮むける」という通説があるようだ。
 ここで強引に話を戻すが、以上のように「一皮むけたい僕」と「留学すると心の変化あり」という二点を踏まえれば、やはりこのサンフランシスコ留学は、現地での経験をかみ砕き、高度で優れた論考を立ち上げそれを叙情的な言葉で包み込んでは朗々と語り上げるエリートになるための、またとない契機に思えた。それがこの留学体験記を書く趣旨だ。
 やり方はわからない。しかし持ちうる叡智を結集し、ここに洗練された思考を結実させたいと思う。
 さて第一の経験談は、肝要にして才気に満ち溢れていなければならないだろう。したがってまずは、

 うんこの話をしよう。

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