【目印を見つけるノート】699. ストレスフルな老中首座
何とかきのうのうちに『オデュッセイア』を更新できて、ホッ。原稿用紙でいえば、9枚ぐらいでしょうか。話はつながっているのですが、毎回場面を変えたりします。
3333文字でしたので、更新を3日にすればよかったな😄
⚫名前がわからない件
今回は永年の謎が解けないまま出しました。戦国時代の堺の商人、日比屋了珪(ひびやりょうけい)の娘の名前です。これは、いっとき調べました。
日本史に出てくる女性の名前は、とことん分からない場合が結構あります。北条政子も北条「時政」の娘だから政子となっていますが、リアルに何と呼ばれていたかは、はっきりしていなかったのではないかと記憶しています。
日比屋了珪の娘はルイス・フロイスの『日本史』でクリスチャン・ネームのモニカとして紹介されていますが、フロイスも書いた内容の顛末はじかに見ていなかったようです。
通してモニカとしか出てきません。
誰か教えて~という状態が続いています。
大河ドラマ『黄金の日日』では「笛」とされていて、夏目雅子さんが演じられました(見ていないのです😅)。傾城の美女だったと伝えられますが、夏目さんなら納得です。ただ、ドラマはフィクションですので史実とは違っていて、さらに波瀾万丈の悲劇のヒロイン😢
そのような状態ですので、名付けはある意味自由なのですが(さわでもいい)、困ったときの聖名頼り、「モニカ」に音が近い名前にしました。
今は戸籍がありますので、大抵の人が何代か前の親族でも名前を見つけることが可能です。現行の戸籍法は1947年のものですが、初めに定められたのは明治になって以降の1872年です。その前の江戸時代には『宗門人別改帳』というのがありました。ん🤔法学部チックになってきました。民法ですか。実は法学部に行こうと思っていたことがありました😜
それまでの長い長い期間、歴史に残らない人はもとより、残っていたとしても女性は名前を見つけることが困難なのです。
そのような側面があることは意識しています。
⚫今日の福山藩主
いや、そのようなコーナーは作りませんが😅
あ、でもいいかも🤔
この前、散歩をしていて見つけた案内板です。江戸後期の『講武所跡』、これを最初に設けたのは幕府老中首座の阿部正弘、備後福山藩主です。浦賀にペリーがやってきて(1853、54)、長崎にプチャーチンがやってきて(1853)、中国ではアヘン戦争も起こっていました。日本の沿岸がかまびすしくなっていた頃に重職を担っていた方です。江戸在住がほとんどで福山にお国入りしたのは1度だけだったようですが、この時期にお役目を担うというのはたいへんなことだったと思います。
(この案内板の地の講武所は後に移転したものです)
その頃の有名な狂歌がありますね。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四盃で夜も寝られず」
上喜撰は蒸気船、四盃は4隻。
いちばん寝られなかったのは老中首座だったはずだと私は思っています。
首府のほど近くの海域に突然現れた巨大なフリゲート。旗艦の『サスケハナ号』は80m近くの全長があったといいます。蒸気機関もよく知らない国で見る4隻の船団は果てしない脅威だったでしょう。
『サスケハナ号』の紹介
ペリーの2度目の来航を受けて、外国の脅威に対抗するために『講武所』は設けられました。弓術や剣術もありましたが、砲術には特に力を入れたでしょう。それはそうです。弓や刀では歯が立ちません。専守防衛のための軍事訓練所です。
「私たちが恐れなければならないのは、恐怖心そのものである」と後に言ったのはペリーの国の大統領でしたが、幕閣も侃々諤々になり、将軍も短期交代が続く中、ことにあたった当事者は怖くて逃げ出すことなく、冷静に交渉を続けたと思います。
その大統領とはこの方です。
その過重なストレスも影響したのでしょう。阿部正弘公は日米和新条約締結(=開国)のわずか3年後、1857年に急逝します。
幕末というとどうしても、新撰組に西郷どんとなってしまうのですけれど、見るべきところは他にもあると思います。少なくとも、結果的にそのことで日本は戦場にならなかったのです。
講武所跡を見つけて福山藩主を思ったということです。
今の情勢にあって、国とそこに住む人々を「守る」ために日々奮闘されている皆さまに、心から申し上げます。
「おつかれさまです。おからだをおだいじにされてください」
今日はこの辺りで失礼します。
それでは、お読みくださってありがとうございます。
尾方佐羽
追伸 今の空は少しこわいかな。