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【世界遺産・短編小説】「奔流と凝固」前編


明治日本の産業革命遺産ミステリー小説

新人ミステリー作家の登竜門『このミステリーがすごい!』大賞受賞者をはじめとした新進気鋭のミステリー作家たちが、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の地を実際に訪れて短編のミステリー小説を書き下ろし。広域にまたがる構成資産を舞台とした物語をミステリー作家陣が紡いでいきます。
ものづくり大国となった日本の技術力の源となり、先人たちの驚異的なエネルギーを宿す世界遺産を舞台にした不思議な物語を通じて、この世界遺産の魅力をより多くの方に感じていただき、価値が後世に繋がっていくことを願っています。


奔流ほんりゅう凝固ぎょうこ

相沢 沙呼

 心の中にあるもの、なにもかもすべてを洗い流してしまいたいと思った。
 それはほとんど突発的な行動で、明確なきっかけがあったわけではない。社会人になってからの一、二年はうまくやっていけている気がしていた。でも、徐々に徐々に心ににごった不要物が降り積もっていくような感覚はあって、とうとうそれを整理仕切れなくなったのだろう。押し寄せる仕事の波や、うまくいかない人間関係、それからなにも見えない将来への不安。そうしたものをすべて消し去りたくなった。
 幸いなことに、爆発寸前のタイミングで休暇を取ることができたから、旅に出ることにした。いくら疲れているとは言え、家に閉じこもっていたら、抱えた不安に対する悩みに心を支配されてしまう。こういうとき、計画性もなく行動ができるのは自分の強みだと思う。ただ、今回初めて挑戦してみようと考えたのは、デジタルデトックスだった。
 スマートフォンを置いて旅に出るというのは、とても思い切りが必要だったけれど、仕事の連絡や友人たちからのメッセージにわずらわされたくないという衝動が強かった。SNSなどで自然と流れてくる人間の悪意や、き起こる嫉妬心に悩まされない利点もある。特に友人たちは、結婚やら出産やら、わたしの眼にはまぶしすぎるポストをしているから、少し距離を置きたいという気持ちもあった。いざというときの連絡や、ネットで調べ物ができないという大きな問題はあるけれど、やはり手元にそれがあるだけで、どうしてもついつい画面を確認しがちになってしまう。だからスマホを割って投げ捨てる覚悟で(実際には電源を切ってベッドの上に放り投げただけだけれど)、旅に出ることにした。思い切りはいいけれど、わたしの決意はいつだってゆるいのだ。新幹線やホテルの予約だけは事前にネットで済ましたけれど、あとはもう、出たとこ勝負である。
 目的地は、岩手県の釜石かまいし市。
 誰にも告げなかったけれど、もし、友人にそこへ行くと伝えていたら、どうしてそこへとかれたかもしれない。とくに旅行に憧れを抱いたことのない自分にとって、ぱっと思い付いた地名がそこだったから、としか言えないだろう。他に理由を挙げるとするならば、そこは母の故郷であり、彼女が仕事に生きて、そして亡くなった場所だったから。
 正直なところ、母の思い出はほとんどない。
 母がわたしたちの元を去ったとき、わたしはまだまだ幼かったからだ。フレームに納まった数枚の写真と、味気ないデジタルのメール、そして父から聞いた話がすべて。彼女の存在は、わたしの記憶の中では、ぼんやりとした輪郭りんかくほこりっぽいセーターの匂いとしてだけ残っていた。
 だから、わたしが大人になった今となっても、彼女がどういう人だったのかはわからない。若い頃は文化人類学の研究で日本の各地を飛び回っていたようだけれど、わたしを産んでからは岩手の大学で教員をしながらフィールドワークをおこなっていたらしい。たったそれだけのために、東京で働く父と、幼いわたしを置いて行ったのだ。
 両親の仲が、どんなものだったのかはよくわからない。父は最期まで寡黙かもくな人間だった。離婚まではしなかったが、年に一度も顔を合わせないときの方が多い印象だったので、うまくはいっていなかったのだろう。父いわく、母は良い言葉で表現するのならば、決してあきらめずに問題を乗り越える、ねばり強くて強靱きょうじんな意志の持ち主で、悪く表現するなら、とにかく頑固なわからず屋だったそうだ。わたしたちより、自分の好きなものの研究に人生を捧げるような人だ。折り合いを付けるための説得は無理だったのだろう。
 そんな彼女は、わたしが小学生だったころ、事故で呆気あっけなく亡くなった。ほとんど顔を合わせたことのない相手なのだから、子どもの頃のわたしにとっては他人のようなもので、悲しかったとかそういう感情は特に沸かなかった。なんというか、他人のまま終わってしまったんだな、という小さな名残なごり惜しさだけが、わたしの成長と共にふくれあがってきた程度だ。
 それなのに、どうして今になって母の過ごした土地へ行きたいと考えてしまったのだろう。洗い流すことのできないその名残惜しさが、ざらざらと心にこびり付いているのを自覚してしまう。父も二年前に他界したので、答えを知る方法はほとんどなかった。
 スマホを置いてきてしまったせいで、新幹線の中で時間をつぶすべは限られてしまっている。途中で読もうかなと思って文庫本を持ってきていたものの、どうしてか開く気にもなれずに、そんなことばかり考えていた。
 母はなにを考え、なにを追い求めていたのだろう。家族を遠くに残してまで、あの場所に留まり、なにに自分の命を捧げたのだろうか。
 具体的な旅の目的はない。ただ、新花巻しんはなまきの駅に着くまでに、ふと思い出したことがあった。
 それは、父の遺品を整理していたときに、机の中から出てきた一枚の写真のことだった。まだ大学生くらいの頃だろう。若かりし母の姿を撮影した写真だ。父は写真を趣味にしていたから、彼が撮影したものかもしれない。その写真で見せる母の笑顔は、わたしの知る母の表情とはどれも違うような気がしていた。正直、こんなにも綺麗な人だったろうか、と意外に思ったくらいに。そんな写真を後生大事に机に仕舞しまっていたのだから、父の気持ちがどんなものだったのかは想像が付く。母は、史跡のようなところを背景に、こちらを見て笑っていた。写真の後ろには、父の手書き文字で「釜石市で」と短く記されていた。
 あれは、どこで撮影されたものだったのだろう? 


 
 今更いまさらながら、自分がネットやスマホにどれだけ助けられて生きてきたのかを強く思い知らされた。まして、記憶の中にしかない写真の場所を探すなんて、無茶もいいところだろう。せめて現物があるのなら、この場所を探しているのですが、と尋ねて回ることもできただろうに。あんなふうに父が大切にしていた写真なのだからと、父方の実家にある仏壇に飾っているのだが、今更それを取りに戻るわけにもいかない。だいたい、そこまでして探したいものかというと疑問だ。あくまで、それは目的のない旅の指針に過ぎないのだから。

 久しぶりに降り立った釜石の土地は、記憶の中にある朧気おぼろげな風景とは、どこか違うように感じられた。何度か父に連れられるまま、母に会うために来訪した場所ではあるのだが、小学生の頃だったから、すっかり記憶は薄れている。こんなにも寂しく感じられる場所だったろうか。もちろん、写真の場所を探索するという目的も、非常に難航した。
 背景からすると、なにかしらの史跡の一つだろう。城跡しろあとや、お寺、神社などの場所に違いないと思って、初日はホテル近くにある観光案内所を訪ねてそうした場所を巡った。レンタカーを方々へ走らせたのだが、しかし、それらしい場所が見つからない。個人的には、城跡の可能性が高いと思うのだが、釜石市にあるめぼしい城跡である狐崎城きつねざきじょうを訪ねたものの、城址碑じょうしひが残されているばかりで、探している風景はどこにもなかった。
 こうしたときの勘は鋭い方だと思い込んでいるのだけれど、あの場所は城ではないのだろうか? というのは、母が背にして写っているものが石垣だったからである。非常に大きくて堅牢けんろうそうな石垣の壁を背に、母は笑っていた。となれば、あれは城だったのではないかと思う。
 わたしの友人に、石垣が好きだというちょっと変わった子がいる。石垣の角の鋭さや城を築いた戦国武将がいかに素晴らしいかを延々と語るような子で、ときおり旅に出たりすると石垣や城を背景に撮影した写真を送ってくれるのだが、それに似ているような気がしたのだ。たとえば、江戸城の中の門とか、大阪城とか。まぁ、流石さすがにそれよりは小さかった気はするのだけれど。でも、それだけのものが現在も残されているのだとしたら、きっと有名な史跡に違いないはずで、すぐに見つかるだろうと踏んでいたのだけれど、どうやら当てが外れてしまったらしい。
 三日目は釜石市の北、大槌おおつち町にも大槌城という史跡があるというのでそこを訪ねたが、やはりこれも空振りに終わってしまった。まぁ、写真に「釜石市で」と書かれていたのだから、当然とはいえば当然だろう。けれど南北に車を走らせて、新しい発見もあった。いや、それを発見などという暢気のんきな言葉で表現して良いのかどうか、わたしにはわからない。
 初日にも感じていたことだったけれど、物寂しい光景が広がっているな、と思ってしまったのだ。建物がまばらで、なにもない土地が延々と続く景色もある。長閑のどかだと言ってしまえば聞こえが良いかもしれないが、そうと表現するにはあまりにも均一に土地がならされている箇所もある。まるでなにかに洗い流されてしまったかのように——、いや、きっとわたしがそう感じた比喩ひゆの通り、それはすべてを飲み込んでしまったのだろう。
 津波だ。
 釜石市は海に面している。震災の被害はきっと甚大じんだいなものだったろう。当時のわたしはニュースを見ていて、母が住んでいた土地も被害にあったのか、と他人事のように感じただけだった。震災後も父は釜石に何度か足を運んでいたが、わたしは付いていく気にはなれなかった。薄情と思われるかもしれない。でも、既に母が事故で亡くなっていたということもあり、そこまで関心がなかったのだろう。母の遺品は、そのほとんどが彼女の実家に預けられていたようだけれど、港近くにあったそこも流されてしまったと父に聞かされた。もし、母があの震災のときまでに生きていたら、とわたしは車を走らせながら考えていた。もし、母が生きていたら。津波から逃れて、生きていてくれたら。そうしたら、彼女はわたしたちの元へ帰ってきてくれただろうか。例えば、生活の場を失って仕方なく? あるいは命の尊さを思い知り、本当に大切なもののそばへ戻ろうと思うかもしれない——。それはあるはずのない未来へと向けた意味のない期待だった。カーナビゲーションが音を鳴らす。わたしは視線を画面へと向けた。わたしの思索しさくとはまったくの無関係だろうけれども、そこには「いのちをつなぐ未来館」の文字があった。
 
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後編へ続く