自己喪失は価値を無くす
「○○で良い?」に対する「良い」 「良くない」の決める定義として、僕は「よくないけど限界になるまでならよいのでよい。」「限界になるまでが極めて近いなので良くない」を普通のマニュアル、定義として捉えていた。
しかし、いつからか、その答えに対する相手への影響などは無しに、無意識にその定義による思考回路になってしまった。
以前は正しい判断で「良くない」と内心では思っても、「良いにするべきだ」という前置き、許容する意思から「良い」と返していた。今は「良くない」という事象がそもそも出てこず、何でも「良い」としてしまう。
自身の拒否反応の部分を元に許容を決める装置が壊れた。これでは許容範囲を知らぬうちに超えてまた壊れてしまう。
昔から断ることが苦手だった。自分にとっては良くなくても、相手はそれが良いのだから相当な事でない限り全部了承する。
この時とかはちゃんと「拒否したいが、その上で了承する」を持っていたからいい。今はその「拒否したいが」を内心で持つ時、なんだかふわふわしてしていて、薄くなって上手く見えない。
自身の善し悪しのどうでもよさが悪化するの自己の無さによるものか。自己が無くなると当然だが自以外もさらさらと消えていく。他人にも反映する。
自己が無くなり、自暴自棄になって他己影響なとどうでもよくなって自分都合で許容するタイプなら良いのだが、僕の場合最近はこっちよりだったが、最近は
自己が無くなり、自暴自棄になって他己影響などどうでもよくなって、ついでに"他己影響自体も"どうでよくなってただ許容する。という要素が増えた。
「どうでもいい」は興味関心が無いために起こる。僕は自己は本当にどうでもいいから捨て、代わりに「他己を大事にできる」と思って捨ててきたつもりだった。だがどうしてか「他己を大事にできる」を詰めるスペースを作ったのに、減っていく。
(面倒事の押し付け)(相手の気持ちを汲み取らない等)「他人を捨てて自分を大事にする」方法は山ほどあるのに(面倒事の押し受け)(相手の気持ちを汲み取る等)「自分を捨てて他人を大事にする」方法は実は少ない。
「自分を大切にできない人は他人も大切にできない」を否定したいのに。他人の為に生きて行きたいのに。
今の僕は「何の為に生きる?」の大事な候補が欠しかけている。「自分」、「他人」の"為"の中で「自分」をたった少し、「他人」を測りいっぱいに選んで調理していたのに、「自分」は在庫切れ、「他人」は残量が僅かなので、測り少しでの調理になって来ている気がする。
もう人間関係のバランスが取れない。自己が無いのなら相手から自分からの何かの思い出は残れど、自分から相手への何かの思い出が消えやすく なる。これによって自分が親密な相手に、これまで同様の深い人間関係の愛が持てなくなってしまう。
生きている心地がしない。人と関わろうが1歩も動かずにただ何もしていない心地が増える。価値が、価値がなくなっていく。価値こそが全てなのに
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