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父の退職 〜親の移住と、家族の記録#18〜

家の売却の目処がつき、父は仕事にも区切りをつけることにした。

新卒で入社してから四十年以上。大企業ではない、特別高給取りでもない、ただただ真面目にコツコツと働き続けてきた父。どんなに忙しくても、休みが少なくても、愚痴や文句を言ったのを聞いたことがない。「好きなことを仕事にできているからストレスなんかない」と言うのをいつも半信半疑で聞いていたが、あれは本当だったのかもしれない。

背が高くて力も強い父を、私たちきょうだいはみんな大好きだった。肩車してもらうと世界が全然違って見えて、ちょっと怖いくらいだった。腕立て伏せをする時に背中に乗せてもらい、キャーキャー喜んだ。一年中腹巻きをしていて、いつも煙草のにおいがした。これといった趣味もなく、休みの日はよく一緒に遊んでくれた。夕飯のおかずはいつも父だけ一品多くて、それを一口もらえるととてもうれしかった。母は子どもたちの前でも平気で父を特別扱いし、ことあるごとに「お父さんは素敵なの」「お父さんはすごいよね」と口にしていた。母の言動を通して私やきょうだいは父を特別な人だと思い込み、無条件で尊敬する期間がだいぶ長く続いた。

子どものころ、父の仕事場に家族でついていったことが何度かあった。セキュリティとかコンプライアンスとかがまだ緩かった時代で、休日出勤している父のそばで塗り絵をしたり、会社の駐車場でローラースケートの練習をしたりした。駐車場には、瓶のコーラの自販機があって、備え付けの栓抜きで蓋を開けてくれる父がかっこよく見えたのを覚えている。引っ越し前に写真の整理をしていたら、その自販機の前で撮られたであろう一枚も出てきた。
私ときょうだいは同じ髪型をしている。
母が若い。
みんな笑っている。
少し色あせてしまったその写真には、確かにあった家族の時間が記録されていた。


父は会社に辞意を伝え、数ヶ月後に退職と決まった。六十歳を過ぎてからは少しずつ勤務日数が減り、この頃にはすでに週二日くらいの出勤ペースになっていたので、残りの期間も特に変わらず、淡々と仕事をこなした。

年の近い同僚はだいぶ少なくなっていたが、先に退職した同期の方が会社に顔を見に来てくれたり、お世話になったからと転職先から連絡をくれる後輩の方がいたりと、有り難い出来事もあった。入社したばかりの若手に「食事中に漫画を読むな」と注意してしまうような、ちょっと空気を読めないところのある人だったが、そんな父を慕ってくれる人たちがいたことを改めて知ることができ、家族としてはうれしかった。

退職の日、父はいつも通り母のつくったお弁当を持って出かけ、小さな花束をもらって帰ってきた。いつも通りに風呂に入り、夫婦でお疲れ様の乾杯をしたという。直後の週末に子どもたちが実家に集まり、退職祝いをした。

子どもたちをお腹いっぱい食べさせ、学校に通わせ、休みの日には遊びに連れて行き、希望する進路に進ませる。家のローンを払いながら、目の前の家族の暮らしをまわす。なんてすごいことだろう。我が家のすき焼きが牛肉ではなく豚肉だったことだって、今となっては何の文句もない。
家族の生活を背負って働く日々の中で、父はどんなことを想い、毎日何を考えていたんだろう。いつも飄々として、家族が話すのをニコニコ聞いていた。毎月の小遣いが余ったぶんを貯めておき、年末にまとめて母に渡していた。毎年夏になると、後に移住することになる町へ出かけるのを楽しみにしていた。

いつだったか、父の夏休みが三日間しかなかった年も、父はあの町へ行くことを諦めなかった。

夏休み前日:
早めに帰宅して入浴と食事を済ませるとすぐに就寝。日付が変わる頃に、寝ている子どもたちを母と車に運び、夜通し走る。

夏休み1日目:
早朝に到着。海水浴場で一日中遊び、民宿で一泊。

夏休み2日目:
午前中に海で遊んでから帰路につく。渋滞にはまりながら夜に自宅に到着。

夏休み3日目:
潮風をあびた車を洗い、昼寝。父の夏休み終了!

いくら若かったとはいえ、信じられないスケジュールだ。ここまでくると執念だろう。でも父にとって、この三日間は絶対に譲れない大切な時間だったんだと思う。そして何十年後かに、その町へ移住することになるのだ。もしかしたら父はとても幸せな人なのかもしれない。

父の退職祝いが、家族全員で実家に集まる最後になった。断捨離しまくった家の中はかなりすっきりしていて、食器棚は半分以上スペースが空いている。昔の話で盛り上がり、両親への感謝を改めて伝え、子どもたちはそれぞれの最後の荷物を引き取った。実家とのさよならだと思うと少しさみしい気もしたが、両親が明るく清々しているのが印象的だった。父よ、母よ、これまで本当にありがとう。

家も、仕事も、もちろん子どもたちも、両親を縛るものはもう何も無い。
あの町が父と母を待っている。

次回に続きます。


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