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映画「仕掛人・藤枝梅安」第一部感激の所感

公開2日目に観ましたが、期待以上想定以上で、帰宅後まったく寝付けず。ウトウトしたところに天海祐希さんの顔が泛かび、ハッとしてしまう。考えて、またウトウトする。ハッとする。それを繰り返し、結局明け方になってしまった。
それで蒲団に入ったまま一気にメモを起こしてしまいました。

まともな文章にすることもできたけれど、なんとなくそのときの熱をそのまま残しておきたくて、ほとんどメモのままです。
クセのある文章ですが、残しておきます。

なお、原作は昔に読みましたが、ほぼ抜けています。
映像梅安については主に「必殺仕掛人」を愛していますが、ほかに中村嘉津雄の彦次郎が大好きです。他の梅安は囓る程度しか見ていません。
(私は「必殺仕事人V」から逆流して原作の梅安に辿り着いています)

しかし原作のどこを拾い、他の梅安シリーズと何が違うとか、そういったことは私はほとんど興味を失いました。
まずはこの映画をひとつの作品として観たい。

ネタばれがあります。ご注意ください。
ぜひ先に映画をご覧ください。

ダークナイト、リブート、なるほど

https://youtu.be/jQ_jX0ZzDAM

「仕掛人・藤枝梅安」メイキング動画を見ると、クリストファー・ノーランのバットマン「ダークナイト」の影響がわかる。
なるほど、とても現代的な目線で、複雑さを入れこんで古典をリブートする。
加害者にも過去があり、同情の余地だってあるだろう。
しかしその人が犯す罪に我々はどう対峙するのか?
”ジョーカー”と”おみの”。限定はされないだろうが、そういう意識で掘り下げられたのかと察した。

池波正太郎が書いた淡々とした削ぎ落とされたシンプルな梅安から、同じモチーフ、設定、よいところを輪郭として残しながら、どんどん拡張した。
これはたしかに「新たな梅安」だった。

女ミソジニストの姿は生々しい。
自分が受けた傷を返してゆく。
虐待の連鎖。
シスターフッドに見せかけて同じ地獄に突き落とす。
女とはそう扱われるもの。
そう刷り込まれた女の結果。

池波が梅安のあとがきにも書いている
「人間は、よいことをしながら悪いことをし、
悪いことをしながらよいことをしている」。

梅安の有り難い凄腕針医、裏での人殺し、そして私怨(復讐・弔い)。
おもんを利用し、おもんを真に大切にする。
原作にはなかったところを拡張し、テーマを常にすり込んでいる。
だから少し複雑なのかもしれない。

仕掛人の物語は、悪い奴を裏で殺す。
シンプルになのだけど、脚本的には、実は細部は混乱しそうなくらい複雑ではないか。
それぞれの人物の人生のタイムラインが明確にあり、
”万七の主人=偽善者”さえも、過去は描かれなくとも、はっきりとこの男の浅はかさな人生を理解させている。

万七の主人を、ただの哀れな阿呆だと侮蔑と憐憫で見ていた視聴者も、すすり泣きながら笑っておみのに食いかかるとき、薄々と結末に気づかされ、しかしまだ破けぬ正体の障子1枚を、梅安や羽沢の嘉兵衛という、「常に思考する」人たちの目とことばを借りてはっきりと見抜いてしまう。
矛盾と偽善、本物の矮小さ。
(そして、見る者の目は、コイツには他の「悪」と違って何もない、自業自得であるという本気の侮蔑に変わる。悪党にもなれないくせに、と。)

現実、我々の日常、こんなことが多いはずだ。
「あの人には欲がない、純粋に人のためにやっているだけだ……」
そんなふうにしか見ない人々がいる一方で、「あの人」がかすかに匂わせる欲深さや、底の浅い狡猾さをするっと見抜く人がいる。

たとえば……
仁義めいた美学めいたことを言いながら論理が簡単に破綻してる人。それを庇い立てる人々。
たとえば……
宗教や自己啓発で洗脳された著名人に同情の声で付き従ったファンたち。
その人を庇っていた人たちは、批判し立ち止まったファンを、「本当のファンではない、理解してない」などとしたり顔でなじり、しかしその人が裁判を起こされ、有罪判決のにおいがした瞬間にほっかむりで消えた。

梅安、彦次郎、元締たちは、そういうものを見抜き、そういう目を持った人であり、そうでなくてはならない。
真の悪は誰か。
真の卑怯者は誰か。
しかしそこには驕ることのない、「誰もが正義ではない」という自覚の必要不可欠さ。
この問いかけはわかりやすく現代に調和する。
そして、「自己責任論」はどこまでなのか。

濃厚

細い風が吹いてゆくような、
そういうすっきりと簡潔な美しい文体。
諸行無常を思わせるかもしれない文体。
池波は鉛筆か、いやコンテかもしれない。
池波本人の絵のように、肩の力の抜けた線。
まさに素材極上のシンプルな江戸料理か?
けれど、この映画の梅安は、油絵みたいな感じがある。
ノワールの種類もなんだか違う。
それはそうか。
「海外もの」を意識しているから?

しんしんと雪が降る、そんな静かな文章を、ここまでダーキッシュで特濃で拡張したのは楽しい。
逆に、(梅安の心情などは違うかもしれないが)映画で描かれた複雑な要素を、説明抜きに簡潔に書ききってしまう池波は、やっぱりすごい。

"兄妹"おみの&梅安
天海祐希・豊川悦司
(デジタル)

天海祐希のおみの

あの兄妹の理不尽に背負わされた運命は、原作から拡張されて別物として作り上げられた。それでいいと思った。
それがいくつも作られた映像の梅安を、新しく作るということだと思った。

おみのの死、天海祐希で号泣してしまったのは、
あの美しさがいっそうの悲哀を誘ったから。
久しぶりに散る花の美しさをまざまざと目の当たりにしてしまった衝撃で、押し出されるように涙がとまらなくなった。
(ルッキズムが問題視されるいまでも)あえていうが、
あれがもし、あそこまでの美しい人でなければ?
あの非現実の幽玄美を表現できず、微妙に違う別物の哀しみになっていただのではないか。
一瞬だけ映る、ひとり事切れている横顔。
思い出してたまらぬ震えがくる。
まさに日本の耽美、頽廃を久しぶりに見た。

余韻

それなので、悔しいのは余韻がくずされてしまうこと。
原作「梅安晦日蕎麦」でしんみりと終わるあの最高に美しい余韻、唯一心を許せる彦次郎との仲睦まじさになんとも言えず胸を熱くし、梅安が雪を見上げてエンドロールかと期待したところを、念押しの、おみのの回想。

それはもう、それまで見ていた人ならば誰もが強烈に残ってる残像で、むしろあのおみのの最期をもう一度見たいから、またこの映画を見る理由になりそうなところなのに。なぜ念押しがあったのか。
最愛の妹の死はその人を二度と見られないからよかったのではないか。
梅安が何を思うかは、見る者の心に委ねてほしい。
何を思っているのだろう、と思わせてほしい。
説明はいらない。
行間を味わう、という幸福を味わわせてくれなかったことをとても悔しく思う。

さらにエンドロール後の予告的なエピローグ。
意図は伝わるけれど、それは「作品」ではないのでは。
静かな余韻を噛み締めたいところを、あまりにダイレクトな”醜い”描写で壊される。
まだ早い。
まだ、まずは梅安の切なさに心を傾けていたかった。
彦次郎の凄惨な過去は、作中で匂わせて続編を期待させるのではだめだったのか?
ただテキストで、第二弾公開日というのは?

合間に入る声での説明もわかりやすいが、いよいよこの予告の彦次郎の語りで、やや多いのではないかと感じた。そうしないとわからない人が多いのだろうということも感じた。

余韻についてはもう本当に、この映画で唯一のもっとも悔しいところだった。
(いまでも思い出して美しい哀しみにうっとりするのに、予告の衝撃で悪い意味で邪魔をされてしまう)

役者のすばらしさ

キリがないし、漏れては申し訳ないけれど、すこしだけ残したい。
豊川悦司の患者以外には感情の起伏を見せない、静かな原作寄りの梅安。
ただ立っているだけで、何を見ているのか、彼の心情を探りたくなる。

天海祐希の徹底的な芝居。
声色、声量、何から何までコントロールされたもの。
とにかく天賦の才、鮮やかな容姿・努力する環境・能力・なにもかも神に恵まれた人の底力を見た。

彦次郎の片岡愛之助と、天海祐希のおみのの対峙。
和服に対応できる歌舞伎と元宝塚で鍛え上げられた素養、メイキングで天海さんがおっしゃるとおりの、1日2日、付け焼き刃ではできないこと。

いわゆる外見的な美しさを捨てた早乙女太一。
個人的には昔ながらの緩急のある時代劇の殺陣を好むため、スピード感重視のアクロバティックさを全面に出す、技術のひけらかしを感じてしまうアクション殺陣が苦手なのだが、この殺陣は役としての切迫した殺陣だと感じ、圧倒され、感動した。

梅安たちの”美食”は卑しくみえない。それはやはり最後の晩餐かもという、覚悟と喜びがあるからだろう。

その食を監修、制作した日本料理「分とく山」の総料理長、野﨑洋光氏のメイキング映像で感激したことについても触れなければならない。

「細部に神が宿る」なんていうが、まさにそういうことだろう。
徹頭徹尾、手を抜かない。(某中村主水の逆)
そういうところで緊張感が生まれ、隙がなくなる。

しかし、あれだけの料理だとわかっていて「もったいないからすべて写す」ということをしないから、引き算があるから苦しくはないのか。
濃淡、緩急。
だからあくまで自然に、「生きること=食べること」が物語と映像に馴染んでいるのだろう。
もしこれ見よがしにやれば、「池波正太郎だから食だもんね!」という意識を観客は働かされてしまいかねなかった。
あくまで日常の描写の中の、食。
その位置を、総料理長の野﨑氏はよくよく感じ取っているのだろうかと思った。
物語を書かない人でも、ひとつのことを突き詰めれば、なにか同じことに辿り着くということなんだろうか……。
要領よくやるということに憧れることもあるけれど、やっぱりこういう生き方がいい、と思った。

このメイキングを作ろうと企画された人は、この影の立役者の凄さを、どうしても伝えたいと思ったのか。とてもよかったです。素敵です。

さいごに、江戸の風景

CGなのか、再現された江戸の町並みに感動した。
目に馴染んだ太秦の東映京都撮影所に加えて、
引きで見る富士山と、ずっと奥まで立ち並ぶ灯りのついた家。
一生涯見ることがない江戸の景色に、自分が思った以上に、その時代の街に憧憬を抱いていることを知らされた瞬間だった。

そして梅安が霧の掛かる道を歩くシルエット。
オープニングにある赤い月に照らされて歩くシルエット。

映画としては当然求めるところだとは思うけれど、それでも必殺シリーズから入ってしまった梅安ファンは、美しい映像、カットがあると本当に満たされる。


嬉しくなった

制作発表から楽しみにしていたこの映画だが、思った以上に心が揺さぶられてしまった。
梅安と彦次郎に妙な嫉妬心が湧いて嬉しくなる「梅安晦日蕎麦」がエンディングだったことも、個人的にはとても幸せだった。
ん待ってました! であった。(笑)

必殺シリーズと萬屋錦之介版以外、過去の梅安はあまり見ていない。
岸谷五朗版がせいぜい世代にあたるかもしれないが、その頃はまったく見ていなかった。
ここ数年で必殺シリーズにどっぷり嵌まったおかげで、この映画にリアルタイムで感動できてよかった。
考えてみると、とても奇跡めいた嬉しいことだった。

そしてやっぱり、ここに連れてきてくれたのは「必殺仕事人V」の花屋(鍛冶屋)の政と組紐屋の竜ということで、あのふたりにはまたも感謝した。
たぶん、政と竜がいなければ、梅安に興味を持たずに死んでいたかもしれない。

先輩なのか後輩なのか、なんなのかわからないが、世界旅行でさえやる、しっかり恒例の、人目を盗んでささっとやる写真も撮ってきた。(暗いし性能の限界でクオリティ低い写真なのが残念だが)馬鹿は真剣にやるからいいのだけど、一応、ちゃんと恥ずかしいことも書いておく。

なんだか、久しぶりに「おんなごろし」と向き合ったら、汚いことばで恐縮だけど、「梅安って、静かなるMotherFxxxerなんだな」と思ったりもした。(笑)


(第二弾……)
 さんざん予告に哀しんだが、公開を楽しみにしている。
「そうだね、彦さん」
 夜は、まだ明けない。


 以上(笑)、長かったですが感想でした。

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