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本当に“幸福は創造の敵”なのか?─「映画大好きポンポさん」だけが正解じゃない (2022年映画記録 6)



●はじめに


 2021年に公開された「映画大好きポンポさん」。評論家の方々やnoteライターの皆様の評価が非常に高いアニメ映画だ。
 ……なので、この投稿は猛烈に気が重い。だが、俺はそれでも本稿を書き、批判寄りの意見を表明したくてたまらない。
 本作は、俺の胸中に“奇妙な引っ掛かり”を残していった。肯定否定を問わず“印象に残った”という観点だけで語るなら、今年3月の時点までで観た作品・約30本中でも最高クラス。「スパイダーマン:ノーウェイホーム」をも超えるかもしれない。



 以下より、本作に感じた映画的魅力を紹介したのちに、俺が抱いた心の引っ掛かり──“幸福は創造の敵”という作中メッセージについて可能な限り冷静に語っていきたい。なお、本作を手放しに大絶賛する方々や製作者の皆様を否定する意図は一切ございません。その旨、どうかご理解の程をお願い申し上げます。

●あらすじ・好みだった点


<「映画大好きポンポさん」あらすじ>

 敏腕映画プロデューサー・ポンポさんのもとで製作アシスタントをしているジーン。映画に心を奪われた彼は、観た映画をすべて記憶している映画通だ。映画を撮ることにも憧れていたが、自分には無理だと卑屈になる毎日。だが、ポンポさんに15秒CMの制作を任され、映画づくりに没頭する楽しさを知るのだった。

 ある日、ジーンはポンポさんから次に制作する映画『MEISTER』の脚本を渡される。伝説の俳優の復帰作にして、頭がしびれるほど興奮する内容。大ヒットを確信するが……なんと、監督に指名されたのはCMが評価されたジーンだった!ポンポさんの目利きにかなった新人女優をヒロインに迎え、波瀾万丈の撮影が始まろうとしていた。

見出し画像・文章ともに公式サイトより引用。


 まず、“素晴らしい!”と感嘆した魅力的な点を述べたい。
 青年が悩みを乗り越え成長するサクセスストーリーは素直に気持ちが良い。この素晴らしいストーリーが有ったからこそ、きっと映画化も果たされたのだろう。気合いと遊び心に溢れたカットの繋ぎも楽しく、次はどんな場転が見れるのか?とワクワクさせられた。構図に拘ったアニメ作品は多々あれど、ここまで繋ぎ方に拘ったアニメ作品を俺は観たことがない。素直に新鮮だった。
 原作漫画には登場していないオリジナルキャラクター:アラン君の追加エピソードは強引だが上手く機能しており、「ものづくりモノ」作品のキモとなる重大要素──“一人の強大な情熱が周囲に波及する”に華を添えている。制作資金集めにクラウドファンディングを用いるのも現代的な解決策だ。少々無茶で非現実的でもあるが……。



 では、そんな本作はキャッチフレーズ(公式サイト「INTRO」参照)通り、「夢と未来をつかもうとするすべての人に贈る、青春ものづくりフィルム」になっているのだろうか?
 ……残念ながら、俺はそのように受け止められなかった。

●「満たされた人間はクリエイターになれない」に対する異論



 さて、先述の理由について述べる。
 これはポンポさん自身の思想か、或いは原作者の思想か、それを踏襲した映画脚本家の思想かは不明だ(フィクションを楽しむ際には、必ずしもキャラクターの思想=作家の思想とは限らないことに留意する必要がある)
 劇中の序盤、ポンポさんに自分を見出した理由を問うジーン君。それに対するポンポさんの回答は「スタッフの中でもダントツで目に光が無かったから」。そして、このような台詞がイメージ映像付きで断言される。

「満たされた人間はクリエイターになれない」

「満たされた人間はモノの考え方が浅くなる」

「幸福は創造の敵。彼ら(意訳:ジーン君以外の満たされた目をしたスタッフ大多数)にクリエイターの資格なし」

 ※“満たされる”“幸福”は広すぎる意味合いの言葉だが、当該シーンにおいては友人関係・異性関係・スポーツといった所謂“パブリックイメージとしての青春時代を謳歌できていること”として描写・定義されていた。よって、本稿においても上記の定義に準ずる。

 原作の漫画では半ばギャグ的に処理されている場面だったので、自信の無いジーン君を鼓舞するための口八丁だったのかもしれない。とはいえ、公式サイトのキービジュアル右側(見出し画像参照)に堂々と“幸福は最大の敵──”と描写されていることから、これは明確に本作が主張したがっているメッセージ・テーマ、いやむしろ説教だ……と俺は解釈した。

●メッセージへの異論と実体験


 ちょっと待ってほしい。
 確かに鬱屈は表現の源となりうる。それ自体は間違いない。俺自身も鬱屈を爆発させたエッセイを書くことがある。だからこそ凄く納得できる。
 一方、表現欲、そして表現力を生み出すのは、決して負の感情だけではない。純粋な好奇心。モノやヒトに対する愛情。そういった正の感情から産まれた作品だって、世の中には無数に存在する。そもそも「映画大好きポンポさん」という作品自体、原作者の“映画愛”や“創作愛”という正の感情の産物ではないのか……?
 それに恵まれた環境で育ち、恋人や友人達に囲まれ、成功体験を積んだ人間だって、クリエイターを目指して良い筈だ。キャッチフレーズで述べられた“夢と未来をつかもうとする人”とは、決して満たされない青春を送れなかった人に限らないだろう。



 例えば、これは俺の個人的な話。
 俺は大学時代に一作だけ演劇の脚本を書き、それを上演するために仲間を募って公演を企画した経験がある。しかし、その熱意は本作で“クリエイター資格”として語られた“満たされなさ”“社会と切り離された精神世界の広さ”とは全く違うベクトルから湧き上がっていた。
 「自分で想像・創造した物語を具現化したい」。そんな好奇心と衝動に突き動かされ、俺は一心不乱に脚本を執筆し、多くの人々の力を頼り、公演成功の為にありとあらゆる手を尽くしたつもりだ。



 そんな当時、俺は比較的充実した学生生活を送れていた。今でも交流が続く程に素晴らしい仲間と出逢えた。高校生の頃に抱いた初恋は(一時的にだが)成就した。講義も楽しく学べていた。バイトをせずとも生活できる金銭的・時間的余裕があった。無論過去から続く悩みやコンプレックスだって持ち合わせていたが、そういった泥濘ぬかるみに足を取られない程の幸福感を抱いて生きていけていた。俺が人生史上最高に創作意欲が沸いたのは、そんな恵まれた時期だった。
 自分が満たされていたからこそ、俺は雑念を完全に排したストレスフリーの境地で内面=妄想の世界へトリップでき、存分に筆を走らせることが可能だったのだと思う。
 もちろん執筆や企画は簡単でも単純でもない。数多のストレスに襲われた結果、公演終了時に俺の体重は約5kg落ちていた(企画開始段階では元々54kg程だったが、49kgまで減った)。上演中も「俺の物語は来場者の方々に届くだろうか…」といった不安にかられ、小劇場の受付でうずくまっていた。だからこそ、作中で語られる“創作物の産みの苦しみ”も、自分なりに理解している。



 自分は自分、他人は他人。事実は事実。フィクションはフィクション。考え方は異なって当然。それに、自分の思いが作品の主人公の主張と違うから気に入らない!等といった幼稚な思考は持っていない。しかし、本作が主張する上記のメッセージが仮に“創作の世界の真理”だとしたら..…。俺は世界に向けて雨泥を投げ付けながら、思いっきり叫んでやりたい。



 “ものづくりの世界”には選民思想が蔓延はびこっており、社会的に満たされた人間を排斥・全否定することで成立しているならば、そんな理不尽な世界なんぞクソ喰らえ。
 ……と。

●もし、好意的な解釈をするのであれば


 ただ、これは因果関係の問題で、「クリエイターを目指す人は、表面的に恵まれていても実は鬱屈した内面を抱えている」との言い換えが出来なくもない。
 「鬱屈していない人なんかいない。だからこそ、人は誰でもものづくりの資格があり、クリエイターの仲間入りができる」この捉え方を意図した発言だったのであれば、本作が発するメッセージは非常に納得できる。とてつもなく行間を読み好意的に解釈すれば、ポンポさん・原作者・劇場版製作者も、そういったニュアンスの普遍的なメッセージを伝えたかったのかもしれない。



 例えば祖父のコネを受け継いで映画製作を行い、現場で明るく傍若無人に振る舞うポンポさん。きっと彼女には彼女なりの苦労や苦悩があったことだろう。祖父からは英才教育という名の教育虐待(気に入らない映画であろうと鑑賞を強要される)を受けたようにも見えるし、終盤で語られる「実は一度も映画鑑賞で感動したことがない」という発言も、ある種の鬱屈から生まれたものもしれない。そういった“一見光の側にいるクリエイター”の陰の側面がもう少し強調されていたならば、俺が本作から受けた傲慢な印象は無くなったと思われる。
 しかし、こうした言い換えは、少なくとも作品上では成されない。そもそも、上記の台詞はジーン君以外の“満たされた目をした若手スタッフ”を明確に卑下して語られた言葉なので、残念ながらこちらのニュアンスは含まれていないのだろう。

●最後に(+「90分問題」について)



 さて、「映画大好きポンポさん」で語られた痛烈なメッセージは、確かに正しいのかもしれない。だが、正解はその一つだけではないはず。「2時間以上の集中を観客に求めるのは現代の娯楽として優しくない」「映画は90分以下であるべき」というポンポさんの一貫した主義主張(こちらも明確に映画が発していたメッセージ)も同様だ。


 往年のキャノンフィルムズ作品など、短い尺で面白い映画は沢山ある。娯楽映画は短いほど良い、との感覚も理解できる。だが、それと「映画たるもの90分以内であるべき」という考えを結び付けるのは早計かつ短絡的、ある種の思考停止ではないだろうか。
 作中で述べられた「3時間でも4時間でも長く映画を観ていたい」とのジーン君の意見は、「これだから映画バカは!」というポンポさんの台詞であっさり一蹴されてしまう。いや、その言葉に対する反論シーンは絶対必要だった。ジーン君よ、君は「タクシードライバー」が好き……という設定なのだろう?90分に削られた「タクシードライバー」なんて、どう考えてもあり得ない。それぞれの物語には適切な尺がある。無闇に90分以下に収めればいい訳ではない。「映画館側は回転率を上げるために短尺の映画を好む」等の理屈が語られればまだ一応納得できたが、作中でそのような言及はみられなかったのが残念だ。



 ……話が逸れてしまった。
 表現に必要な資格とは何か?そもそも資格なんて必要なのか?何かを産み出す原動力とは?それらに普遍的な正解は存在するのか?
「映画大好きポンポさん」は、観た者に様々な疑問を投げかけた意義深い作品だった……。せめて、俺はそう納得したい。

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