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〜臆病な自尊心と尊大な羞恥心〜 「バケモノの子」にみるミスチル「Starting Over」の考察 (前編)


 細田守監督の「バケモノの子」を久々に観た。
 細田監督の長編映画は全て観ているが、本作は三番目に好きだ。(一番は「ぼくらのウォーゲーム!」、二番は「時をかける少女」。)映像表現・演出面は非常に素晴らしく流石細田監督!と感心させられるが、過剰な御都合主義や説明台詞が多い割に物語自体は説明不足…といった欠点があるのも否めない。私事だがリアルタイム鑑賞後、当時交際していた彼女の絶賛に対して歯切れの悪い回答をしてしまい機嫌を損ねた苦い記憶もある。
 いやいや、俺は決して「バケモノの子」が嫌いなわけではない。むしろ割と好きだ!作品のプロット自体は魅力的だし、少年期・青年期の大胆な二部構成も、生まれと育ちの狭間で登場人物のアイデンティティが揺れ動く展開も面白い。良い意味で物語の向かう先が見えない点にもワクワクさせられる。
 そして本作で最も気に入っているのは、ヴィランとなるキャラクター「一郎彦」の描写と、Mr.Children(ミスチル)の主題歌「Starting Over」だ。


 まず、一郎彦について。この「主人公と鏡像関係にあるヴィラン」というキャラクター造形(近年のディズニー・ピクサーアニメに多い気がする)が凄く良い。俺好みだ。デザイン上の違和感(猪人間である両親・弟とまるで似ておらず、どう見ても普通の人間にしか見えない)がそのまま伏線になっているのも好ましい。
 そんな一郎彦は普通の人間であることを隠し、獣人の子として生きてきた。しかし終盤、謎の能力に覚醒し巨大なバケモノに変貌を遂げてしまう。本作は諸々説明不足な点があり、この件についても「心の闇が〜」という抽象的説明に終始するばかりでハッキリした理屈は描かれない。しかし考察材料はある。




 地上波放映ではカットされたスタッフロールにて、メルヴィルの『白鯨』と共に中島敦の『悟浄出世』(岩波文庫『山月記・李陵 他九篇』)が参考文献として提示される。少年期の冒険パートはこの作品の展開をそのままなぞらえているらしい。
 そして、やはり中島敦といえば『山月記』。小学校と中学/高校で二度習った記憶がある。内容を忘れた人にも「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」「李徴」「虎になっちゃうやつ」といった言葉で通じるだろう。
 一郎彦は李徴と同じ道を辿ってしまったのではないだろうか。「“最強の義父の息子でありたい”という臆病な自尊心、“渋天街では差別対象である普通の人間であることを隠している”尊大な羞恥心」が、彼をバケモノへ変えたのだろう(李徴が感じたそれら二つの意味とはだいぶ異なるが)。あまりにも抽象的な解釈だが、中島敦の引用自体が一種の答え合わせとして成立し得るのではないだろうか。





 そして物語の締め括りを彩る、Mr.Childrenの主題歌「Starting Over」について。ミスチルファン一個人としての俺の主観だが、メロディ・歌声・歌詞…その全てにおいて2010年代ミスチル最高傑作と断言できる楽曲だ。
 歌詞を引用すると著作権に引っかかりそうなのでリンクを貼るに留めたい。なお、以下は公式にUPされたライブ映像である。





 ざっくり歌詞を要約すると、【「虚栄心、恐怖心、自尊心」ともわからぬ自分の心の深淵をモンスターに喩え、葛藤しながらもそれを撃ち殺して前に進もうとする】という、攻撃的かつ叙情的な内容だ。このモンスターの喩えからは、どうしても『山月記』の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を連想せざるを得ない。
 また「僕だけが行ける世界で〜」というサビの歌詞は、嫌が応にも「バケモノの子」本編を想起させる。
 この歌があってこそ一郎彦の変貌に対する説得力が増し、ストーリーの補完にもなる。まさに本編の内容を反映させた、素晴らしい主題歌ではないだろうか? 




 …と、俺は根拠もなくずっと思い込んでいた。
 「素晴らしい主題歌」であるという考えは今も変わらない。しかしネットサーフィンをしている最中に見つけた情報で、俺は自分の考察の早計さに気付いてしまった。
 以下に、タイアップ決定時のニュース記事を引用する。

そんな夏休みの国民的映画となるべく、製作が進められている同作の主題歌を検討した製作陣は、同じく国民的アーティストともいえる「Mr.Children」にオファー。打合せを重ねる中で細田守監督がアルバム「REFLECTION」に収録される「Starting Over」を聴き、歌詞・楽曲ともに映画の世界観を表現していると絶賛。同楽曲の主題歌起用が決定した。


 つまり「Starting Over」の歌詞は映画の内容になぞらえて作られたものではなく、偶然の一致だったことになる。ミスチルファンである以上、一応関連ニュースや書籍インタビュー等には目を通していたはずなのに...。勝手な思い込みが恥ずかしい。
 しかし、様々な疑問が湧き上がってくる。
 果たして本当にそうなのか? 選曲理由をあえてドラマチックに演出しているだけではないのだろうか? 中島敦を引用した作品の主題歌に指名したアーティストが、丁度『山月記』を彷彿とさせる歌を作っていたなんて偶然はあり得るのか? いや、そもそも「Starting Over」が『山月記』を参考にした根拠はあるのか? どこかのインタビューで別の理由が言及されていたりはしないか?




 謎(あるいは妄想)は尽きないし、検証しようにも限界がある。なので疑問を当初抱いた【本当に「Starting Over」の歌詞はバケモノの子と無関係だったのか】に絞ることにする。
 この件について検証するため、様々な書籍・映像資料の情報をもとに、「Starting Over」歌詞の制作経緯を可能な限り解説・考察したい。

長くなったので後編へ続きます!

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