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「批判」と「中傷」の違い。

有難いことに、この1週間で、私の書いた記事を10万人以上の方が閲覧してくださいました。ありがとうございます。どんな受け取り方でも構わず、沢山の方の考えるきっかけになれたら、と書いた記事でした。

できれば、「小林賢太郎氏の名前を今回初めて知った」「今回の件自体よく知らない」という方に、一人でも多く広がることを祈っています。
また、今回の問題を言語化できずに苦しんでいる方には、誰かと会話する際の手助けになる文であれば幸いです。いくらでもコピペしてください。

今回、記事をしたためることで、私自身、新たに気付いたことがあったので、自分のメモがてら、こちらに記載します。
それは、今回の件を「知りたい」と思う気持ちは、今、ネット上に蔓延る誹謗中傷の罠に、自分自身を陥らせない防御策にもなるということです。

私は、今まで漠然と、「中傷」はダメだけど、「批判」は真摯に受け止めるべきだと考えてきました。なぜなら、「批判」は、耳に痛いながら、その問題をさらに突き詰め、考えを一歩先に進めてくれる起爆剤にもなるからです。(画像を「寄生獣」ミギーにしたのは、人間を勉強し、よく批判していたからです。可愛い…。)

しかし、今回、「批判」の皮を被った「中傷」があまりに多いように感じ、2つの違いが一体なんなのか、今回の記事を書いて、自分なりに整理できました。

「批判」は、相手を知ろうとした上で、発する言葉で、
「中傷」は、相手を知ろうともせずに、発する言葉なのだと。

意見の違いで、相手の言い分に耳をふさぎ、一方的に自分の考えをぶつけた時、それは「中傷」になりうるのだと思います。
一歩立ち止まり、相手がなぜそのようなことを言うのか、振る舞うのか、想うのか…たとえ、わかりあえなくても、知ろうとする力が働けば、次に出てくる言葉は、おのずと意味のあるものに変化するはずです。口頭と違って、文章の利点は、自分のリズムでいくらでも立ち止まれることです。

自分が、自分の想いをわかってもらいたい分だけ、
相手だって自分の想いをわかってもらいたい。
文章を送る時、深呼吸して、相手の言葉の奥にある意味を知ろうとしてみる。言葉を受け取る相手がどう思うか想像してみる。その積み重ねが、私が鈍感で獰猛な化け物になることを食い止めてくれる気がしています。


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