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一冊の書に歴史あり 『書籍修繕という仕事(어느 책 수선가의 기록)』

 私は幼い頃から本が好きで、書店や図書館のように本がたくさんある場所も大好きです。これまでいろんな土地で暮らしてきましたが、どこに行っても私のそばにはいつも本がありました。

 こう書くと、「文学少女」や「本の虫」といった印象をもたれるかもしれませんが、実際はちょっと違います。書棚に並んだ本の背表紙をただ眺めているだけの日もあるし、本を開いたとたんに眠ってしまう日も多いし、かばんの中に本を入れたまま、何日も時が経ってしまうこともある。挙句の果てに、読んだ本の内容は大抵すぐに忘れてしまいます。だから、読書好きな人の前で「本が好き」だなんて大きな声では言えません。でも、本そのものを好きだという気持ちは、何十年生きてきても変わらないんですよね。

 私にとって本との出会いは、人との出会いに似ています。本を通して著者や翻訳者、編集者、イラストレーター、装丁家たちと出会い、心を交わす。その時間がとても心地良く、楽しいのです。要は、何かを表現したり、作っている人たちが好きなのだと思います。

 読んだ本の内容をすぐ忘れてしまうからこそ、1冊の本と何度も出会い直すことができるし、読むたびに毎回多くの発見があります。本は良い時も悪い時も変わらずそばにいてくれて、その時の自分に必要な気づきを与えてくれる、良き友人のような存在なのです。

 こんな風に、読んだ後、自分がどれほど本が好きかについて誰かに語りたくなる。そんな一冊に出会いました。それは、韓日翻訳家の牧野美加さんが翻訳されたエッセイ、『書籍修繕という仕事 ー刻まれた記憶、思い出、物語の守り手として生きるー』(ジェヨン著/原書房)です。

 このエッセイは、アメリカの大学の図書館で書籍修繕家としての経験を積んだのち、韓国・ソウルで作業室「ジェヨン書籍修繕」を始めた著者・ジェヨンさんが、依頼された本にまつわるエピソードを思い返しながら、書籍修繕家の仕事やその在り方について考えたことを綴っています。

 彼女の元には、自分のために、誰かのために、辞書や聖書、旅先で買った本や童話、漫画、日記、アルバムなどを修繕したいという人たちが訪れます。エッセイ集の巻頭には、修繕前と修繕後の写真がカラーで掲載されており、それを見るだけでも書籍修繕の仕事がどれほどの時間と技術を要するものなのか、伝わってきます。

 辻仁成氏の小説『冷静と情熱のあいだ』には、美術絵画の修復士を志す主人公が登場しますが、ジェヨンさんの仕事は「修復」ではなく「修繕」。依頼人がそれを望んでいれば、染みや落書きなどはそのまま残しつつ、本をよみがえらせるのです。

 書籍修繕家は技術者だ。同時に観察者であり、収集家でもある。わたしは本に刻まれた時間の痕跡を、思い出の濃度を、破損の形態を丁寧に観察し、収集する。本を修繕するというのは、その本が生きてきた生の物語に耳を傾け、それを尊重することだ。

『書籍修繕という仕事ー刻まれた記憶、思い出、物語の守り手として生きるー』より

 このエッセイを読むまで、表紙にカバーをかけたり、線を引いたりページを折ったりしないことが本を大切にする方法だと思っていましたが、ジェヨンさんは全く逆の考えの持ち主でした。例えば、本をぎゅうぎゅう押し広げたり、書き込みをしたり、好きな物を食べながら一番好きな本を読むというのも、本と親しくなるための努力であり、本を愛することだと言うのです。その結果生じた染みや汚れなどの破損は「本に対する愛情の痕跡」であり、その愛の形を残したまま修繕することで、依頼人にとって世界に一冊の本ができあがるのだ、と。

 そんな話を聞くと、わが家の4歳児がかじったり、破ったり、ジュースをこぼしたりしてボロボロになった本たちが、途端に愛しく思えてくるから不思議です。彼が大きくなった時、恐らく本人は全く覚えていないでしょうが、私は本に残された愛情の痕跡を見て、幼かった息子との時間を思い出すのでしょう。

 私はまだ息子に電子書籍を与えたことがありませんが、エッセイの中には、タブレットPCで電子書籍を読んでいる4歳の子どもの話が出てきます。ジェヨンさんが友人の子どもに本を読んであげようとしたら、「好きな本は全部これに入っている」と言って、タブレットPCを持ってきたそうなのです。韓国に移住して以来、電子書籍にはとてもお世話になっていますが、本という名の友達には、タブレットPCやスマホの中ではなく、やはり手で触れられる形でそばにいてほしい。そう思ってしまったエピソードでした。

 私は読書する時、一冊読み終えて次の本を読むのではなく、同時進行で何冊もの本を読むことが多いのですが、そんな読み方をしていると、時々、不思議なシンクロニシティが起こることがあります。例えば、この『書籍修繕という仕事』を読んでいる間、同時に『幸せな自信の育て方ーフランスの高校生が熱狂する「自分を好きになる」授業』(シャルル・ぺパン著/児島修訳)という本を読んでいたんですが、第6章にこんな一節が登場し、ハッとしてしまいました。

 私たちは、モノとの直接的な関係を失いつつある。高性能のデジタル機器のおかげで、人々はものづくりの世界からますます遠ざかるようになった。親指でスマートフォンの画面をスワイプすることが増えたぶん、モノと直に触れ合う機会は減った。(中略)

 スマートフォンが動作しなくなったとき、私たちがどんなにパニックになるかを想像してほしい。「デジタルの松葉杖」がなければ、私たちはもはや自力で歩くことさえできない。(中略)

 人間の心の本質は、モノとの関係の中で明らかになる。そのため、手を動かして何かをつくる機会が減ると、自分らしく生きていることを実感しにくくなる。(中略)手や知性、心を働かせてモノをつくることは、自信を得るためのたしかな道になる。

『幸せな自信の育て方ーフランスの高校生が熱狂する「自分を好きになる」授業』より

 電子書籍を読む4歳児も、幼稚園などで本に触れる機会はあると思いますが、普段の読書がタブレットPC中心だと、本の重みや紙をめくる感触、本棚から読みたい一冊を探し出す瞬間のときめきなどは感じにくいでしょう。本と直に接していたら経験するはずのことを知らずに大きくなれば、自分で手書きの本を作ってみようとか、傷んだ本を修繕しようなんて発想すら浮かんでこないかもしれません。

 私自身を振り返ってみても、韓国生活で紙の辞書を持ち歩くことはなく、毎日スマホに入っている辞書アプリのお世話になっています。日本の家族と連絡をとるのも、お金を払うのも、ドライブする時のナビゲーションも、すべてスマホ頼み。まさに「デジタルの松葉杖」に支えられて生きているのです。

 スマホなどの電子機器 が登場する前は、紙の辞書をひき、手紙を書き、財布を持ち歩き、紙の地図を何度も広げたり、人に尋ねたり。今よりもっと手と頭とモノを使い、人を頼っていました。人間は便利さと引き換えに、生きる力と知恵をどんどん失っているような気がするんですが、気のせいでしょうか。

 私は前々からそんな危機感を抱きながら暮らしてきたので、ジェヨンさんのように自分の手や知性、心を働かせてモノを作っている人たちに尊敬と憧れの念を抱くのかもしれませんし、「自分もいつか本を書いてみたい」、「食べるものや着るものなども作ってみたい」と夢見てしまうのかもしれません。

 断捨離やミニマリズムなど、モノをもたない暮らしが流行る世の中で、紙の本を買い続けたい、作りたい、修繕したいと思うのは、時代に逆行しているのでしょうか?私はいつか人々が「やっぱり紙の本がいいよね」とか「メールより手紙の方がいいわ」なんて、アナログに回帰する日が来ると想像しているんですが、みなさんはどう思いますか?

 最後にもうひとつ、ジェヨンさんのエッセイを読んで思い出した辞書にまつわるエピソードを書き記したいと思います。それは昨年夏、韓国人夫の娘(当時16歳のZ世代)が2か月間の韓国滞在を終え、フランスに帰国する直前のこと。夫が手垢まみれの英英辞書を彼女に譲るという出来事がありました。

 その辞書は彼が20代の頃、イギリス留学中に毎日使っていたもので、帰国の際に重量オーバーのためトランクから出し、ホストファミリーに預けたものでした。それから10数年後、新婚旅行で私と一緒にイギリスを訪れた時、ホストファミリーが大事にとっていてくれた辞書をついに韓国へ持ち帰ったのです。

 夫の娘は、赤ちゃんの頃から肌身はなさず一緒だったウサギのぬいぐるみを韓国の家に置いていくかわりに、本を一冊フランスに持って帰りたいと言いました。そこで夫が選んだのが辞書でした。2000年頃に韓国・ソウルの古本屋で購入した『ケンブリッジ英英辞典』が、イギリスで長い時を過ごしたのち韓国に戻り、2022年夏、フランスへ旅立っていったのです。辞書もこんなにいくつもの国で過ごすことになるとは、想像もしていなかったことでしょう。

 あの辞書のことを振り返ると、「一冊の書に歴史あり」だと思わずにはいられません。父から娘へと引き継がれた辞書が、これからどんな物語を刻んでいくのか。私は密かに楽しみにしています。



 

 

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