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胎内記憶の動画からイラつく

昨日ひょんなことから『胎内記憶』の動画をみた。過去を振り返ると涙が溢れる。何か本当のことを思い出そうとするとイライラする。過去は幸せだった?毎日泣いていた気がする。

母は私の話を聞かない。そして聞きたくない話を延々と話す。聞いて!と思っていた。でもたとえ彼女が私の話を聞いたところでどうだろう?彼女に何がわかるのか。母の話は金の話ばかり、金儲けの話。私が稼ぐことができない金の話、退屈だったし悲しかった。

家族で話をしていても、私の話を遮って金儲けの話や自分がどうであったかの話をする。割り込んでやってくる。どうでもいいことだからほっとけばいい。害はない。弱い立場の私はだまるしかなかった。弟は母のつまらない話をちゃんと聞いている。私のどうでもいい話も聞いている。立場が下だからという理由かもしれない。私などは最下位である。そう確かに世の中は金次第、金があればなんとかなる。有名人と友達になることも、宇宙に行くことも、総理大臣としゃべることも、莫大なお金があったらできる。金があれば虐げられない。金があれば差別を受けない。金があれば酷い目にあうこともない。金がその人を守る、それはそうだと思う。

金を稼ぐ、自分を守るために、自分が生きるために。でも私はもはやそれもできない。なぜできないか? それはやる気がないからである。そもそも生きていることさえ無駄と感じる。

どうして受け入れられなかったのか、私は父からも母からも受け入れられなかった。それがきっととても悲しくて、今でも涙がでるのだろう。あのとき、付き合っていた彼がいなくなったあの日から再びずっと泣き続きてきた。私が受け入れられなかったという最たる出来事だった。幼少期から受け入れられなかった自分という嫌なとてつもなく嫌な感覚が常に彼と付き合っていた7年を除いた44年の間私の心に巣食っていた。呪いだ。

父は母に甘えていた。幼い頃父親他界、片親で7人兄弟、誰が彼を面倒みたのか。父は母に自分の母という役割を求めていた。まるで子供だった。子供の私よりももっと子供であった。

何が悲劇だろうか。食べ物や寝る場所はある。何かもあるのに、私がどこにもいない、透明なのだ。私がいるのにいないようなふりをする。私が働けない理由?多分メンタルが育たなかったのだろう。この豆腐のようなメンタルでどんな仕事が務まろうか。泣き虫で弱虫で甘ったれでいつもウジウジしている。私、今51歳。鏡をみる。若く美しかった頃の自分と51歳の今の自分。物憂げな感じは変わっていない。

漠然とはしていたけど、幸せを感じられない理由の原点はそこかと気がついたのは遅かった。私がいつも灰色なのはそこだったのに、ずっと気がつくことができなかった。みんなイバラの道を歩む。私はいつまでも「いやいや行きたくない」と言って足踏みをした。立ち止まったまま、そして大人になって、自分に嘘をつく。いきたくないんじゃない、今はちょっと忙しいから。

なぜ私は彼らのもとに生まれたのか。彼女は『あなたは橋の下から拾ってきた子供』と言ったことがあった。なぜそんなことが言えるんだろう。私とあなたは赤の他人です、と子供にいえる心境とは。その言葉は幼い私の心をえぐった。

私は彼らの子供となって彼らを救えただろうか?私は責任を果たしただろうか?うまく果たせなかったかもしれない。でもきっと弟がやってくれたと思う。何も変わらなかった父と母、そして私。

高尚な人間とか立派な人間とか、レベルが高いとか、そんなのは髪の色が茶色なのか黒なのか、瞳の色が青なのか茶色なのか、そのくらいのことだ。足が速いだとか歌がうまいとか、そんなことと同じで命の危機には及ばない。でも金を稼ぐのがうまいのは特別。

ところで、私がここに生まれてきたわけは。胎内記憶的に。

お金が欲しい人は貧しい家庭に生まれるそうだ。私が求めることは私の話を聞いてくれること。多分それらは父も母も同じ課題を持って生まれてきたはず。金欲もあっただろう。彼らは二つの課題を見事にクリアしたようにみえる。或いは、彼らがちゃんとクリアできなかった課題を私が引き継いだのかもしれない。聞く耳を持つ事。私は娘の事に耳を傾けてきただろうか?ちゃんと見つめてきただろうか? できたつもりでいる。でも暗闇を生きた私が彼女の成長の中で光を見せる事はできなかったのかもしれない。

今の私は死んでいるみたいに何もする気もなく、ただ食べてトイレに行って寝る消費するだけの人間である。消費するだけのこの私に生きる価値はなく、そもそも価値ってなんだ。灰色の私の原点。これでいいのか? いいわけはない、そう思う。でも何もしたくないから動けない、生きるってしんどい。もしかして、鬱なのかもしれない。

51歳。気が付いたらそうなっていた。涙があふれる。ごめんね、私。うまくできなかった。この人生全然うまくいかなかった、本当ごめん、幸せにできなかった。でもね、まだ遅くないよ。だってまだ生きてるもの。

私は新車の輸入車に乗っている。もとい、私が持っているのではなくて私の親が持っていた金で買った車を私が勝手に乗っているのである。彼らが建てた家に住み、彼らが買った食品を食べ、彼らの稼いだ金で私は生活している。何不自由なく、しかもこれからもおそらく死ぬまで安泰。

私は私の家族を築きその家族の中で暮らしたいと感じている。そうやって私は私になりたいと、でも出来ずに結局死ぬまで動かないでこのままなのかもしれない。ここにダラダラ居座って、過酷ではないなんとなく生きるという時間を過ごす

そもそも私は幸せになりたいと思っている、今でも。どうして今幸せを感じないかといえば、自分が自分ではないから。人の金で食べているから。人の家で生きているから。人の金で生きているから。でもお金って?名前書いてないし。そこに金があれば金だ。でも私を幸せにするのは金ではない。お金は少しはいるけど、ただ金がるでは幸せにならない。

私が生まれてきたのはどうしてか。多分天国でアホなことをして、ちょっと行ってこい、みたいなことになり、母のおなかに入ったのだろう。話を聞かない善人の母のおなかに。







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