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正義論の名著 (中山 元)

(注:本稿は2012年に初投稿したものの再録です)

公共善

(アリストテレス)

 「正義」といえば、日本ではマイケル・サンデル氏の講義・著作が大きなブームとなりました。

 本書は、古代から現代までの西洋哲学における「正義」の思想のエッセンスを概説したものです。正直なところ、私の理解度は20%ぐらいでしょうか。
 その中でも、いくつか私の興味をひいた部分を覚えとして書き留めておきます。

 まずは、古代ギリシャ、プラトンとアリストテレスの思想に触れているところです。

(p28より引用) プラトンの正義の理論は、何よりも正義を人間の魂の内的な調和の問題として考察するというところがユニークである。・・・
 これに対して・・・公共善としての正義の概念を確立したのがアリストテレスである。

 「公共」という概念を意識したことにより、アリストテレスの「正義」は政治的な性格を備えることになりました。

(p31より引用) 正しい行為とは、たしかに個人の倫理的な資質であるが、その目的は魂の調和を維持することではなく、「国という共同体にとっての幸福またはその諸条件を創出し守護すべき行為」という政治的な目的を兼ねそなえているのである。「善き人間であるということと、ある任意の国の良き市民であるということは、必ずしも同じではない」のである。

 この考え方は「共同体の法律の遵守」という普遍的な「法における正義」ですが、もうひとつアリストテレスは特殊な正義として「均等性における正義」も議論していました。そして、こういったアリストテレスのポリス的正義論は、その後の西洋の正義論の思想的基軸となりました。

 この「ポリス的」思想をより普遍的に人類全体に適用されるよう拡大させたのが、ヘレニズム時代のストア派の学者でした。
 彼らの考え方は、共和政ローマ期の政治家であり哲学者でもあったキケロの著作においてみることができます。

(p42より引用) キケロは「同胞市民に対しては配慮すべきだが、他国人についてはその必要がない、と言う人々は、全人類に共通の社会を破壊している。この社会が消失すれば、親切、篤志、善良性、正義も根こそぎ失われてしまう」と明言している。ここにはギリシアの狭さを超越した人類のための正義の思想がはっきりと語られている。

 このようなオープンマインドは、征服民に対しても市民権を与えたローマ帝国の政治にも通底している思想ですね。

 その後、ローマ帝国ではキリスト教が国教となり、それに伴い「公共善としての正義」の概念も変容していきました。

(p47より引用) キリスト教の信仰においては、「正しい人」はもはや社会的な正義を行う人ではない。「神を愛し、また隣人を、人間にしたがってではなく、神にしたがって、自己自身のように愛することを志す人」こそが、善き意志をもった人と呼ばれ、「正しい人」と呼ばれるのである。

 アウグスティヌスは「身体も魂も神に服属する」ことを正義といい、「神学大全」で有名なトマス・アクィナスは、このキリスト教的正義とアリストテレス的正義との理論的調和を目指したのでした。

社会契約論と市民社会論

(カント)

 本書の第二章「社会契約論と正義」の中では、「公共善」とは別の、「自分自身の利益のための社会」という観点からの正義の議論の系譜が紹介されています。
 その流れは、ホッブズに始まりスピノザ・ロック・ルソーと続きカントに至ります。
 カントは、人類の歴史は正義が実現されるための歴史であると考えました。

(p125より引用) 当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいて全体的な社会を構築するようになる

 自然状態から社会状態への移行です。そしてその「社会」において正義が実現されます。

(p126より引用) 人間の作りだす社会は、「普遍的な形で法を執行する社会」、すなわち正義の社会でなければならない。

とされ、さらにその論は「共和制」から「世界公民状態」へと続きます。

(p134より引用) 共和制こそが、自由を原理とする国家体制であり、これは「人民の名において、一切の国民の提携のもとに、彼らの選出議員たち(代議士たち)をつうじて、彼らの権力を処理するための人民の代議制」である。この体制に到達することが、すべての政治体制の目的である。そこでこそ、国民は自由で平等になり、完全な正義が実現されることになるだろう。
 このようにしてすべての国家は共和制に到達することが望ましいのであり、この共和制の諸国家で形成される連合こそが、永久平和を実現するために出発点となるだろう。

 このあたりの主張は、カントの後期の政治哲学の著作である「永遠平和のために」で具体的に展開されています。

 さて、こういった一連の社会契約論者の論調に対して、「個人の徳」という観点から正義を考えたのがスコットランドのヒュームでした。

(p139より引用) 社会契約の系譜の哲学者たちは、カントのように悪人でもたがいに正義を尊重できるような社会の仕組みを考えるが、ヒュームやスミスの市民社会論の系譜の哲学者たちは、市民社会の仕組みのうちに、人々を善き者とするメカニズムがそなわっていると考える。社会そのものが、人間に正義の価値を教えるのである。

 この考え方は、私にとってなかなか興味深いものがありました。
 この論をもう少し具体的に辿ってみます。

(p144より引用) 社会契約の正義の理論では、契約によって所有権を保護する法律が定められ、その法律を遵守させ、侵害を処罰する政府が樹立される。しかしヒュームの理論では、所有権そのものが正義の産物であり、・・・社会における所有関係は、「自然な関係ではなく、道徳的な関係であり、正義を根底とする」のである。

 「本来人間は利己的な存在である」とヒュームは考えます。そして、この「利己」が「正義」に至るというのです。

(p145より引用) 人間の本性は利己心にあり、これは正義を守るものではない。しかし人間の利己心が、人間に正義を守ることの利益を教えるのであり、その意味では人間の本性は正義を実現するようになっているのである。「自利は正義を樹立する根源的な動機である」ということになる。

 「人々は社会に暮らすうちに、その本性から自然と正義を学ぶ」というこの立論は、とても独創的です。それも「利己心」がその根源であるというのは逆説的ですが、それゆえ説得力を感じます。

逆転の正義

(ニーチェ)

 本書は、西洋における「正義」の思想を古代から現代に至る流れの中で概説したものです。基本は、進歩史観的な変遷ですが、ところどころにその流れを堰き止める節目になるような興味深い思想家が登場します。

 その代表例は、やはりニーチェです。
 ニーチェの思想における代表的な概念「ルサンチマン」と正義について言及したくだりです。「ルサンチマン」は、支配される人々、「抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者」のうちに生じる怨恨の念です。

(p195より引用) 暴力は悪である。抑圧は悪である。・・・と、この受動的な人々は考える。だから優越する人々は悪しき者たちである。悪しき者たちに暴力を加えられるのは、善き人々である。だからわれわれこそが、善き者である

 ルサンチマンはこう考えます。ここにおいて、善とは、暴力を加えないこと、他人を攻撃しないこと、結局「何もしない」=行動の欠如と定義されるようになりました。ルサンチマンとして被害を受けた者が加害者を赦すことが正義であるとの考え方です。

(p196より引用) 優越した者がなすことは悪であり、不正である。・・・
 これは共同体の約束に違反する者に処罰を加える現世の権力者が不正であると考えることであり、正義の概念をまったく逆転させることになった。

 そして、被害を受けた者すなわちルサンチマンは「赦し」により正義の概念を弁証法的に止揚し、「恩赦」を与える神に等しい地位に昇るとされたのです。

(p197より引用) 「正義とは根本では、傷つけられた者の感情を発展させたものにすぎない・・・」

 公共善でもなく社会契約でもない、ニーチェのいう“ルサンチマンの正義”です。

 さて、以降には、現代の「正義論」の中で私の印象に残った議論を覚えとして書き留めておきます。

 まずは、アメリカの政治学者マイケル・ウォルツァーの「財が異なると正義も異なる」という主張。
 ウォルツァーは「配分的正義」においては配分の対象となる「財の多様性」が「正義の多元性」を生じさせると考えます。

(p235より引用) ウォルツァーは、この多元的な正義で必要とされるのは複合的な平等の議論であり、これは「20世紀の最も恐るべき経験」である全体主義の経験から生まれたものであると語っている。全体主義の社会は、「画一化、すなわち分離しているのが当然である社会的な財と生活の諸領域の体系的な同等化」を目指してしたからである。これにたいして「複合的な平等は全体主義の対立物である。最大限の同等化に対立するものとしての最大限の分化」を目指しているのである。

 次に、日本でも大ブームになったハーバード大学のマイケル・サンデル「善と正義」の議論。
 サンデルは、価値観が多様化する現代社会においてリベラルな公共的理性の意義を認めます。しかしながら、その公共的理性が「中立」を守れるかといえばそこには疑問をいだいていており、なんらかの対応の必要性を主張しています。

(p243より引用) 「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは達成できない。公正な社会を達成するためには、善き生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致をうけいれられる公共の文化を作りださねばならない」と考えるからである。

 こういった論者の考え方は、地勢的にも世代的にも多様な社会状況を反映したものですし、私の実感覚としてもとても馴染みやすい思想ですね。



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