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Thanks, My Brava:ショートショート

あの日、私は音が聞こえなくなる瞬間を、聞いた。

その時、彼女はそこに立ち尽くしていた。

3-2と一点を追いかける状況に彼女たちは挑んでいた。アディショナルタイムはもう残り僅か。
縦一線。針の糸を通すかのようなここしかないという正確なパスが通る。おそらく練習では一度も成功したことがないようなパスだっただろう。それくらいにそこしかないという芸術的と評すに相応しいパスだった。
彼女は前を向いた状態でそのパスを見事に受ける。
彼女のチーム全体が高い集中力を示していた。ゾーンと言われる状態に入っていたのであろう。
彼女はフリーでキーパーと対峙する。
誰もがここだと思う瞬間で彼女は脚を振り上げる。
そして、彼女の足はボールを見事に包み込み、ゴールの右上に刺さる…はずだった。

脚を振り上げた彼女を相手選手がファウル覚悟で止めに来た。
彼女は、その場にドサっと倒れ込む。
審判が笛を鳴らす。
審判が高らかと相手選手に対し赤い札を上げる。レッドカード。危険なプレイと見做されて一発退場だ。
相手選手は一度空を見上げる。そして、後ろを振り返る。仲間たちへ後は託したと言うかのように、辺りを見回す。
仲間の選手たちが口を紡ぎ、そして、頷く。
相手選手がフィールドを後にする。その姿は晴れやかだ。次戦が決勝戦だ。レッドカードを貰った彼女はその大事な試合に出ることはできない。そして、高校三年であるその選手は、今日がこのまま引退となる。まさに決死の覚悟と言えるその退場に、私は惜しみない拍手を贈りたいと思った。

倒れていた彼女はおもむろに起き上がる。
幸いに怪我などはないようだ。
彼女が倒された位置はペナルティエリア内。つまり、ペナルティキックを獲得した訳だ。
ペナルティキック。PK。
決めれば延長戦へと持ち込むことができる大事なキックだ。
彼女たちは今までその一点をもぎ取るために懸命に走り、ボールを繋いで来た。
今、まさにそのチャンスがやって来たのだ。
しかし、チームは静まり返っている。
それも当たり前の話だろう。
このキックを外せば、アディショナルタイムは終了となるはずだ。
つまり、彼女たちの敗けが決まる。
決めれば延長戦。外せば敗退。
その瞬間に立ち合いたいと思える選手は、余程のメンタルの持ち主だろう。

静まり返るチームにおいて、彼女は皆の前に出る。
彼女はキーパーとの再戦を申し出た。
その一声に誰もが救われたことだろう。
そして、彼女はボールを触る。
念を込めるようにも、素っ気ない態度のようにも私には見えた。その時の彼女の気持ちを、私は知ることはできない。
ふぅ、と彼女は軽く息を吐く。
目の前のキーパーは鼠の子一匹すら通す気はなさそうだ。
ゴールという広い枠が途端に針の穴のように見えるのだから不思議だ。

瞬間、彼女は上げた脚を振り下ろす。

アディショナルタイム終了の笛が鳴る。
独特の甲高い音は私には聞こえなかった。私には彼女しか映らなかった。

彼女はそこに立ち尽くしていた。
彼女は空を見上げ、そして、地面を見つめる。

試合は終了した。

私は今でもその瞬間のことを鮮明に思い出すことができる。
幼かった頃の私の英雄は、今、私をピッチの外から見つめている。

なんて残酷なんだ。今は3-2と一点を追いかける状況だ。
このプレッシャーの中でペナルティキックを蹴らないといけないのか。
しかし、あの彼女もきっとこういうことを思っていたのだろうと、今の私にはわかる。

「私、蹴りたい」

静まり返るチームの皆に私はそう伝える。
小さな指の震えが止まらない。首筋から腕にかけて鳥肌が上がる。心臓の音がいつもよりも激しく聞こえる。呼吸も浅い。
私は一度大きく深く鼻を広げて空気を吸い込む。
そして、私はこの気持ちにこう名付ける。
ただの武者震いだ、と。

私は彼女に向けて指を差す。
あの時、誰もが逃げたがる中で、唯一ペナルティキックを蹴ると手を挙げた勇敢な彼女を真っ直ぐに見つめ、私は彼女に向けて指を差す。
そして、その手を胸に当て、軽く、しかし、力強く叩く。
彼女は、そっと頷く。
彼女は知っている。音が消える瞬間を。

さぁ、もう一度始まりの合図を鳴らしに行こうか。

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「さよなら私のクラマー」に寄せて。


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