社会、まじ若者にいろいろ求めすぎ
昨日、東京で就活支援をしている民間の企業を訪問して、キャリアアドバイザーなる人に就活の相談をしてきた。
ちょうど移動まで時間が空くし、ついでだから面接で困った質問の対応でも相談してみようかなと思ったのだ。
以下はアドバイザーの方から賜った言葉だ。
なんとなく就活してきちゃったのかなって印象がある
自分がどんな風に生きていきたいか、どんなキャリアを積んでいきたいかを考えて就活をしてみて
女性はライフイベントがあるから、若い内に経験を積んで市場価値を高めないと
一般に、人々はこんなことを言われたらどう思うだろうか。
私は、”余計なお世話だなぁ…”と思った。
アドバイザーの方はとても熱心に話してくれた。親身になってくれていることは伝わってきた。プロだし、きっと社内で「就活支援とはかくあるべし」という教育をされている。
とすれば、私がもやもやを抱く相手はアドバイザー個人ではなく、アドバイザーの発言の根底にある「就活支援のあり方」や「就活を取り巻く価値観」である。
以下、もやもやについて書いていきたい。
もやもや①「なんとなく就活してる」という決めつけ
私が志望している業界はかなり特殊だ。多分、アドバイザーの方の目には、私は「何がしたいのかよくわかんない人」と映っていたのだろう。
それは仕方ない。よくわからないならちゃんと聞き返してよと思うが、まあ仕方ない。
その上で言わせてもらうが、なんとなく就活をしているつもりなんてない。研究もある中で、できる限り時間を割いて考えている。
というか、なんとなくでやっているなら、わざわざ東京まで来て相談なんてするわけがないだろう。空き時間があれば渋谷あたりでタピオカ飲むわ。
ほんの10分やそこら質問したくらいで、わかった気にならないでほしい。
そっちの聞き方が下手だから私の考えてることを深堀りできなかったんでしょ…と思わなくもない。
相談にくる就活生の人数が多くて大変なのは想像できるのだが、「自分は相手の事情をすべてわかっているわけではない」という謙虚さを忘れないでほしい。
あらゆる「相談」を生業とする人なら、誰しも心掛けた方がいいと思う。
もやもや②一貫性の強制
終身雇用が崩壊した
多様なライフスタイルがある時代だ
生き方を自分でデザインしてかなきゃいけない
わかる、それはすごくわかる。
面接でも、過去・現在・未来の一貫性が求められていると感じる。
でも、冷静になってほしい。
新卒は、まだ、働いたことが、ない。
働きもしない内に「どんなキャリアを積みたいか」って、未成年なのに「どんなお酒が好み?」って聞かれるようなものだ。
いくら真剣に考えたところで大したことが言えなくて当たり前じゃないだろうか。わからないなりに一生懸命考えていたら、とりあえずそれだけで満点だろう。
そしてそして、生意気なのを承知で言うけれど、私たちにそれだけの具体的なキャリアプランを求めてくる大人、特に面接をする人事の方々は、私たちくらいの年頃に、どれだけキャリアプランを真剣に考えていたのだろうか。
なんなら、今現在のキャリアプランでもいい。自分の過去・現在・未来について、初対面の相手に15分くらい語ってみせてほしい。ぜひ仕事の先輩としてお手本を見せてほしい。
そう言われて、ぱっとできる大人がどれくらいいるんだろうか。
偏見丸出しで言うが、多分そんなに多くないと思う。
自分でさえできないことを、自分より若い人に求めるなんて、どういう了見なんだろうか。
確かに、個人のキャリアプランと企業内で得られる経験やスキルに整合性がある方が、働く側のモチベーションが上がり、パフォーマンス向上や勤続年数の長期化につながるだろう。
社会における企業の役割が、利益を生み出して経済を生み出すことである以上、より企業にとってうまみの多そうな人材を採りたいというのもわかる。
でも、それにしたって、具体性のあるキャリアプランが求められすぎな感じがする。一貫性のある振る舞いができる企業なんてほんの一部だ。なぜ働く側に強くそれを求めるのか。
過去・現在・未来のストーリー性が大切って、人は一度決めた道筋を外れられないとでも言うのだろうか。
終身雇用が崩壊して多様な生き方が可能になったという割に、今度は「一貫性がなければならない」という価値観が蔓延している。
「所属組織への忠誠」が「一貫性」に置き換わっただけだ。
大体、終身雇用が崩壊したのだって、雑に言えば社会の変化によるもので、私たちのせいじゃない。
軽々しく言うと怒られるかもしれないが、「自分たちのせいじゃないものによって生き方を制限される」という意味において、就職氷河期と状況は似ている気がする。
社会の変化によるツケは個人が自助努力によって払わないといけない。
そんな社会にしたのは大人のはずなのに、それをわかって私たちに求めているんだろうか。
もやもや③「価値ある人間になれ」という脅迫
昨日のYuhei Suzukiさんのnoteにも書かれていたが、役に立たなければいけない、価値ある人間にならなければいけない、というプレッシャーが、強すぎる。
はっきり言っておくが、人間に対して「市場価値」という言葉を使うのが、私は大嫌いだ。
ここでの「市場」とはおそらく「労働市場」を、「価値」とは「貨幣に換算できる価値」を指すのだろう。
人間の生きる場は労働市場だけではないし、貨幣に換算できない側面も人間にはたくさんある。だからこの世には労働経済学以外の人間に関する学問が存在するのだ。
そして、いかにして価値を高めるのかは誰も教えてくれない。なぜなら今は社会における新しい局面で、ロールモデルがいないからだ。
ロールモデルがいないからこそ、試行錯誤して様々なやり方を開拓していけるはずなのに、なんだこの閉塞感は。
誰もやったことがないのにみんなして頭だけで考えて、こんなことが必要になるはずって予測を立てて、それに沿うものを他者に求めてばかりだ。
私は知っている。やり方がわからないものに直面した時、頭だけで考えていたって、身が竦むばかりで問題は解決しない。
計画は大切だけど、実現できない前提で、あくまで理想モデルとして頭の隅に置いておくくらいでいい。
結局は、泥臭く手を動かして、やりながら感覚をつかんでいくしかないのだから。
まとめ
収集がつかなくなってきたのでこの辺で終わりにする。これまで就活に対するもやもやは「そういうルールなんだし」と流すようにしてきたのだが、今回ばかりは抑えられなかった。
社会、まじ若者にいろいろ求めすぎだ。
もっと余裕と余白をもってほしい。
人間、心身共に健康で生きていられるなら、それだけで十分なはずだ。
「ゆっくり」とか、「直感的に」とか、「流れに任せて」というワードがもっと重視されてもいいと思う。
思いつくままに書いたので、詰めが甘い部分もあるけれど、働いたこともないやつがなんか言ってるなー、と流してもらえたら嬉しい。
少しでも、誰にとっても優しい世の中になりますように。
最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。