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【ロシアの歴史】ロシアから見た日露戦争

1.はじめに

日露戦争は20世紀初の大国間戦争であり、ヨーロッパの大国であるロシアを、アジアの新興国日本が打ち破ったことは、世界中に衝撃を与えました。日本にとって、日露戦争は華々しい勝利であり、戦勝によって大国入りを果たし、東アジアの強国となっていきました。一方、ロシアから見た場合、日露戦争とはどのようなものだったのでしょうか。今回はロシア側の視点から戦争に至る経緯、開戦後の経過、そしてその影響を見ていきたいと思います。

2.ロシアの東アジア進出

19世紀末、ロシア帝国の東アジア政策の中心となったのは、シベリア鉄道の建設でした。当時、清国に対して勢力を拡大していたイギリス・ドイツに対抗し、ロシアのアジア地域における防衛力を強化するため、1891年、西のチェリャビンスクから東のウラジヴォストークを結ぶ全長8000キロに及ぶ鉄道建設が着手されました。この鉄道建設を主導したのが、大蔵大臣セルゲイ・ウィッテでした。

セルゲイ・ウィッテ(1849-1915)
民間鉄道会社で経営者として頭角を現し、若くして大蔵省鉄道事業局長に就任。ニコライ2世の父アレクサンドル3世によって、43歳のときに大蔵大臣に任命される

ウィッテが鉄道建設に邁進していた1894年、日清戦争が勃発し、翌年の下関における講和交渉で、日本側は遼東半島の割譲を清国に求めました。ウィッテは、遼東半島の割譲は日本の満州やモンゴルへの膨張の端緒となり、また半島を放棄させれば、清国との関係が良好化し、ロシアの鉄道建設にとって有利になると、皇帝ニコライ2世に進言しました。皇帝はウィッテの策を採用し、ドイツ、フランスとともに日本に圧力をかけ、遼東半島を清国に返還させました。

この三国干渉により、ロシアはウィッテの読み通りに見返りを得て、1896年に満州を横切る鉄道の敷設権を獲得しました。しかし、外務大臣ミハイル・ムラヴィヨフらはさらなる清国への膨張を計画し、旅順の獲得を提案しました。ウィッテは清国との友好関係維持のため、さらなる利権獲得には反対しましたが、東方への膨張を願うニコライ2世によって押し切られ、1889年にロシアは旅順及び大連を含む関東州の租借権南部支線の鉄道敷設権をも獲得しました。

3.義和団事件と満州占領

三国干渉以降のロシアの行動は、日本の対露感情を著しく悪化させました。日本に遼東半島を放棄させただけでなく、それから5年も経たないうちに自国の支配下においたことは、ロシアは狡猾な外交政策を行い、信用できない国であるという認識を持たせました。

日本とロシアの緊張をさらに高めるきっかけとなったのが、義和団事件でした。1898年ごろから現れた宗教団体「義和団」は、「扶清滅洋」をスローガンとして清朝に接近し、清国軍とともに列国軍と交戦状態となり、1900年6月21日は、清朝が諸外国へ宣戦布告する事態となりました。これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、オーストリア、ドイツ、そして日本とロシアの8ヵ国が軍隊を派遣しました。

義和団事件で出兵した各国の兵士たち
左からイギリス、アメリカ、ロシア、英領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本

7月15日から清国との戦闘に入ったロシアは、10月初頭までに斉斉哈爾から奉天にいたる満州の諸都市を占領しました。11月末、現地派遣軍を指揮していたエヴゲニー・アレクセーエフは、奉天将軍増祺との間に、奉天省におけるロシア軍の駐屯権を定めた協定を締結しました。この協定は、ロシアにとっては、あくまでも鉄道建設を継続するための一時的なものに過ぎませんでした。

しかし、ロシア側の認識に反して、日本では国家の安全にかかわる問題として取らえられました。日本の外交当局は、これまでの遼東半島進出へと結びつけ、満州全体の占領はロシアの軍事的優位を決定づけるという危機感を抱きました。日本の指導層は、首相・山県有朋を中心に、日露間の戦争という最悪のシナリオを思い描き始めました。

山県有朋(1838-1922)
当時首相。ロシアに対し強い不信感を抱いており、ロシアと協定を結ぶことは不可能であり、北方ではなく台湾方面への膨張を目指すべきだとする「北守南進論」を支持した。

4.対外強硬派の台頭

アレクセーエフ=増祺の協定は、1901年1月3日のロンドンの『タイムズ』紙上で、センセーショナルに紹介されました。記事を書いた北京特派員ジョージ・モリソンは、一部に誇張や捏造を交えながら、ロシアはこの協定を他の2省とも締結し、満州を事実上の保護領とするだろうと主張しました。

ジョージ・モリソン(1862-1920)
モリソンは強いロシア警戒論を有しており、南アフリカでのブーア戦争にかかりきになっているイギリス国民に、極東で起きている重大事を報せ、警鐘を鳴らそうとした

モリソン報道によって、清国との交渉は国際問題化し、ロシアは清国側に譲歩せざるを得なくなりました。4月8日、ロシア政府は満州のロシア軍を段階的に撤退させることを定めた協定に調印しました。この協定はロシアの東アジアへの拡張政策の挫折を意味し、その推進者と見なされたウィッテの地位を低下を招きました。

ウィッテに代わって、強力な軍事力を東方に配備するべきであると主張する対外強硬派が台頭しました。その中心にいたのが、元近衛騎兵連隊大尉アレクサンドル・ベゾブラゾフです。ベゾブラゾフは満州と朝鮮半島の境目にある豆満江と鴨緑江の沿岸に軍事拠点を築きくことで、満州と朝鮮半島における影響力を守れと主張しました。

アレクサンドル・ベゾブラゾフ(1855-1933)
一見山師のようだが、朝鮮半島の付け根に軍事拠点を築くという構想には真剣であり、森林警護団に偽装させて予備役兵を駐留させていた

ベゾブラゾフはニコライ2世に取り入り、皇帝も強硬派の意見を支持するようになりました。1903年4月、ロシアは第二次撤兵を見合わせ、満州におけるロシアの特殊権益を認めさせる要求を、改めて清国政府に提示しました。

ロシアの満州撤兵中止を受け、日本側の意見は割れました。山県ら指導部は、満韓交換論(ロシアが満州を、日本が韓国をそれぞれ勢力圏とするという政策)によって妥協を図ろうとしました。しかし、軍部においては戦争は不可避であるという意見が強まりました。

5.開戦への道

1904年7月1日~10日に開かれた旅順会議において、鴨緑江事業を縮小し、遼東半島と満州におけるロシアの権益を守ることに集中するという決定が下されました。ベゾブラゾフの意見が退けられたことで、日本側はロシアは戦争回避に向かっていると考え、ロシアとの交渉に入りました。

しかし、会議を主導したアレクセーエフは、単純な非戦派ではありませんでした。8月12日、新設された極東太守府の提督に任命され、強硬派である彼の意見によって、ロシア軍の満州からの撤退の可能性はなくなりました。さらに、太守府は極東においてロシアと隣接する国家との外交を任せられたため、アレクセーエフが対日関係の最高責任者となりました。

エヴゲニー・アレクセーエフ(1843-1917)

交渉は難航しました。特に、韓国の領土の軍事利用禁止、朝鮮半島の北緯39度線以北における中立地帯の設置という2点のロシアからの提案は、日本には受け入れられませんでした。アレクセーエフをはじめ、当時の太守府は日本の軍事力は過小評価しており、日本がヨーロッパの最も弱い国と対等に戦うことができるまでに数十年以上かかると考えていました。このため、太守府の指導層は対日交渉において強硬な態度で臨みました。

数度にわたる交渉の末、1904年1月7日、日本の内閣会議はもはや戦争に訴える以外にないという認識を確認し、2月6日にロシアに外交関係断絶を通告しました。そして2月8日、宣戦布告のないまま、日本軍は旅順と仁川を攻撃し、戦争の火ぶたが切って落とされました。

旅順での奇襲の様子
日本側は外交関係断絶を通告したのだから問題ないと考えていたが、ロシア側はそれと宣戦布告は別物であると考えており、日本の攻撃を不当であると非難した

6.ロシア軍の混乱と相次ぐ敗戦

突如始まった戦争に、ロシア軍は混乱をきたしました。まず、最初の旅順への奇襲攻撃により太平洋艦隊の半分を失い、日本軍の上陸を阻止する術を失いました。その後、3月になっても日本軍の目標がどこにあるのかつかめず、何の対応策もとれませんでした。さらに、シベリア鉄道はバイカル湖迂回路線が未完成であり、しかも全線が単線であったことから、輸送能力が限られており、3月末になっても、日本軍の満州侵入を阻止できるほどの兵力を確保できませんでした。

日露戦争前後のシベリア鉄道(赤い線)
バイカル湖迂回路が完成するのは1905年の夏になってからで、それまでは砕氷船や氷上輸送によってヨーロッパ・ロシアとの連絡を辛うじて維持している状態であった

これに加え、満州軍司令官となったアレクセイ・クロパトキンと最高司令官アレクセーエフの間では、意見の不一致が起こりました。クロパトキンは大軍を一カ所に集中させ、その後に日本軍を一挙に粉砕するという軍事理論に則っていました。しかし、アレクセーエフは軍の集中は重視せず、必要なだけ地域に配備するべきだと考えていました。指揮官の間で意思の統一を欠いたロシア軍は、組織立った日本軍の攻撃に耐えられませんでした。

アレクセイ・クロパトキン(1848-1925)
陸軍大臣を務め、開戦の前年に来日したこともある
極東太守府の他の面々とはことなり、日本軍は強力であると考え、対日戦争回避を主張し続けていた

8月の黄海海戦ではウラジヴォストーク小艦隊が全滅し、陸上における遼陽会戦沙河会戦でもロシア軍は大きな損失を被りました。さらに、12月には旅順港を見下ろすことができる二百三高地が日本軍に占領され、港内の太平洋艦隊が砲撃によって航行不能あるいは撃沈されました。その後も旅順要塞への攻撃は続きましたが、翌年1月1日に旅順要塞司令官アナトリイ・ステッセルが降伏し、陥落しました。

7.国内動揺の高まり

開戦当初は、奇襲攻撃に対する怒りもあり、ロシア国民は戦意を高揚させました。しかし、その後は華々しい戦火がほとんどなく、国民の一体感を維持することが難しくなり、社会階層間や民族間での緊張が高まりました。

6月3日、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが民族主義者によって暗殺され、7月末、革命派のテロリストによって、内務大臣ヴァチェスラフ・プレーヴェが爆殺されました。帝国内の被抑圧民族であったポーランド人、フィンランド人、ユダヤ人の中からは、日本の勝利を願い、日本と連帯する動きも出てきました。マルクス主義者・ゲオルギー・プレハーノフは、「日本は圧迫された諸民族に代わって復讐しているのだ」と演説しました。

プレーヴェ暗殺のイメージ
内務大臣を務めたプレーヴェは、長年にわたって思想弾圧を政策をとった恨みを買い、馬車に乗っているところを社会革命党の党員に爆殺された

1905年1月22日、司祭ゲオルギー・ガポン率いる10万人の労働者とその家族が、皇帝の宮殿、冬宮を目指して行進を始めました。デモの要望は、憲法制定会議の召集、戦争の中止、8時間労働などの労働環境の改善などでしたが、強硬派のヴラジーミル大公率いる3万人の兵士たちが鎮圧にあたり、発砲によって1000人以上が死傷しました。

血の日曜日事件の絵画(イヴァン・ウラジーミロフ,1940年)
この事件は、民衆の「良きツァーリ」と、ツァーリの「素朴な支持者である農民」という2つの幻想を打ち砕いた

この「血の日曜日事件」によって、首都の学生、労働者、市民の間に憤激が広がりました。1月だけで全土で44万人もの労働者がストライキに入り、さらに皇帝の叔父にしてモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺されました。国民の戦争に対する支持はほとんど期待できなくなり、戦争終結を望む声が強まりました。

8.ポーツマス条約

戦況は引き続き芳しくなく、2月末の奉天会戦では、25万の日本軍に32万のロシア軍が敗北しました。機関銃など装備の面で日本軍が勝っていたこともさることながら、ロシア軍は士気が著しく低下しており、2万人を超えるロシア兵が投降して捕虜となりました。

5月、昨年の10月にリバウ港を出港した、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー率いるバルト艦隊が日本近海に到着しました。27日、ロジェストヴェンスキーは、ウラジヴォストークを目指して対馬海峡の強行突破を試みました。しかし、これを予想して態勢を整えていた東郷平八郎率いる連合艦隊が迎え撃ち、バルト艦隊は1日半の戦いで19隻が撃沈され、ウラジヴォストークに到着したのはわずか3隻でした。

バルト艦隊の旗艦・スヴォーロフ
戦艦・三笠からの砲撃を受け大破し、ロジェストヴェンスキーも重傷を負った
日本海海戦における日本側の死者は700人弱に対し、ロシア側は5800人余りであり、ロシアでは「ツシマ」はその海軍の悲劇を著す言葉となった

日本海海戦の結果は、ロシアにとって重大でした。海軍の大部分を失ったロシアは、制海権をとることが不可能になり、日本を降伏させる可能性はなくなりました。5月末、日本からの依頼でセオドア・ルーズベルト米大統領が講和交渉の仲介を申し出ましたが、ニコライ2世はこれを受け入れざるを得ませんでした。

8月9日から9月5日にかけて、アメリカのニュー・ハンプシャー州の小都市ポーツマスで講和会議が開かれました。日本の全権代表は外務大臣・小村寿太郎、ロシアの代表はウィッテでした。ウィッテはニコライ2世から嫌われ、閑職に追いやられていましたが、戦争に至る事情を知り、かつ有能な政治家がほかにいなかったことから、代表に任命されました。

ポーツマス講和に出席した代表者たち
1番左がウィッテ、右から2番目が小村、中央がルーズベルト

ニコライ2世は日本が占領した樺太の割譲、そして賠償金の支払い拒絶するよう、ウィッテに命じていたため、ウィッテと小村の交渉は、この点においては激しい対立となりました。粘り強い交渉の結果、29日、ロシアは樺太の北緯50度以南を割譲する、日本は賠償要求をしないという条件で、妥協案がまとまりました。9月5日、講和条約は正式に調印され、20ヵ月に及んだ戦争が終結しました。

9.まとめ

日露戦争における戦死傷者数は、日本側が戦死者8万4000人、戦傷者14万3000人、ロシア側は明確な統計がありませんが、戦死者5万人以上を含む27万人の喪失とされています。両者とも多大な損失を被り、また、ロシアでは第一革命が、日本では日比谷事件が起きるなど、社会にも大きな影響を与えました。

日本にとって日露戦争は勝利の歴史ですが、ロシア人にとっては敗北の歴史であり、その記憶は残り続けました。ロシアでは日露戦争の歴史を検討する委員会が設立されるなど、戦史研究が盛んに行われました。特に、1937年に発表された、軍事思想家アレクサンドル・スヴェーチンの日露戦争論は、ソ連の対日参戦準備に影響を与えました。1945年9月2日、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンは、敗戦した日本の降伏文書に調印に対し、日露戦争以来「40年間この日を待った」と述べたと言われています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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