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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史11 宣教師ニコライと日本正教会

1.はじめに

19世紀のロシア正教会では、異教世界に対する伝道活動が活発化しました。それは、東シベリアのウラル諸族や西シベリアのイスラム教徒など帝国領内だけでなく、アラスカなどの北アメリカや中国など国外においても積極的に展開しました。今回は、日本での宣教を行った大主教ニコライの活動と日本正教会について見ていきたいと思います。

2.若き宣教師、日本へ

ニコライの俗名はイヴァン・カサートキンといい、1836年、スモレンスク県の寒村ベリョーザ村に下級聖職者の息子として生まれました。村の小学校を卒業したイヴァンは、スモレンスクの神学校へと進学し、1857年に同校を主席で卒業すると、ペテルブルク神学大学へと進みました。

若い頃のニコライ。写真は箱館時代のもの

1860年、ゴロウニンの『日本幽囚記』を読んで、極東の異国に強い興味を抱いていたイヴァンは、箱館(現・函館)の領事館が司祭を募集していることを知り、突然日本行きを決意します。同年6月、イヴァンは修道士ニコライとなり、7月末にペテルブルクを出発しました。

ニコライがシベリアを経由して箱館に到着したのは、翌年の7月14日でした。ニコライは当時から日本での宣教の志を抱いていましたが、当時キリスト教は「禁制」であり、また、攘夷論が沸騰する幕末の動乱期でした。ニコライはその志を内に秘め、まずは宣教の準備として、日本語の学習日本の歴史・文化の研究にあたりました。

同志社の創立者・新島襄(1843-1890)
アメリカへ渡るために箱館に潜伏していた青年時代の新島は、ニコライの家庭教師となり、日本語と日本の歴史を教えた

3.宣教活動の開始

ニコライが最初に布教したのは、来日3年目に出会った神官・沢辺琢磨、そして沢辺を介して近づいてきた医師・酒井篤礼および浦野大蔵の3人でした。彼らはニコライの指導に従い周囲の日本人を勧誘していき、ニコライは集まった人々に教義を伝えました。

沢辺琢磨(1834-1913)
本名を山本数馬といい、土佐の出身で坂本龍馬の従甥
後に酒井とともに日本人最初の正教司祭となる。洗礼名はパウェル

しかし、新政府は引き続きキリスト教の信仰を禁止し、さらに旧幕府の奉行に代わり、新しく知府事となった清水谷公考は、キリスト教嫌いで知られていました。ニコライは集会を取りやめ、沢辺らは東北へ潜伏することとなりました。3人にその前に決心してニコライから洗礼を受け、初の日本人正教徒が誕生しました。

維新後に起きた戊辰戦争の戦火は、東北にまで延び広がり、箱館はその最後の戦いの舞台となりました(箱館戦争)が、1869年5月18日、旧幕府軍を率いていた榎本武揚が降伏し、戦いは終息に向かいました。終戦後、ニコライはロシアへ一時期帰国し、首都ペテルブルクの宗務院に「日本宣教団」の設立を請願しました。請願は聞き入れられ、1870年4月6日に、団長1名、修道士祭3名、聖歌僧1名という小さな日本宣教団が生まれ、ニコライはその宣教団長に任命されました。

再び日本へと戻ったニコライは、翌71年1月、函館の教会を司祭アナトリイに任せ、宣教団の本部を設置するために上京し、東京の神田駿河台を本拠地として宣教活動を展開していきます。

4.最後のロシア帰国

1878年、創設8年目の日本正教会は、日本人教役者約70名日本人信徒約4000名を抱えるようになりました。駿河台本会には神学校、女学校、伝教学校、詠隊学校が併設され、さらに盛岡、仙台などにも小さいながら教会が建てられました。

一教団として態を成してきた日本正教会でしたが、組織の成長に伴い「宣教活動資金」に悩まされるようになりました。当時の日本人信徒は全体的に貧しく、信徒からの教会費徴収だけでは活動経費を賄えませんでした。ニコライは活動資金の調達のために、1879年7月下旬、二度目の、そして最後となるロシア帰国へのために、横浜を立ちました。

同年9月にペテルブルクに到着したニコライは、宣教活動費増額の請願に務めました。ニコライが期待した資金源は2つありました。1つは宗務院であり、財務大臣の強い反対があったものの、最終的にそれまでの宣教費6000ルーブルから、約5倍の2万9695ルーブルへの引き上げに成功しました。もう1つはモスクワに本部のある「正教宣教協会」であり、理事長であるモスクワ府主教マカリイや会計主任である商人アクショーノフに請願し、援助金2万3800ルーブルを引き出しました。こうして、日本宣教団は、毎年合計で5万3495ルーブルを活動費を受け取ることができるようになりました。

ペテルブルク府主教・イシドール(1799-1892)
ニコライの恩師であり、宣教費増額や寄付集めを支援した

さらに、ニコライは、1880年3月に、ペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院の至聖三者聖堂において、主教へと昇叙されました。これによって、ニコライが日本人聖職者の叙任を行うことができるようになりました。

主教に昇叙された直後のニコライ

5.ニコライ堂の建設

ニコライがロシアへ帰国した理由はもうひとつありました。それは、東京に主教座聖堂を建てるための資金集めでした。ニコライは奉加帳を持ち、ペテルブルクとモスクワの教会、修道院、個人宅を訪ね歩き、募金集めを続けました。すでに海外宣教師として有名になっていたニコライのもとには、商人や貴族たちから献金が寄せられ、主教座聖堂建設のために集められた資金は総計13万1834ルーブルにも上りました。

帰国したニコライは、ロシアで集めた寄付金をもとに、主教座聖堂の建設に乗り出しました。しかし、寄付金の使用用途をめぐって、長老司祭パウェル沢辺琢磨率いる伝教者たちが「有志義会」を設立し、ニコライに真っ向から反抗しました。彼らは大聖堂建設は不急であり、その費用を伝教費、つまり教役者たちの給与に回すべきだと主張しました。しかし、ニコライは、ロシアの正教徒たちが日本に正教の大聖堂を建設するために寄せてくれた浄財を、それ以外の目的に転用することを拒否しました。日本正教会はニコライ派と沢辺派に分裂し、多くの伝教者や信徒が教会を去りました。

大きな犠牲を払いましたが、1884(明治17)年に起工した東京復活大聖堂は、1891(明治24)年に完成し、3月8日に聖成式が行われました。現在では、通称ニコライ堂として知られています。

ニコライ堂
現在の建物は、関東大震災後に1929年に再建されたもの
By Lcsschiller - Own work, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=94204022

6.日露戦争と苦難の時代

ニコライ時代の日本正教会にとって、最も苦しい時代となったのが、日露戦争の前後の時期でした。

日露戦争のころのニコライ

1895年、日清戦争に勝利した日本に対し、ロシアがフランス、ドイツと結託して、割譲した遼東半島の返還を迫りました。この三国干渉によって、日本人のロシアに対する敵意が急速に高まりました。その矛先はニコライにも向けられ、命を狙うような声も聴かれるようになったため、日本政府の命令で外出時には必ず警護の警官がつくようになりました。さらに、日本正教会の信徒たちにも「あなた方はロシアの味方なのか」という非難が浴びせられました。

1904年2月10日、日本はロシアに宣戦布告し、いよいよ戦争がはじまりました。ロシア公使ローゼンは、ニコライに一緒に帰国するよう呼びかけましたが、ニコライは、若い日本の教会を守る責任があるとして、この誘いを断り日本に残りました。開戦後、日本人の愛国心は燃え上がり、正教徒たちは敵国ロシアの教えに従う者たちと敵視され、ニコライに対しては「露探(ロシアのスパイ)の頭目」というデマが流されました。

戦争中、日本正教会は、日本へ送られてきたロシア人捕虜の慰問活動にあたりました。当初はニコライが直接慰問することを希望していましたが、外務省の許可が下りなかったため、ロシア語のできる日本人司祭を派遣しました。ニコライは日本人司祭にスラヴ語の速成教育を施したり、日本人司祭やロシア人捕虜たちの様々な要望の手紙の処理に対応しました。

日露戦争は、1905年9月5日に結ばれたポーツマス条約で終結しましたが、大きな犠牲を払って得た戦利が少なすぎるという理由から、国民の不満が爆発し、数万の群衆が新聞社、警察署、内相官邸を襲う暴動が起こりました(日比谷焼討事件)。この際に、ニコライ堂も攻撃目標となり、5日の深夜、群衆が中へ入ろうと押しかけてきました。しかし、近衛兵が警備にあたっていたこともあり、錠前は壊されたものの、門自体は破られず、難を逃れました。

7.晩年のニコライと後継者セルギイ

晩年のニコライは、2つの大きな問題を抱えていました。

晩年のニコライ

1つは宣教資金の問題です。1905年末、ロシアの有力修道院は日本宣教団への支援を取りやめました。これは、1892年にペテルブルク府主教イシドールが亡くなり、1905年に宗務総長ポベドノースツェフが解任され、これまでニコライを支援してくれた人々がいなくなってしまったためでした。その後も宣教費の減額が続き、1907年には、30人の伝教者を解雇し、さらに翌年には伝教学校を閉鎖しなければならなくなりました。

もう1つは後継者の問題です。ニコライには、自分の後に日本宣教団を担ってくれる指導者がいませんでした。これまで来日したロシア人宣教師の中で、日本にとどまってくれそうな人もいましたが、結局は定着せず、ロシアへと帰国してしまっていました。ようやく1908年6月、後継者候補として、ペテルブルク神学大学長だった主教セルギイ・チホミーロフが来日しました。ニコライはセルギイの来日を喜びましたが、セルギイは金銭面でしまりがない性質であるという情報もあり、懸念も抱いていました。

セルギイ・チホミーロフ(1871-1945)
後にニコライの後継者となり、さらに1931年には府主教に昇叙される。
日本のナショナリズムの高まりとともに、1940年には引退せざるを得なくなり、1945年にはロシア人であるという理由で特別高等警察に逮捕、釈放後まもなく永眠した

1912年2月16日、ニコライは東京神田駿河台の宣教団主教館の自室で永眠しました。享年75歳であり、1861年に来日してからちょうど50年目でした。その後、セルギイが日本正教会の主教に叙聖され、ニコライの後継者として教会を導くこととなります。

8.まとめ

セルギイの時代は、ロシア革命によるロシアからの援助の打ち切り、関東大震災、さらに1930年代からの政府による宗教団体の規制など、苦難が待ち受けていました。しかし、これを乗り越え、現在に至るまで教会は存続しています。1970年、日本正教会は自治教会となり、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖しています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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