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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史12 帝政末期の正教会

1.はじめに

ロシア正教会はロシア帝国の国教であり、その歴史と深く結びついています。しかし、その関係は決して良好な関係であったわけではなく、迫害や弾圧こそなかったものの、教会は国家による支配という苦難を味わいました。今回は、帝国支配下の教会の状況と、帝政末期に起きた教会改革について見ていきたいと思います。

2.宗務院による教会支配

ピョートル大帝の時代、ロシア正教会は総主教制が廃止され、代わりにツァーリ直属の宗務院(シノド)の管轄下に置かれました。宗務院は皇帝直属とされましたが、実際は他の参議会と同じ国家機関の一部に成り下がりました。

宗務院は、ツァーリのお目付け役である宗務院総長が監督していました。宗務院の会議は短時間に終わる形式的なもので、下部組織である評議会あるいは担当委員会が教会の問題について対応を検討していました。各委員会からあがってきた案件は、皇帝か、あるいは総長が決済をしていましたが、19世紀以降は、ほとんど総長が教会行政に関する決定権を握るようになりました。

コンスタンチン・ポベドノースツェフ(1827-1907)
1880~1905年まで宗務院総長を務める。反動的な人物で宗務院の権限を削ぐような教会改革に反対し続けた。1901年にトルストイを破門にした

本来教区の公会議で行われる主教の選出についても、教会法に反して、宗務院による推薦ツァーリの認可が必要になりました。宗務院は主教の配置に関する権限も持ち、4年ごとにその働きぶりを評価し、総長が気に入らなければ配置換えが起こったり、休職に追いやられました。主教の仕事は事務化と行政化が進み、牧会よりも書類整理の煩雑さに追われるようになりました。

3.司祭の困窮化と質の低下

下級司祭たちは困窮に苦しんでいました。司祭たちには、国家や教会からの
俸給は一切なく、自ら稼がなければなりませんでした。司祭たちは教区民からの寄付や冠婚葬祭のときの献金などを受け取っていましたが、それだけでは生活していけず、足りない分は自ら土地を耕して補っていました。しかし、農作業による疲労や農耕に必要な牛馬の世話に時間をとられ、聖務は疎かになりがちでした。

ピョートル大帝以降、司祭職になるものは叙任以前の教育が義務化され、彼らは神学校や神学大学で教育を受けなればなりませんでした。しかし、貧しい民衆にとって子供は「労働力」であり、自発的に子供を学校へ行かせる家庭は少なく、結果的に司祭職の世襲化を招きました。

生活が厳しいとがわかっていながら、世襲のために司祭にならなければならなかった人々は、当然聖務に対する士気が低く司祭職の質の低下を招きました。また、神学校の学生の中には、社会改革に関心を持ち、過激な革命家となる人々もいました。

若い頃のヨシフ・スターリン
後に共産主義者となる彼も、もともとはトビリシ神学校の学生であった

4.ロシア第一革命と正教会

1月22日、司祭ゲオルギー・ガポンは、十数万人の労働者とその家族とともに、憲法制定会議の召集、戦争の中止、8時間労働などの労働環境の改善などをツァーリに嘆願するために、宮殿に向かってデモを行いました。しかし、ツァーリはデモ鎮圧を支持し、任務にあたった兵士たちが発砲し、1000人以上の死傷者が出ました。

ゲオルギー・ガポン(1870-1906)
当時35歳で、官制労働組合の解雇に対する抗議を指導していた

この「血の日曜日事件」はロシア全土に衝撃を与えました。ガポンは全面的な蜂起を呼びかけ、抗議のストライキ全国に波及しました。彼らの要求は憲法制定会議の招集や賃上げ、土地私有制の廃止、民族自治などの革命運動へと発展してきました。

宗務院は、教会の聖職者たちに対しいかなる革命運動にも関わらないよう呼びかけました。そして、特別の祈祷文を印刷し、祖国が平穏を取り戻すための祈願を奉じるよう各教会へ配布しました。しかし、聖職者たちの中には自らの意見を表明したり、革命運動を手助けする者も出てきました。特に、神学生の間では改革を求める声が高まり、教員へ暴行を行ったり、社会主義運動へ加担したりしました。また、運動に直接参加しなかった聖職者の多くも改革自体は支持しており、教会改革に対して意見を求められた63人の教区主教のうち、61人が賛成を表明しました。

5.教会改革への動き

こうした動きに、政府は教会に対し一定の譲歩をせざるを得なくなりました。4月17日、皇帝ニコライ2世は「宗教寛容令」を発布し、信教の自由を認めました。教会改革に強い反対意見を表明していた総長ポベドノースツェフは、10月20日に公職を退きました。

聖職者たちが強く求めたのが、1681年以来廃止されていた公会議(ソボール)の召集です。公会議とは、聖職者と信徒の代表が集まり、主教の選出や信仰生活に関わるすべてを話し合う場、すなわち、教会の自治を司るものでした。3月に宗務院から提出された請願書を承認したニコライ2世は、翌年になると公会議の準備会を開催することを指示しました。

ポベドノースツェフの代わりに宗務院総長となったアレクセイ・オボレンスキー公は、10人の府主教と21人の神学教授を集め、公会議の準備に取り掛かりました。この準備会の中で、総主教制の復活、宗務院の主教会議への改組、総長は国家と教会の折衝役になること、主教は各教区の公会議で選出されることなどが決められました。

アレクセイ・オボレンスキー公(1855-1933)
彼以降、総長職に就くものは激しく入れ替えられ、公会議の話が立ち消えてしまう

こうして公会議の準備が整えられ、あとは公会議を開催するだけとなりました。しかし、ニコライ2世はまだそのときではないとし、公会議の開催を見送りました。1907年になると第一革命が沈静化し、改革など望んでいなかったニコライ2世の態度は反動的になったのでした。その後も公会議が開かれることはなく、教会は国家の支配下に置かれたままとなりました。

6.まとめ

ニコライ2世は専制体制の改革を「バカげた夢想」と一蹴するほど、専制君主を志向する人物でした。そのため、第一革命の結果開設された国会に対しても、何度も解散を言い渡したり、自分の息のかかった上院を設立するなど、敵対的な姿勢を示しました。教会改革が進まなかったのも、ひとえにこうしたツァーリの資質のせいであると考えられます。

聖職者たちが望んだ公会議ですが、結局帝政期を通じて開かれることはありませんでした。ロシアの教会に次に転機が訪れるのは、1917年における帝政の崩壊においてでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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