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歴史・武士の混戦 応仁の乱から学ぶ生き抜く術(2) 下位の家臣、民衆の政治的地位が高まった応仁の乱後の社会は現在の日本にも通じるものだった

 

これまでの合戦のように武士を動員するだけでなく、
農民などによる足軽を動員する総力戦となった応仁の乱は
11年にわたって決定的な勝利と解決を見ないまま
戦いが長期化しましたが、
結末は東軍が西軍の「補給路」を
断ったことで西軍が降伏する形で終戦を迎えました。

鎌倉時代真っ只中の武士の合戦にはない
決着のつき方ですね。

日本で「補強路=食」を断つ合戦が始まったのは
鎌倉時代末期、北条得宗家の鎌倉幕府軍が
後醍醐天皇方の楠木正成の居城・千早城を
包囲した戦いぐらいからです。
しかし、千早城が築かれた金剛山は縦深地形で
そこに楠木正成は秘密の補給ルートをしっかり築いていたので
負けませんでしたけどね。

一方、中国で「補給線」を断つ戦いをしたのは
日本よりも早かったです。
三国志で有名な曹操は中国後漢末期の200年、
袁紹との決戦「官渡の戦い」で
袁紹軍の補給基地奇襲をきっかけに勝利しています。

近代戦では、
優れた指揮官は補給線=兵站を第1に考えます。

第2次世界大戦では「補給線」で優った連合軍が勝利しました。

補給線の重要さを説いた格言もあります。

「戦争のプロは兵站を語り、素人は戦略を語る」

「補給線」を軽視したため大敗した一例が
第2時世界大戦時の日本陸海軍です。


【応仁の乱で生まれた社会現象①
 農民・郷民(村人)と直接向き合って

 政治をするようになる武士】

応仁の乱は長期総力戦となったため
武士だけでは兵数が足りなくなりました。
そこで徴兵されたのが農民や郷民による足軽兵。

応仁の乱以降は合戦で
足軽兵はなくなはならないものになりました。

長期総力戦では自国の領土も
守らなければならなくなりました。

そのため城を強靭化する必要が出てきました。
城の工事には多くの人夫が必要になりました。

全国の守護大名、守護代たちは足軽、人夫を確保するため、
農民、郷民を奪い合うことになりました。
そのため農民、郷民の政治的地位が高まりました。

彼らを確保するため、大名たちは
「徳政令」を出すようになりました

「徳政令」とは例えば自分の配下になれば、
「それまでの借金などを帳消しにしますよ」
というものがありました。


また「半済(はんぜい)」と言って、
米の年貢を半分免除する徳政令もありました。

守護大名、のちの戦国大名は
農民・郷民を徴兵する以上、
彼らの存続を維持するため、
農民・郷民としっかり向き合って

民政に力を入れなければならなくなったのです。

【応仁の乱で生まれた社会現象②  下剋上】

応仁の乱の長期化で
守護大名は、それまで自分の代わりに
地方の領国を守護代に任せていましたが、
自分の留守の間に守護代に領国を
乗っ取られるという事態が
頻発するようになりました。

その典型例が
応仁の乱の中心人物だった
守護大名・斯波(しば)氏。応仁の乱直後、

守護代の朝倉(あさくら)氏に越前国を奪われ、
同じく守護代の織田氏に尾張国を乗っ取られます

斯波氏の下剋上を目の当たりにした
応仁の乱の参戦大名たちは、
自分の領国に帰って、守護代や領国内の武士たちを統率し、

民のための政治をするようになりました。
また自分たちの戦力を蓄えるためには

国力を高めなければならないと悟りました。

応仁の乱後、一斉に領国に帰った守護大名。

ところが、応仁の乱に参戦した守護大名の多くは
斯波氏のように守護代や家臣の下剋上によって
没落しました。「戦国大名」の誕生です。

守護代に任せきりでいきなり自国の統治を
始めてもうまくいくはずないですよね。
留守にしている間、守護代が力を蓄え人心も掌握。
応仁の乱の機運に守護代の独立心も芽生えますから
下剋上は当然の結果とも言えます。

一方、生き残った守護大名もいました。
武田氏、今川氏などです。

武田氏の守護代は跡部氏で下剋上になりかけましたが、
寸前のところで武田信昌によって族滅されました。

今川氏は守護代を置かず、直接統治をしていたので、
下剋上は起こらなかったのですね。

それでは
①と②の社会現象を現代に置き換えて考えてみましょう。

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