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【44】 言語化することの効果を実感

なんでもかんでも自分をほめて三か月ほど経つ頃には、「ほめ」のバリエーションは豊かになり、自画自賛に慣れてきました。

◆今日も「生きている」って意識しながら過ごせた。気づけてえらい!

◆ゆっくりよく噛んでおいしく食事を食べられた。カラダも喜んでいる!

◆母と電話で話した際、母の話を否定せずに、さえぎらずに最後まで聞いてあげられた。すごい!

◆店員さんとのおしゃべりが楽しかった。笑顔で話せてgood


ただ生きているという当たり前のことから、今日できたことまで、臆することなく書き記すようになりました。


こうしてほめ日記を続けていると、純粋に楽しくて、一日の中の自分をほめる楽しみの時間のために、「よいことを探す」という好循環のサイクルが生まれました。

そうして、当初の目的であった「自己肯定感の向上」のことなど、すっかり忘れて、ただ楽しんでいたのでした。


 そうして、ある時ふと思ったのです。

若い頃の自分も、もっと褒めてやればよかった、認めてやればよかったと。


学生時代に、毎日遅刻せずに学校に通ったことも、学校社会でうまく立ち回るために必死で気を遣ったことも、習い事を頑張ったことも、手痛い失恋をした後、どうにか立ち上がったことも。

社会人になってからも、連日終電を超えて働いた日々があった。
1か月間休みなく働いてぶっ倒れそうになった若かりし私。
体力的にも精神的にもきつく、バカ高い栄養ドリンクと、抗不安剤を飲んで必死で堪えた労働の日々。
ブラック企業なんて言葉が存在しなかった頃の、あの時の私。

頑張らなければ。
周りはもっとすごいんだから。
頑張って頑張って、やっとこさ、自分に合格を出せる私。

本当は、いつも私なりに一生懸命だったのに。
「まだまだぜんぜん足りない、できてない」と自分に鞭打って毎日を生きていた。


頑張っても、頑張っても、どこかいつも苦しかった。


そんな私のスタンスは、40代になっても同じでした。


母のために、乳がんについて必死で勉強し、奔走したこと。
その後の食道がん発覚でも、綱渡りをするような選択を迫られ、迷って迷って、どうにか決断をしたこと。
泣いて、落ち込んで、それでも「母のために何が最善なのか」と考え続けたこと。

そして、自身の乳がんが分かって、絶望しながらも、手術や抗がん剤に耐えて、今日までどうにかこうにか生きてきた。


もう、十分じゃないか。
私は、十分に頑張っているじゃないか。


それなのに「なぜ、ガンになんかなってしまったんだ、自分の生き方が悪かったの? 食事が悪かったの? 生活習慣が悪かったの? 何か悪いことでもしただろうか?」


いつまでも自分を責めて追い込んできた私。
もう、十分じゃないの。
これ以上、自分に何を求めるというんだ。
 

……と若い頃から現在までをなんとなく回想していたとき、

「え???」

唐突に気づいたのです。


「あれ? 私、自己肯定感が上がっているじゃん! ねえ、ミソちゃん、そう思わない?」

「……そう思う……」
 ミソちゃんもキョトンとしています。


「だよね? 今の今まで気づかなかったけど……考えてみれば私、随分元気になったよね」
「言われれば……確かに、最近機嫌いいよね」

 
一滴残らずこぼれてしまったはずの、私の「グラスの水」。

割れてしまったグラスの代わりに、いつの間にか新しいグラスが用意され、新鮮な水が一滴一滴溜まりつつある……。

そしてそのグラスは、以前よりも分厚く頑丈で安定感のあるグラスであるような気がする。


「毎日、他愛のないほめ言葉をノートに書いただけなのに……ミソちゃん嬉しかったの?」
「まあね」


「まだまだ足りないダメな自分」から「もう充分に頑張っていた自分」へと過去が書き換えられてゆく。

カチンコチンで冷たくなっていたミソちゃんが、内側からじんわり温まり柔らかくなってゆく。


これまで人に「そんなに自分を責めないでいいんじゃない?」とか「そんなに落ち込む必要ないよ」と励まされても、ミソちゃんの壁は厚く硬かった。

自分でそう思えていないことは、うまく吸収できずに、弾いてしまうのですよね。


誰とも比較できないし、数値化もできない「自己肯定感」。

しかし確実に「上がった」との感触あり。

「ミソちゃん、でかした! この調子だ!」


私が喜んでいると、ミソちゃんも大きく頷いて、一言。
「もっと早くに知りたかった……小学生のころに教わりたかった。小学校の授業の科目にすべき。国語や算数より、絶対に大事


過去の自分には、もう教えてあげられないから、こうして今、誰かに伝えてあげられたら、私の経験もちょっとは役に立つかもしれない。
そんなことを思いついたのでした。


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