カピバラは意外と早く走る。なんと時速五十キロ。昨日、鍵原くんが飛んだ。自宅マンションのベランダから飛んだ。八階。奇跡的に一命を取り留めた。意識が戻り次第、警察から事情聴取を受ける流れになっている。動機はわからなかった。コンビニに行くのに降りるのがめんどくさかったんだと冗談なのか本気なのかわからない噂が流れていた。 鍵原くんは細くて少し離れたつぶらな瞳をしていた。どんな時もぼーっとしているように見える大きな丸顔はカピバラに似ていた。いつもゆったりとした口調で話し、声を荒らげた
夏が次第に夏らしくなってきて、まるで天使だった。きみとふたり。目が眩む坂道をしりとりをして歩いた。私は国名ばかりあげてきみを困らせた。しりとり。リス。スリランカ民主社会主義共和国。くま。マリ共和国。くるま。マダガスカル共和国。くすり。リトアニア共和国。もうやめたときみが根をあげた時だった。水たまりに青空が映り込み雲が静かに流れていた。クラクションは徐々に大きく近づいてきて一瞬にして君を連れ去った。水たまりが割れた。水はいっせいに逃げた。空は四散した。すべて一瞬のことなのに私に
一 人間も考えることを辞めたらものになる ものになる悦びを知ることになる 人間は考える葦である はずがない 足の生えた葦である ものごとの善し悪しを 外側に持つものである だったらどうなる どうとでもなる そして どうにもならない 考えることを辞められた試しがない 死ぬことを除いては 二 誰だったか知らない? 私は知らない ハキリアリが葉を運ぶ様子が 延々画面に映されている 切った葉っぱをどうするの? 農業をするらしいよ 立派なもんだねえ ほんとにね 彼は何を考えてるの
今回でカフェオレ広場season3の感想はラストです。 前回は木葉揺さんの『街の灯』まで書きました。 それではさっそく前回同様敬称略でいってみよー こんな夜にかぎって 星野灯 「ほかほか」「つらつら」「なみなみ」「せらせら」各オノマトペに語り手の感情の起伏を感じた。 真夜中で他の店は「全て閉店時間」で「こんな夜に限って ハンバーガー」。故人を思うと「こんな夜」なのだが、「こんな夜」だから「ハンバーガー」というどこにでもある日常が心にそっと寄り添うのだろう。 ギフト
前回は角朋美さんの『龍の通り道』まで感想を書きました。 さて、続きです。 さっそく今回も敬称略でいってみよー 紫 能美政通 「餡子餡子餡子餡子の連呼」を思わず連呼したくなる。意味で捉えようとするのやめた。音で楽しむ作品だと思う。言葉遊びが面白いのは言わずもがなだが、一番面白いのはタイトル。これだけ餡子と連呼して「紫」とつけるセンスに脱帽。もう餡子とかどうでもよくなってその色のみが残った感じがしてまさしく「紫雲に乗って虚空へと消え」たのだろう。 むらさき 全文ひらがなで
カフェオレ広場season3を尾崎ちょこれーとさんから御恵送していただきました。 忙しい忙しいとなかなか感想に着手出来ていませんでしたが、やっと書き始めました。 今回は「食」がテーマということで、美味しそうな詩がたくさん読めます。 では、敬称略でいってみましょー。 「傘はもういらない」長尾早苗 祖母との思い出を描いた作品。 「(そういえばおかき揚げを最近食べていない)」という気づきがこの詩を書くきっかけになったのではないかと感じた。 きっと語り手は自分のことを泣き虫だと
ジグザグで今にもちぎれてしまいそうだ。そんな私でも愛ならば知っている。昨夜、父親が首を吊った。死ななくてよかった。と思った。感情ってやつはどうしていつもちぐはぐなんだろう。始発電車だからか車両には私一人だった。 深夜、母からの着信で父のことを知った。電話越しの母は嫌に冷静だった。母は普段から声の平熱は低い。もともと声を荒らげたりする人じゃなかった。そんな母がより冷たい声で言った。 「お父さんが自殺未遂したから早く帰っておいで。」 「うん、わかった。」とこたえる私の声も低体温に
神さま電話は0120 スリーツーワンの エクリュでチャコールなガイダンス に従って 徒然にフォンコール 季節ごとに とりどりのしきたりがあり まずはじめにことばあり きたりに行方不明な エクリチュールの 明眸で玲瓏なる音色の 花が咲き 鳥が飛び 犬が吠えて 風が吹き 人は歩く けれども 神さまはどこにいる? どこにでもいる フォンコール 神さま電話は0120 ワンツースリーの 天竺のモダールの 艶のある肉感の 聳え立つそそり立つ 無言電話の フォンコール 裏刈りに満ちた
それは夏。きみは私が見えなくなるまで見送った。と思う。私はただの中学生だけど、アコギ一本でどこへまで行けるか試したかった。できれば、歌舞伎町まで行ってみたかった。 「本当に行くんだな?」 先生と二人きりの体育館。私は『血反吐を吐く』という文字列を意味もなく浮かべていた。体操着からほつれた糸がてろてろと飛び出しているのを見つける。体育シューズの靴紐が縦結びだと気がつく。 「そこまでして探すものなのか。きみにとっての人生ってやつは」 私はほつれた紐を爪で切ろうとしながら、先生の
めりりきりりくるるっぱ とんで アグリッパアグリッピナ ひくことの 自由 を お まえに あ、たえる みしし っぴ あかみ みがめ を 川に逃がす そんで もって カワニナにする! 川に何する! とどのつまり、北米原産の外来種である。しかし、彼らが縁もゆかりも無い北米の地に思いを馳せるのはハリウッド映画を観るときだけだ。なぜなら、彼らはいつもカーチェイスをしているし、壮大な陰謀が渦巻いているし、突如として得体の知れない化け物に襲われることがあるからだ。 甲羅干し。それは表
佐々木蒼馬さんの詩は帰り道だ。それもどこへ帰るのか定まった帰り道ではない帰り道だ。かつて確かにそこにいたと思えるけれど、そこがどこははっきりと言葉に託せない場所。そんな場所を求めて佐々木さんの詩は歩み続ける。 詩集『きみと猫と、クラムチャウダー』はたどり着かない帰り道、その先で待っているであろう「きみと猫」、いつまでも帰途であり続ける詩人の確固たる歩みの記録である。 雨がふりはじめたのはちょうどそのころだった 季節が変わろうとして 風もばたばたしはじめて 世界はいま、大きく
かほは不思議な夢を見る少女だ。沢山のへんてこりんな生き物が出てくる夢。空を泳ぐタコ。手足がニョキニョキ生えたキノコ。そのキノコは目にも止まらぬ速さで走った。一見、巨大な岩と見紛う程の大きな大きなカメ。その他例を挙げると枚挙にいとまがない。そして、そのすべてが奇怪だった。 かほは奇怪な生き物たちに時にはおびえ、時には笑い、時にはあまりの美しさに涙した。共通して言えることは彼女が夢の生き物を平等に愛でたということだ。 かほは夢の生き物を忘れてしまわないように毎朝起きると同時に
シナプスが、 コンプレックスに、 脈打つ朝は、 遠巻きに見てたあの子を、 台無しにしたくなる。 海が近い街で、 海を見ずに過ごす日々。 人ばかり見ている一人。 ぼくを見る人はいない。 澱んだ川には、 鴎が群がり、 ぼくの影を一層際立たせる。 石ころを転がした先に、 些細な仲違いや蟠りの、 あたたかい色はない。 イロニーと虚無、 重ね着と前借り、 青空と静脈、 虎落笛と耳あて すけて、 みえて、 すけて、 みせて、 きれいな放物線を描いて、 あの子は彼方へ飛んでいった
報告書 村上さんは「ぼ、ぼくは米田さんと一緒にお仕事できてめちゃくちゃ嬉しい」と言った。私は村上さんの純朴な瞳に気圧されて、ぎこちない笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言って俯いた。何でこんなことしているのだろうか?とふとよぎった。良くない思考だ。そうとわかっていても、良くない思考を止めることができない。何の意味がある。意味なんて求めていないくせに。村上さんは「い、一生懸命お仕事して、ホームの人と旅行に行きます」と元気よく宣言した。 心にもなく「頑張りましょうね」と言
夜、海のカーニバル、 満潮の、漣ひとつ、満潮の、 宵闇の、浅瀬で拾う貝殻の、 銀河を意味する巻貝の模様、 萌えいづる大海に沈むもの、 厳選された深海の聖遺物の、 粗野で、臍を噛む癖のある、 腐りゆくクジラのはらわた、 ジャンケンでチョキをだす、 メンダコの揺れている歯舌、 拒絶、女の形をした、拒絶、 途絶えた両目にあいた穴の、 逆さまの真理の誤謬を好み、 夜、海のカーニバル、 夜、海のカーニバル、誰も知らない水死体を啄む海の幸、その海の幸を食べる人達が、また水死体となり、海
「死んだ魚というより、死神みたい」 知らない女から言われた言葉をいつまでも引き摺っている。死神みたことあんのかよ?私はない。でも、あの女ならもしかしたらと思わなくもない。それくらいには雨の似合う女だった。 大時化の海を見に行った。母を見舞った帰りだった。二月末、台風並みの低気圧の日。嵐。山ほど風が吹くから嵐なのか。母の病室からは海がよく見える。海沿いの小高い丘に病院はあった。棕櫚が可能な限りを尽くして風に撓っていた。今に折れるのではないかと微かに期待したが、折れることはなかっ