磯嘆きの女

「死んだ魚というより、死神みたい」
知らない女から言われた言葉をいつまでも引き摺っている。死神みたことあんのかよ?私はない。でも、あの女ならもしかしたらと思わなくもない。それくらいには雨の似合う女だった。
大時化の海を見に行った。母を見舞った帰りだった。二月末、台風並みの低気圧の日。嵐。山ほど風が吹くから嵐なのか。母の病室からは海がよく見える。海沿いの小高い丘に病院はあった。棕櫚が可能な限りを尽くして風に撓っていた。今に折れるのではないかと微かに期待したが、折れることはなかった。舌打ちをした。悪い癖と認識していながら、舌打ちをやめられない。先日、大手術を乗り越えた母は、ただでさえ小さいのに手術前よりさらに小さく見えた。人間ってこうやって弱って死んでいくんだなと納得してしまった。何もこんな日に見舞いに来なくてもよかったのにと母は弱々しい笑みをみせた。私は母に背を向けて窓外を見ていたので、実際に母が笑みを浮かべたかどうかはわからない。笑った気がした。
右へ左へ撓る棕櫚を見ていたら、直に嵐の中へ身をゆだねてみたい衝動がふつふつとわいてきた。幼い頃から私は衝動に駆られて、いや、衝動に狩られて、周りに言わせれば突拍子もないことをやってしまう。舌打ちをやめられないように、してみたいと思うことを実行せずにはいられないのだ。
小学生の時、校舎の二階から飛び降りたことがあった。中学の時に何となく友達の椅子に画鋲を置いて怪我をさせた。高校では初めてできた彼氏をいきなり殴って別れた。どれもこれも急にやりたくなってやってしまった。良くない結果になることをわかった上でやってしまった。バチが当たるよだとかこのバチあたりだとか、言うことを聞かない私に母はよく言った。母の言葉通りバチが当たったんだ。罪にはそれ相応の罰が必要だ。罪状を知らないまま、自らに刑を科して生きてきた。名状しがたい罪の意識に苛まれて、自分を傷つけ、不利益を選んできた。
また来るからと言って病院を後にした。横殴りの風に足を取られながら、海をめざして歩いた。海へ続く階段を降りながら、どうしてこうなった?どうしてこうなった?と繰り返し自問した。舌打ちもした。
高校を卒業してすぐにシロアリ駆除業者に入社。やりたいなんて一ミリも思っていない仕事だった。女は私一人だった。そもそも虫なんて触りたくなかった。それでも今のところ社会にでてからは衝動に狩られていない。たぶん、したくもない仕事自体が私にとって罰なのだ。いつも噴霧器を持って床下に潜ると、そのまま床下で眠りたくなる。床下に忘れられたいと思う。母はそんなきつい仕事やめなさいと言う。それもそうだと思う。けれど、私は自分への罰を捨てることができない。
雨が降ってきた。強風も相まって視界は最悪。最悪の視界の中、階段を下りきり、浜辺についた。浜辺にはすでに先客がいた。女だ。長い黒髪の女が蹲っていた。私は女の顔が見たいと思った。思ったというより、見なければいけないという義務感を感じた。女の隣に同じように蹲って、顔を覗き込もうとした。

「死んだ魚というより、死神みたい」とその女は言った。
「え?」と私は訊き返した。
「あんたの目」
「目?」
「うん」
私は知らない女と、病院のロビーに座っていた。浜辺で女を見つけてから、無言のまま二人でじっとしていた。やがて、女は立ち上がり、私に手を差し伸べた。私はその手を握って立ち上がった。そして、無言のまま病院に戻った。
「死神が来たのかと思ったのに」と女は言った。
「死にたかった?」と私は訊いた。女は黙って首を振り、「忘れて」と小さく呟いた。
「磯嘆きって知ってる?」と女は訊いた。私はその時、初めて女の顔をまじまじと見た。薄幸という言葉が頭に浮かんだ。今にも消えてしまいそうだと思った。月明かりのような淡い光。そんな女だと思った。
「磯嘆き……?」
「うん、磯嘆き」
「なにそれ?」
「春の季語」
「はあ」私に文学の素養はない。季語と言われてもわからなかった。
「悲しい音よ」と女は言った。

それから……それからどうしたんだっけ?雨の中、再び出ていった女の背中だけが、脳裏に焼き付いている。
私は死神みたいな瞳の女……らしい。ほんとにそうかもしれない。母はそれから二週間後に死んだ。不思議と悲しくはなかった。女が言った「磯嘆き」という言葉にはどんな意味があるのか、今もわからない。私はまた海に来ていた。今日は快晴。女がいるのではないかと期待したが、いなかった。いるはずないか。あれは嵐だから出会えたのだと一人納得した。私はふと、このまま海の深みへと歩いてみたくなった。深みへ深みへと行くうちに磯嘆きの悲しい音が聞こえてくる。そんな気がした。そんな気がして、そんな気がしたから、私は、私は、私は、私は、⎯⎯⎯

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