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【エッセイ】武蔵(東京編)④─上野公園と寛永寺(『佐竹健のYouTube奮闘記(35)』)─

 桜並木のある公園の中の大通りを左折し、上野東照宮を目指して歩いた。

 去年の摺鉢山古墳の取材へ行ったとき、上野東照宮の参道に植えてあるあじさいがきれいということに気づいた。今年もアジサイの時期が来たので、きれいに咲き誇っているだろう。そう思ったので、行ってみることにしたのだ。

 アジサイは今年もきれいに参道脇に咲いていた。近くに「上野東照宮」と書かれた旗があるのがまたいい味を出している。


 東照宮の鳥居をくぐると、参道の石畳に沿ってたくさんの灯篭が並んでいた。

 そしてそのまままっすぐ進むと、目の前に黄金の門が見えてきた。これが、上野東照宮である。

 上野東照宮は元々藤堂家の上屋敷にあったもので、家康の死後藤堂高虎が作ったものとされている。後に寛永寺ができると、ここが正式な家康を祀る霊廟の一つとなった。ちなみに久能山(静岡)と日光(栃木)のそれも、その一つである。

(神々しい……)

 これだけでも徳川家康という人の偉大さがわかる。絢爛豪華なのが江戸時代初期の流行だとわかっていても、どこかひれ伏したくなるような迫力があるからだ。


 参拝を終え、上野東照宮を出ようとしたとき、大きな五重塔があるのが見えた。

 この五重塔は、寛永寺の五重塔だった。建てたのは、土井利勝という人物。

 土井利勝という人物だが、この人物には奇妙な都市伝説がある。家康にそっくり過ぎたため、徳川家康のご落胤ではないか? と言われていたそうだ。

 また、この五重塔は、かつて上野公園一帯にあった寛永寺のものだった。

 今の寛永寺は、上野の少し奥まった場所にあるが、江戸時代の寛永寺は、とても大きなものだった。本堂が東博や噴水の辺りにあって、その周りにはたくさんの子院があったそうだ。また、徳川将軍家の菩提寺の一つであることや、座主が皇族であったことから、その格式も高かった。

「そんな大きな寺院が、なぜ小さくなったのか? なぜ、その跡地が公園になっているのか?」

 これについては、155年前に起きた彰義隊の乱が影響している。

 彰義隊というのは、徳川慶喜を守る有志の護衛団、いわば「徳川慶喜親衛隊」というべき存在だった。だが、新政府軍が江戸に入ってからは、江戸城を明け渡したことからわかるように、慶喜は恭順の意を示した。

 このことにより、彰義隊は解散することになった。が、それに反対する人たちもそれなりにいた。

 彰義隊の存在が目障りな新政府は、彼らを旧幕府軍の正式軍隊とみなし、攻撃した。

 彰義隊は、天野八郎など率いる幕臣3000人が、上野寛永寺に立てこもり、新政府軍と戦うことになった。

 この戦いで、寛永寺の山門や本坊といった主要施設のほとんどが焼失。ただ、幸い上野東照宮や後で行く清水観音堂、そして今目の前にある五重塔は残った。

 寛永寺の跡地は新政府に接収され、後に大学東校(後の東大医学部)の建設候補地となった。だが、貴重な自然が失われることを嘆いたオランダ出身のボードワン博士の献言により、公園として存続することとなった。これが、現在の上野公園である。

 ちなみに肝心の寛永寺はというと、奥まった場所で密かに寺として存続している。お堂の中にある仏像の神々しさがとても素晴らしいお寺なので、時間に余裕があり、暑さもそれほどでなかったら行ってみたかった。


 上野公園を縦断する大路を南へ進むと、右手にお堂が見えてくる。

 ここが清水観音堂である。

 清水観音堂は文字通り、京都の清水寺に見立てられて作られた。現在の場所に移る前は、摺鉢山古墳の辺りにあったとされている。

 お堂は不忍池と弁天堂が一望できる崖に建てられている。そして「清水」の名にふさわしく、しっかり下には柱と梁が組み合わさり、上にあるお堂を支えている作りとなっている。

(しかし、コピー度高いな)

 京都にある本物の清水寺の観音堂も見たことがあるが、本当にそっくりである。お堂の立地、その下に桜が植えられているところとか。ただ、似ていないところは「高さ」だろうか。これを言ったらオシマイなのだが。

 お参りを済ませた後、近くの坂にあった階段を降り、不忍池を目指した。坂に咲いている紫や赤、青、水色に彩られたアジサイの花を見ながら。


 不忍池には、幅の広い円形の蓮の葉がたくさん生えていた。その中に、大きな蓮の花の蕾がいくつかあった。

(蓮の花はまだか)

 蓮の花を見るには、まだ時期が早すぎた。

 不忍池は蓮の花の名所としても知られていて、7月の初めぐらいになると、薄いピンク色の大輪の花を咲かせ、池を彩る。

 昔はよく見に行っていたけど、最近は行っていない。暑いし、蓮の花見どころではなくなるので。

(ひとまず、中之島の弁天様にお参りして帰ろうか)

 池の様子を軽く見た後、私は中之島の弁天様を目指した。

 参拝を終えたあとは、そのまま大江戸線の上野御徒町の駅から電車に乗って帰った。

(続く)


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