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【エッセイ】上総②─椎津城と上総の武田氏─(『佐竹健のYouTube奮闘記(55)』

 椎津城の入り口は、民家の目の前にあった。

 入口には舗装された坂があり、上は脇に植えられた樹木の葉っぱで陰になっている。

(なんだかここも冒険のにおいがするな)

 入口を見た私はふいにそんなことを思った。

 以前訪れた大庭城のように、この先に何かがあるのだろうか? そんなことを考えると、少しワクワクしてくる。


 椎津城について話そう。

 椎津城は、千葉県の市原市の姉ヶ崎地区にあった城だ。

 城主は千葉氏の一族であった椎津三郎、三浦定勝、真里谷武田氏とも言われているが、正確なことはわかっていない。戦国時代には、安房の里見氏と小田原の北条氏との争いの舞台となった。

 椎津城のある姉ヶ崎地区は、足利家の分家の分家である小弓公方の居城がある小弓(千葉市)と佐貫(冨津市)の間にあった。また、海も近いため、椎津という地名が示す通り、海運も盛んであっただろう。このようなことから、椎津という土地は、小弓公方や上総の北側にいる味方への連絡、そして交易において重要な地であったことは想像に難くない。交通の要所となる場所では、どうしても人や物の行き来があるので、そこから得られる利益を巡って争いが起きてしまいやすい。


(そういえば、武田家って、甲斐の武田だけじゃないんだよね) 

 武田氏といえば、読者の皆さんは甲斐の武田信玄や勝頼のことを連想するだろう。だが、武田氏は各地に分家がいた。例を出すと、広島の安芸武田氏、福井の西側の若狭武田氏といった感じで。武田を名乗っていない者だと、東北の南部氏や北海道の蠣崎氏なども含まれる。

 甲斐武田以外で有名な武田といえば、安国寺恵瓊だろう。

 彼は、もとは安芸武田氏であった。だが、僧侶となり、織田と毛利の交渉役を務めた。

 恵瓊は織田信長や豊臣秀吉とも会っていて、そのとき、2人の将来について、

「信長は公家になるけど、3年でダメになる。秀吉は大人物だ」

 と評していた。

 信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉の天下となると、彼は大名として取り上げられるようになる。秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは、西軍の中心人物となり、負けたあとに捕らえられ、石田三成や小西行長とともに斬首された。

 あと、武田氏は有名過ぎるためなのか、偽武田も多い。

 水戸藩士で天狗党という尊王攘夷派の集団の頭目であった武田耕雲斎や、新選組の5番隊組長武田観柳斎が武田を騙っている者としてよく知られている。

 武田耕雲斎は、もとの名字が跡部という名字で、その「跡部」という名字が、武田一族に連なっていたことに由来している。なお、武田観柳斎はもとの名字が「福田」なので、完全に武田氏にあやかってつけたものだ。

 武田観柳斎という人物についても軽く解説しておくが、彼は新選組の五番隊組長であった。

 観柳斎の武器は、剣でも槍でもない。甲州流の軍学と有職故実(公家や武家の礼儀作法とか)に精通していることだった。新選組の頭脳兼文化担当だったのだ。

 だが、観柳斎自体かなり人格に問題のある人物であったことや、幕府が最新式の英米式の軍学を奨励したことなどから、新選組の中で孤立した。

 孤立した観柳斎は、新選組を脱隊し、かつての仲間であった伊東甲子太郎(新選組参謀。後に新選組から独立し、藤堂平助らを率いて御陵衛士という組織を築き上げた。が、油小路で新選組に粛清された)や敵であった薩摩藩を頼った。だが、拒絶されてしまう。途方に暮れていたところを斉藤一らに殺されてしまった。

 彼の人格がいかにヤバいかについては、司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新選組血風録』を読むといい。もちろん小説なので、多少の脚色や誇張はあるかもしれないが。

 あと余談だが、『るろうに剣心』でアヘンを売りさばき、自邸でガトリングを放っていた武田観柳のモデルは、この武田観柳斎である。

 モノホンの武田にニセ武田。名族ともなると、末裔を自称してくる者も多くなってくる。


(でも、どうしてこんなところに武田一族が?)

 衝撃的な事実に、私は頭を抱えた。一時は戦国時代について調べていたことがあったので、安芸や若狭に武田氏がいたことは知っている。だが、上総にも武田がいたという事実は、初めて知った。

 上総の武田氏について後で調べてみたのだが、かつて武田信長という人物がいて、甲斐からここ上総に入ったところから始まるそうだ。そして嫡流は庁南の、分家は真里谷の城に入って土着したらしい。

 それにしても、武田信長という名前は、とてもインパクトがある。名字が武田信玄の「武田」で、名前が織田信長の「信長」だから。


 椎津城の入り口の坂を上った。

 坂を上ると、開けた土地が見えてきた。開けた土地には、見晴らしのいい場所と竹に覆われた立派な土塁があった。

 見晴らしのいい場所からは、目の前にある民家の屋根と秋の空、そしてここへ来るときの通り道で見かけた鉄筋でできた煙突が見えた。見晴らしのいい場所だから、当時はこの辺に見張り台のようなものがあったのだろうか? もしくは、ここに敵を引き付けて弓矢や鉄砲で一気に一網打尽にするスペースでもあったのだろうか?

 一番気になるのが、真ん中が切れている土塁だ。土塁の上には竹が密集していて、真ん中は切れて通り道になっている。城跡だったので、昔はここに門か何かがあったのだろう。

 通り道の先には、土塁や木々で囲まれた空き地があった。おそらくだが、ここに昔、城の建物があったのだろう。そんなことを想像しながら、入口へと近づいた。

 入口の端に生えていた竹に、

「房総の戦国史 椎津城主郭」

 と書かれた木の看板が針金で固定されていた。

(あ、やっぱり)

 勘が当たった。やっぱりここに、建物があったんだ。

 一通り城跡をめぐったあと、私は近くにあった八坂神社へと向かった。

(続く)


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