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【私小説】読書と私 その1─死後の世界について─

 頭が悪いくせに、どういうわけか私は本を読むのが好きだった。もちろん頭の方がよくないので、読むのはゆっくりだが。

 読んでいるジャンルは、趣味や実用書の類が多かった。物語も気分転換に読んでいたが。

 趣味や実用書の類といっても、プログラミングやギターの入門書といった実になるものではない。オカルトや陰謀論といった、胡散臭いものばかりだ。たまに文学やサブカル関係のものもよく読んでいたが。それゆえに、金になった知識は、何一つない。


 中学2年のころから、死について興味を持つようになった。

 死んだら人はどこへ行くのだろうか? そんなことが、ふいに気になってしまったのだ。別に親やペットが死んだからといった重い理由ではない。年ごろの少年が考え始める哲学的な問い。これに近い。

「突然だけど、死についてどう思う?」

 朝三浦くんが来たときに、この疑問について聞いてみた。

 三浦くんは大笑いしながら、

「死か。死んだら無じゃないか」

 と答えた。

 彼の言っているのにも、一理ある。死んだあとは火葬されてみんな灰になったり、土に還ったりする。あるいは野生動物の餌となる者もいるかもしれない。最終的には何も残らないのだ。悲しいものだ。

 それと同時に、どうして死後の世界があるのだろうか? と考えてしまった。何も残らないのに、なぜ死後の世界があるのだろうか。そう思えてならない。何も残らないなら、それでいいのに。

「だったら、地獄とか天国とか、何なんだろうな」

「まあ、幻想だろう。でも、考えてみると面白いよな。民族や宗教によって、何が天国で何が地獄になるかが変わるんだからよ」

「うん」

「死後の世界に興味があるなら、『死にカタログ』読んでみろよ。図書館にあるからさ」

 本の紹介をしたあと、

「『死にカタログ』ね。メモしとく」

 私は学ランのポケットからシャーペンとメモ帳を取り出した。

 そして忘れないうちに「『死にカタログ』が図書館にある」ということをメモしておいた。

 寄藤文平の『死にカタログ』という本を借り、朝の読書の時間に読んでみることにした。

 本の内容は、タイトルにもある通り「死に方」について。

「死に方」がテーマの本だったので、死後の世界についても載っていた。

 天国と地獄についてはもちろんのこと、様々な民族の死生観がわかりやすく書かれていた。神道における黄泉の国、バイキングの戦士たちの楽園ヴァルハラ。有名どころはしっかり描かれている。

 特に驚いたのが、仏教において地獄は8層に別れているということだった。

 地獄と聞くと、針の山や血の池が、同じ場所にあるかのように見受けられる。

 だが、実際はそう単純な世界ではない。

 仏教の地獄というのは、罪の重さに応じて、等活地獄、黒縄地獄、焦熱地獄、無間地獄といった感じで振り分けられる。

 他にも、他の島で暮らすなどといった平穏な死後の世界も衝撃的だった。これはこれで、快適なのかもしれない。辛い目に遭うわけでもなく、かといって永遠の幸せを享受されて退屈するわけではないのだから。


『死にカタログ』を読んだあと、三浦くんにこのことを話した。

 得意気になって、三浦くんは死後の世界について語る。

「読んだのか。まあ、死後の世界にもいろいろあるのさ。天国か地獄に行ったり、生まれ変わったり、何か別の存在になったり。人の数だけ、死後の世界の形は無限なのさ」

「へぇ」

「あと、仏教の死後の世界は極楽と地獄だけじゃないんだな」

「どういうこと?」

「自分で調べな。『水木しげるのあの世の事典』でも読んで」

「『水木しげるのあの世の事典』か……」

 学ランのポケットからシャーペンとメモ帳を取り出した私は、すぐに紹介してくれた本の名前をメモした。

 放課後、学校と区の図書館で『水木しげるのあの世の事典』を探した。だが、無かったので、日曜日の朝、隣町にあるブックオフまで、自転車で遠征して探すことにした。

 まだ朝だというのに、陽射しがまぶしく暑い中を駆け抜ける。朝も暑い日差しを浴びると、もう梅雨が明けて本格的な夏になったんだなとしみじみと思う。

 隣町にあるブックオフに着いた。

 哲学・宗教の本が並んでいるところを物色する。その中に『水木しげるのあの世の事典』があった。文庫本サイズくらいの大きさの。

「あった」

 探し求めていた本をレジへ持っていき、会計を済ませた。その後、本屋や服屋をめぐって時間を潰した。


 近くのスーパーで昼食を食べたあと、私は『水木しげるのあの世の事典』を読んだ。

 リアリティのある絵とわかりやすい文体で、様々な民族や宗教の死後の世界が語られていた。

「さてと、日本のあの世観について調べてみるか」

 パラパラと本をめくり、私は日本のあの世観について書かれたページを開いた。

 そこには、死後数回の裁きを経て生まれ変わる六道輪廻、神道におけるあの世である黄泉国や根の国について書かれていた。また、補陀落渡海や常世国、アイヌのあの世観といった専門的なことについても触れられている。

(やっぱり本当だったんだな)

 人間界を除いた六道輪廻の五道について書かれた読んだ。死ぬと様々な仏様の裁きを受けて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天のいずれかに行くのだそう。三浦くんの言っていることは、本当だったのだ。

(やっぱり、地獄と餓鬼道は嫌だな。修羅道も嫌だけど)

 心の中でそうつぶやいて、私は本を閉じた。続きはまた今度、といっても、帰った後ゆっくり読むのだけど。


 後日私は調べたことを三浦くんに話した。

 楽しげな笑みを浮かべ、三浦くんは返す。

「本当だったろ? 俺の言ってたこと」

「うん。お前、地獄に行くね」

「さて、それはどうだろな──」

 自分は何の罪もない善良な子羊です、と言わんばかりの自信満々な表情で三浦くんは言った。

 言いたいことがなんとなくわかった私は、

「『地獄の沙汰も金次第』とでも言いたいのかな?」

 と聞いた。

「『南無阿弥陀仏』と唱えれば悪人でも極楽へ往生できるんだぜ」

「そ、それぐらい知ってるよ」

「お前本当に勉強してないんだな。無知なのがばれてるぞ。死後の世界という哲学的な考察をしている暇があるんだったら、君は勉強した方がいいんじゃないか。またろくでもない点数を取って怒られても知らんぞ」

「うぅっ……」

 痛いところを突かれて、私は何も言い返せなかった。

 死後の世界について一通り調べて、わかったことがある。それは、

「死後の世界一つを取っても、いろいろあるんだな」

「世界は自分が思っている以上に広い」

 ということ。

 民族や宗教、住んでいる土地が違えば、死後の世界に対する考え方も変わってくる。ただ、当時の私は、風土から死後の世界を考察することが出来なかった。それが少し残念に思えてならない。

 世界は自分が思っている以上に広い。これについては、死生観について私は全くの無知だったことを知った。六道輪廻や黄泉国、地獄についての詳細、根の国の存在。日本で生まれ育っていても、これらのことについては全く知らなかった。

 あと、死後の世界がなぜあるのか? については、昔の人の想像力の賜物なのだろうという答えに行き着いた。

「こんな死後の世界は嫌だ」

「死んだあとはたらふく食べられる場所に行きたい」

「死んだ人は、私たちのいる世界とは違うどこかで生きてるんじゃないか?」

 そんな他愛ない空想から作られたものなのだろう。それを極悪人や善人にカテゴライズさせた結果が極楽や地獄に過ぎないだけであって。

 無駄に見える知識は、自分の世界を広げてくれる。そして広がった世界は、いろいろな方向へ転がっていき、さらに大きなものにしてくれる。いや、有益か無駄かを論じる前に、そもそもそうした括りでまとめられるほど、知識というのは単純なものではないようだ。


【参考文献】

寄藤文平『死にカタログ』(2006)大和書房 第5冊

水木しげる『水木しげるのあの世の事典』(2002)大和書房 第1冊


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