【エッセイ】駿河④─今川氏の歴史(再投稿)─『佐竹健のYouTube奮闘記(75)』
3階には今川氏についての特別展が開かれていた。
解説には今川氏の系図と歴史について書かれたパネルがあった。
パネルには、今川氏のはじまりや家督相続をめぐる争乱、戦国時代のこと、そして戦国大名今川氏の滅亡とその後について展示されていた。
展示物としては、刀剣類だと薙刀や袈裟といったものが展示されていた。もちろん歴史を語るうえでは欠かせない文書の類もしっかりある。
数ある展示品の中に、僧形の像があった。
誰の像なのか、解説を読んでみる。
この像の解説には、「今川義忠」とあった。
(あれ、何か今川義忠像思っていたのと少し違う)
今川義忠のイメージが違っていたことに少し驚いた。義忠といえば、青い狩衣を着た気の好い青年というイメージがあった。このイメージの初出は司馬遼太郎の『箱根の坂』という北条早雲を主人公にした小説に出てくる義忠なのだが。そう考えると、司馬先生の人物描写力がいかに卓越しているかがわかる。
今川義元の像もあった。こちらについては、束帯姿がよく似合う公家風のイメージ通りといったところだろうか。
今川氏について語らねばなるまい。
今川氏とは、清和源氏の足利氏から出た一族である。代々駿河と遠江の守護職をつとめていた。
駿河の今川氏は、南北朝時代に初代の今川範国が、足利尊氏に駿河・遠江の守護に任じられたことに始まる。二代目の了俊は、肥後の南朝勢力である征西将軍の懐良親王や現地の豪族菊池氏に対抗すべく、九州探題に任じられた。また南北朝の争いの当事者ということで『太平記』の異伝を書いている。
室町後期に入ると、家督争いが起きた。
5代目の今川義忠が、尾張の斯波氏と戦っていたときに討ち死にしたのである。享年30歳だった。
義忠のいとこである新五郎範満が、母方の実家である関東の扇ヶ谷上杉家の軍事力をバックに守護候補として名乗り出たのである。
だが、新五郎範満の守護就任には、問題があった。亡き義忠には、6歳になる息子にして嫡子竜王丸がいたのである。
本来であれば、義忠の嫡男竜王丸が継ぐのが道理である。それを軽んじて新五郎範満が守護になろうとしている。これが問題になった。
この事態を収拾すべく、竜王丸の母である北川殿は、実家で幕府の政所頭人の職にあった伊勢家を頼った。そしてやってきたのが、自身の弟であった伊勢新九郎という人物であった。この伊勢新九郎という人物は、後の北条早雲である。
新九郎は、扇ヶ谷上杉家の執事であった太田道灌と話し合い、
「竜王丸が成人するまで新五郎範満が守護の代理をする」
という形で一応の解決をした。新九郎の実家である伊勢家と関東の名家である扇ヶ谷上杉家の顔を上手く立てたのである。この功績で新九郎は駿河と伊豆の境近くにある興国寺城の城主となった。
あれから十年近くの歳月が経った。
竜王丸は無事成人し、今川氏親と名を改めた。
約束であれば、氏親が成人したところで駿府館を明け渡すべきである。だが、新五郎範満は、守護代理の座に居座り続けていた。約束を反故にしたのだ。
約束が違うということで、新九郎は新五郎範満を殺すことを決意。同志を集め、駿府館を襲撃した。
氏親はその後晴れて駿府の館に入り、今川氏の当主、そして駿河・遠江守護となった。
駿河・遠江の二ヶ国の守護となった氏親は、『今川仮名目録』という今川領内の法律を作ったり、自身の書状にハンコを用いたりするなど、画期的なことを次々行った。
特にハンコを使う形式の書状は、各地に広まっていった。もし彼がいなければ、織田信長の「天下布武」というハンコはできていなかっただろう。
氏親亡きあと、彼の三男氏輝が跡を継いだ。だが、彼は病弱だったので、母親の寿桂尼という人物が代わりに政治を執っていた。彼女の活躍もあり、駿河・遠江は何とか回っていた。が、ここで病弱な氏輝は早逝してしまう。
氏輝には嫡子がいなかったので、今川家の家督は亡き氏親の庶子に委ねられた。
跡継ぎの候補となったのは、氏親の息子で僧侶となっていた玄広恵探と幼き日の義元であった。
義元は太原雪斎の力を借りて、玄広恵探を破り、今川氏の当主と駿河・遠江守護となった。そして三河へと勢力を伸ばし、岡崎や三河安城の辺りを治めていた家康のご先祖様を屈服させた。このことにより今川氏は、尾張守護であった斯波氏やその守護代織田家を脅かすほどに成長した。
また義元は、甲斐の武田信玄や小田原の北条氏康と同盟を組んで、各地の敵対勢力に対抗し、駿河、遠江、三河の安泰に寄与した。他にも、京都の公家たちとも繋がりを持ち、朝廷との結びつきも強固なものとした。
強大な軍事力とバックボーンを持った義元は、上洛を考え、1560年の夏に敵対している織田家が領している尾張へ攻め込んだ。
このときの尾張の支配者は若き日の織田信長。前の織田家当主であった信秀は、寝床で急死したため、正室であった土田御前との間に生まれた嫡男であった信長が跡を継いだ。その後、尾張国内の敵を掃討し、尾張を統一したのである。信長の尾張統一に関しては、尾張編で詳しい話をするので、ここではあえて省く。
義元は信長家臣団が守護する尾張国内の城や砦を順調に撃破していった。順調なのは言うまでもない。信長が「うつけ」として名高かったので、彼を見限って義元に着く国衆がいたためである。
その「順調さ」が、彼の命を奪うことになる。
義元は兵力を分散させ、桶狭間で休憩をしていた。休憩の理由は、途中でゲリラ豪雨が降っていたので雨宿りをしていたことや、お昼時だったので昼食を食べていた感じだろうか。
休んでいたところへ、信長が率いる軍勢が突然襲い掛かってきた。
信長の突然の奇襲に今川軍は大混乱となった。
義元も善戦したが、信長の家臣にあっけなく討ち取られてしまった。
これが世に言う桶狭間の戦いである。
桶狭間の戦いについては、尾張編で少し詳しく話そうと思っているから詳しくは書かないが、信長の奇襲作戦はあったかどうか疑わしいというのが最近の研究者の見解である。
義元が討ち取られたあとも、今川氏はしばらく大名として存続していた。義元の長男氏真が跡を継いだからだ。
跡を継いだまではいい。だが、氏真青年は不運であった。
まず、氏真青年が家督を継承してすぐ、三河の松平信康が信長の力を借りて独立した。彼は徳川家康と名乗り、積年の恨みを晴らすがごとく、遠江の今川領を蚕食していった。
そして北には武田信玄がいた。交易から利益が得られるため、海を欲していた信玄は、甲斐や信濃から駿河を取ろうと虎視眈々と狙っていた。
追い詰められた氏真は、遠江の掛川城に追い詰められた。そして家康に攻められ、自身の領地を転々としたのち、北条氏の本拠地である小田原へ亡命した。ここに戦国大名今川氏が滅びたのである。
逃げた氏真は各地を流浪し、仇敵信長や豊臣秀吉、幼なじみの家康を頼って天寿を全うした。彼の子孫は代々徳川幕府の高家旗本(注1)として仕え、幕末まで続いた。
今川義元といえば、桶狭間の戦いで織田信長率いる軍勢に討ち取られたことが有名であろう。おかげで現在に至るまで、
「公家かぶれの軟弱大名」
というイメージが付きまとっている。だが、実際はそうでもなかった。先ほど話した事績がそのことを証明している。また、彼の生前の異名が、
「東海一の弓取り」
だったということを考えてみても、彼自身の武士としての実力はそれなりにあったものと考えられる。
蹴鞠を趣味としていたことに関しては、京都の公家たちと対等に接するために必要なので身に着けた。蹴鞠は前近代において、公家などの上流階級と付き合うとき、和歌や『源氏物語』などの国文学や隋唐の文学、笛や琵琶、琴といった管弦の遊びなどと同じくらい必要なものであったからだ。
また、その息子氏実も無能というほどでもなかったが、義元同様の評価を受けている。こちらは家を滅ぼしたということもあり、父義元より低評価を受けている。
氏真に関しては、完全に時代が悪かったとしか言いようがない。
戦国時代、守護をつとめていた鎌倉・室町以来の名族は、有力な家臣や自身の息子にその地位を追われるということがよくあった。いわゆる下剋上という風潮である。
有名な話では、陶晴賢が大内義隆・義尊親子を殺したことであろう。他にも、若き日の武田信玄が自身の父信虎を駿河へと追い出した話も有名だ。伊豆編で話した足利政知とその嫡男潤童子が自身の息子茶々丸に殺された話もここに入る。
氏真もかつての家臣であった家康に遠江・駿河を追い出されたことから、下剋上の被害者であると言える。もし、生まれたのが平和な時代だったら、彼は持ち前の有職故実(注2)の知識などを活かし、学問に造詣の深いお殿様として、後世に名を残していたのではなかろうか。
義元・氏真親子のように、無能とか雑魚のレッテルを貼られた歴史上の人物は数多くいる。だが、近頃は彼らの優れている部分にも光が当たっているので、再評価が進んで名誉回復が進んでほしいものだ。
展示室を出た。エレベーターへと通じているガラス張りの窓の廊下からは、静岡の街が見えた。堀の向こう側に鎮座していた山々もしっかり見える。
窓から見える街を眺めながらエレベーターへと向かっていると、富士山が見えた。
富士山は街の中からひょっこり顔を出している。
静岡の街から見える富士山は、関東から見えるものと比べてかなり雄大で、迫力があった。
(きれいだな……)
立ち止まって富士山を見ていると、近くに座っていた受付の人に、
「きれいですよね」
と声をかけられた。
「はい」
私はそう答え、しばらくとりとめのない会話を交わして特別展が行われていた3階を出た。
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