臼井真幸 『もし、キリストが 聖書を読んだらどう思うか』 : 信仰とは何か を問う〈小さな大著〉
書評:臼井真幸『もし、キリストが聖書を読んだらどう思うか』(幻冬舎ルネッサンス新書)
本書は、信仰とは何かを問う書物となっている。だから、自身の信仰と向き合える人には、励まされる書物であるし、「教会や公式教義の権威」に依存することでしか自身の信仰を保てない人の「無信仰」を挑発することにもなる。そこで、評価が大きく分かれるのだ。
本書の著者の面白いところは、徹底して「イエス・キリスト」のファン(信仰者)であり、「イエス・キリスト」その人以外のほとんどすべてのものは、後づけ小理屈や装飾や夾雑物でしかないと切り捨てて怖れるところを知らぬ「信仰的確信の揺るぎなさ」である。
「あのイエス」なら、こう考えただろう、こうは考えなかっただろう、こうしただろう、こんなことはしなかっただろうという基準で、現にある「キリスト教」さえ裁断して怖れない。なぜなら、彼にはイエス・キリストがついているからである。それが、彼の「信仰」なのだ(インマヌエル=神はわれらとともに)。
つまり、彼にとっての「イエス・キリスト」とは、キリスト教神学が後づけで(旧約聖書を過剰解釈して捏造)定義した「神から遣わされた救世主」などではなく、「人を救おうとして迷うことを知らなかった、偉大な一人の人」なのだ。
こんな著者だからこそ、その著者略歴もこんな具合になる。
この自己紹介を読み解くと、こうなる。
まず「肩書きや勲章の類いは無意味だ」という強固な信念で、これは本書の中でも繰り返し語られている。
もちろん、著者は社会経験も豊かな人だから、それが「社会」では過大な意味を持たされていること(俗情との結託)を重々承知しているが、信仰的視点から見れば、まったく無意味だと(口先で言うだけではなく)確信しており、書けば自慢話になりかねないことは、出来るかぎり書かないようにしているのである。
そして『二歳でカトリックの洗礼を受け、いろいろな教会体験を経て現在はプロテスタントの教会に通っているカトリック教徒。』と、ある意味では(つまり、キリスト教村内においては)大変恐ろしいことをサラッと書いているが、これが意味するのは「イエス・キリストへの信仰」においては、カトリックかプロテスタントかといったことは、些末な問題でしかない(むしろ、問題にすらならない)と考えており、それは一般世間では有り難がられる『ゴルフ、麻雀、カラオケ、スキー、テニスなど』の「趣味」と、同じ位相のものでしかない、という評価を下している、ということなのだ。
また、こんな「キリスト教が、ナンボのもんだ。私はイエス・キリストの信者だぞ」という著者であるからこそ、
と断言することもできる。
つまり、彼が「信仰」するのは「(キリストとして)人を救うために生きて死んだ、神のごとき素晴らしい人であるイエス」なのだ。
そして、彼の「信仰」とは「超越者(神)を崇めること」ではなく「(イエスという)すばらしい存在を心から敬愛して、その生き方に倣う」ことなのである。
彼にとって、イエス・キリストは『超ウルトラ・スーパー・ナイス・ガイ』(P155)であって、「超越者としての神」ではなく、イエス・キリストへの「信仰」とは、いわゆる「宗教」ではないのだ。
だから、彼は、信仰においては「自分で分別する主体性が重要(妄信はダメ)」であり「聖書の記述すらも疑うべきである(科学的な聖書学は必要)」と言う。その上で、
ということにもなる。
彼にとってのイエス・キリストは、例えば私にとっての「仮面ライダー」や小さな女の子たちにとっての「プリキュア」みたいな「救済者としてのヒーロー」だと考えばいい。
つまり、それが「実在するか否か」など、まったく重要ではなく、そこ(物語=福音書)に描かれた「生き方」に心底惚れ込んで「この人のように生きたい」と願う意志、それこそが彼の「信仰」なのだ。
だから、そうした信仰においては、仮に科学的な史実としてイエスが存在しなかったとしても、仮面ライダーが俳優の演じるフィクションのキャラクターであっても、プリキュアが二次元のアニメーションに過ぎなくても、そんな「事実」はまったく問題にはならない。彼らに対する「貴方のように生きたい」という強い「想い」こそが「信仰」だということなのである。
したがって、本書の著者にとっては、「聖書」原理主義や「教会」原理主義は、「信仰」ではない。
それは、真にイエスに「倣う」ことの出来なかった(しなかった)、堕落した人たちの「自己正当化のための、権威依存症」でしかないのだ。そちらこそ、本物の「信仰」ではなく、「信仰」の名を騙った、自己欺瞞であり現実逃避に過ぎないのである。
ところで、本書のレビュアーの中に『本の題名と表紙の絵に騙された!』と書いておられる方がいらっしゃるが、たしかに「あの」いかにも人の目を惹くことだけ意図したようなキャッチーな装丁画や『もし、キリストの母マリアが現代の売春婦だったら…人気ナンバーワンに違いない!?』なんていう(著者が本文には書いてもいない)惹句は、本書の「高潔」とすら呼んで良い中身とはずいぶんギャップがあって、こちら(この装丁)はいかにも「あの目立ちたがり屋編集者・見城徹の幻冬舎」のものらしいとでも言うべきだろう(なお、タイトルと内容の方にギャップはない)。
だが、私も読了後に気づいたのだが、じつは本書にはカバーが二重に掛けられている。
上の方は、上記の「キャッチーな装丁カバー」だが、その下には、じつにおちついた、およそ飾り気のない、本書にふさわしい「謙った装丁カバー」が隠されているのだ。
だから『本の題名と表紙の絵に騙された!』と書いたレビュアーは、たぶん、下のカバーの存在には気づかなかったのだろう。力量的にも『眼光紙背に徹す』というわけにはいかなかったようだ。
初出:2019年3月11日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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