見出し画像

浅見雅一、 野々瀬浩司 編 『キリスト教と寛容 中近世の日本とヨーロッパ』 : 〈寛容〉という言葉の表裏

書評:浅見雅一、野々瀬浩司 編『キリスト教と寛容 中近世の日本とヨーロッパ』(慶應義塾大学出版会)

「寛容」という言葉には、きわめて「美しいイメージ」があって、私たちは(特にリベラルな人間は)「人間、そうでなくちゃね」とか「偏狭な他者排除は許されないよね」などと、簡単に考えてしまう。
しかし、この「寛容」という言葉の意味をよくよく考えてみると、そこに、ある種の「鼻持ちならない、上から目線」が感じられはしないだろうか。

そこでは、「私と(私とは違う)他者」の存在が前提とされているだけではなく、「私とは違う他者」というのが、そのまま「私の方が優れている(あるいは正しい)」という意味において大前提となっているようなのだ。
つまり、「優れている(正しい)私が、劣っている(間違っている)あなた方の存在を許して(許容して)あげよう」というニュアンスが、「寛容」という言葉には、抜きがたく内在しているのである。

だが、リベラルあれ反リベラルあれ、人間にとっては「自分の方が優れている(正しい)」ということは「自明の前提」であり、ほとんど意識されることがないので、「寛容」という言葉の「胡散臭さ」に気づきにくいのである。

さて、本書のタイトルは『キリスト教と寛容』となっているが、かならずしも話題をキリスト教に限定しているわけではない。
サブタイトルにもあるとおり、本書は「中近世の日本とヨーロッパ」における「寛容」というものをテーマにした14本の論文を集めた論文集であり、その時代と「寛容」をテーマにした結果、おのずとキリスト教に関連したものになったのである。

本書でも指摘されているとおり、「寛容」の問題が明確に意識されてきたのは、「宗教改革」において、キリスト教会からプロテスタントが独立したことを契機とする。
自身「正統」であることを自明としたカトリック教会の方が、当初「異端」認定して潰そうとしたが潰せなかった相手を、いかに「受容」するかが問題となってきた際、きわめて政治的でリアルな問題として、「寛容」という問題が、くっきりと浮かび上がってきた。

私たち日本人が現在普通に使っている「寛容」という言葉も、このようなところに出自を持つものなので、ある種の「鼻持ちならない、上から目線」が感じられるのも、当然なのだ。
しかしまた、これはなにも、キリスト教にかぎった話ではない。つまり「対立する二者(あるいは多者)」が存在し、それぞれが「自分が(最も)優れている(正しい)」と思っている人たちの関係性においては、宗教改革の場合ほど鋭角的なかたちではなくとも、「寛容」の問題が生じるのは必然的なことなのだ。「おまえ(ら)を許さん」とか「おまえ(ら)の存在を許してやるよ」というような意識の問題として。

したがって「寛容」の問題は、私たち「すべての人間の問題」であって、無関係な人などいないのだ。「寛容なんて高尚な話は、私には関係ない」ということではありえない。
言い変えれば、「寛容」を自らのこととして鋭く問うことをしない人は、かならず「非寛容」なのだ、と言い換えても、あながち間違いではない。
仮に表面上「寛容」な人であっても、その内面には「私が優れており(正しい)から、劣った(間違った)あなたがたの存在を許してあげますよ」という意識や無意識が存在している。
そして、それが無意識(無自覚)だった場合、相手の出方(態度)によって「優れている(正しい)私が、劣っている(間違った)あなたがたののところまで降りていってあげたのに、なんだその態度は」ということにもなるのである。

私がむかし考案した「本を読むほどの人間なら、誰でも自分が賢いと思っている」という格言があるのだが、これは無論「本を読まない人間」でも同じである。人間は、いろんな理由を発見して、自分の優秀性を内心で担保するものだし、それが出来ないと精神を病んでしまう。だから「私は優れている(正しい)」という自認(自信)を持つこと自体は間違いではないのだが、要はそれをどれほど根拠のあるものに出来るかが問われるのだ。

したがって、こういう言い方に抵抗のあるにとも多かろうが、人間の現実として言っておけば、明確な自意識を持って(内心で)「私が優れており(正しい)から、劣った(間違った)あなたがたの存在を許してあげますよ」というのは、非難されるべきものではない。これこそが「寛容」なのである。言い変えれば「寛容」とは、このようなものでしかあり得ない。
まただからこそ、問われるべきは「無自覚な寛容の危険性」なのだ。

「寛容」の裏側には「非寛容」が貼付いており、それがひっくり返ることを押し止めているのは「主体的に寛容を選ぶ自覚的意志」である。つまり「相手しだいの、(無自覚な)寛容」ではないのだ。だが、言うまでもなく、これは簡単なことではない。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」という「マタイ福音書」の、困難きわまりない教えとは、しかし「寛容」ということの困難性そのものなのである。

したがってそれは、「美しい」と言って済ませられるほど甘いものではないのだということを、私たちはキリスト教の「失敗の歴史」に学ぶべきなのだ。

なお、最後になったが、本書所収の論文について書いておくと、それぞれは短めで、それほど突っ込んだ議論ができているわけではない。その反面、いろんな立場の論者が、いろんなことを扱っていて、全体としては多面的な情報を与えるものとなっており、それを叩き台にして「自分の頭で考える読者」には、有益な1冊になっているとも言えよう。
ただ、ひとつだけ指摘しておくと、非信仰の学者が総じて「客観的」であろうとしていたのに対し、カトリック学者(カトリック信徒のキリスト教研究者)の論文は、時に「ベタに自賛的」であり「寛容の困難さ」に届いていなかった点が、いささか気になった。キリスト教は「寛容」を奨める一方で、その「宗教的確信(優越意識)の自覚不足(慢心)」こそが「寛容」の妨げにもなっていた事実を、ここでも露呈していたのではないだろうか。

初出:2019年5月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集