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〈独善性〉を克服するために

Amazonレビュー:成田龍一『歴史論集2〈戦後知〉を歴史化する』レビュー(岩波現代文庫)

本書は、歴史学者・成田龍一の歴史論を、テーマ別に3巻にまとめた「歴史論集」の2巻目である。
本巻のテーマである「〈戦後知〉を歴史化する」とは、どういうことなのだろうか。

歴史論集の1巻目『方法としての史学史』を読んでいる者には、これは決して難しい話ではないように思うのだが、実際には、どうもそうでもないようだ。
ではなぜ、成田のこうした「問題意識」は、理解されにくいのか。一一それは、成田の視点が「メタ」的だからである。

「文学」の世界でも当たり前に見られることだが、「小説読み」を自認するような読書家であっても、「メタ・フィクション」の魅力が理解できない人というのは、じつに多い。
「メタ・フィクション」とは、「フィクションを語るフィクション」「虚構を語る虚構」「物語を語る物語」であり、単純に「フィクションそのもの」でも「虚構そのもの」でも「物語そのもの」でもない。
「メタ・フィクション」は、「フィクション」や「虚構」や「物語」を相対化するものであり、その意味では、単純素朴に「フィクション」や「虚構」や「物語」を楽しみたい人、「フィクション」や「虚構」や「物語」の快楽に酔いたい・耽溺したい人には、むしろ「煩わしさ」すら感じさせる文芸的様態を持つものなのである。

「フィクション」や「虚構」や「物語」が好きな人が、必ずしも「文芸評論」を好きとは限らない。事実「小説はたくさん読むが、文芸評論は読んだことがない」という人の方が多いというのと同じで、そうしたものが「好きとは限らない」どころか、そうしたものが、「フィクション」や「虚構」や「物語」の快楽に「水を差す」ものとして、むしろ積極的に「嫌い」であり、鬱陶しい存在ですらあったりもするのである。

つまり、「メタ・フィクション」とは、「フィクションを語るフィクション」「虚構を語る虚構」「物語を語る物語」という「自己言及」的な形式の「フィクション」であり、要は「自己検証的=自己批評的」な性格を持つ「フィクション」であるからこそ、「自己愛的=自己陶酔的」に「物語」に酔いたい読者には、煙たい、鬱陶しい存在とならざるを得ないのだ。

で、これは成田龍一の歴史学についても同様に言えることで、成田の歴史学は、きわめて「メタ」的な性格の強い「メタ歴史学」であり、「自己陶酔的な歴史学」を批判する歴史学なのだと言えよう。

その「歴史学論集1」において語られた『方法としての史学史』とは、要は「(歴)史学を語る(歴)史学」という方法の「意味とその必要性」を語ったものであり、要は「歴史学が、真に歴史学たらんとするならば、歴史学を自己検証する、歴史学の歴史そのものを批判的に検証する歴史学が、必要不可欠だ」という問題意識を語ったものだったのである。

さて、では成田のこうした問題意識を受けての「歴史論集2」のテーマである『〈戦後知〉を歴史化する』とは、どういうことなのであろうか。
これは、日本における「戦後の知」が分裂したまま自足しており、その自覚すら欠いている「現状」を問題視するものだ、と言えよう。

日本の歴史学は、戦後において長らく「知の総合的な基盤」であり、「文学」や「思想」などに知的な基盤を提供する「日本における、真の近代思想」であったのだが、高度成長期を通過して、海外から「言語論的転回」という価値転換をもたらすポストモダン思想が持ち込まれた際に、これに適切に応答することをせず、近代的な科学的合理主義という「権威」にあぐらをかいて、自己練磨・自己変革の努力を怠ってしまった結果、日本でも「文学」や「思想」の世界が貪欲に摂取して発展させた部分を、歴史学とは(学問とは)無縁のものとして切り捨て、結果として歴史学を自閉硬直させてしまい、世界水準の歴史学に遅れをとるものにしてしまったのではないか一一と、そういう問題意識である。

つまり『〈戦後知〉を歴史化する』とは、一方に「歴史学」的現実(歴史)があり、もう一方に「文学」的あるいは「思想」的現実(歴史)があるという「戦後における知」の(歴史意識の)分裂状態を、総合的に「歴史化」することによって統合し、「現実」を総体として取り戻さなければならない、ということなのだ。

そして、これも簡単に言えば、「我賢し」とする「自己愛的なセクト主義」を乗り越えて、真の歴史学を取り戻さなけれならないということだ。
自分に都合のいい「歴史」観、自分にとって気持ちのいい「歴史」観にあぐらをかいていては、日本は道を誤ってしまう、という危機感に発した、問題意識なのである。

例えば、先行のレビュアーである「くまじ」氏は、こうした『自分に都合のいい「歴史」観、自分にとって気持ちのいい「歴史」観』の持ち主の実例として、「ウヨク」「ネオリベ」「ネトウヨ」といった『箸にも棒にもかからない』存在をあげておられる。

しかしながら、事実「ウヨク」「ネオリベ」「ネトウヨ」が、知的に『箸にも棒にもかからない』存在であったとしても、「人間」が「イヌ」や「サル」について、議論の相手としては『箸にも棒にもかからない』などと、自慢げに語っている状況は危険であろう。たしかに「イヌ」や「サル」には数等優っているとしても、そんな「下」ばかり見て知的に勝ち誇り、悦に入っていては、「人間」として、道を踏み誤ってしまうのではないだろうか。

成田龍一は、「史学史」的な実践として『〈戦後知〉を歴史化する』ことを提案する。これは言うまでもなく「自己言及」的なものであり「人間による人間批判であり自己検証」であって「人間によるイヌサルの批判の他者検証」ではない。
もちろん、イヌやサルが不当に跋扈すれば、それに対処する必要はある。だが、だからと言って「人間」の自己検証・自己批判がなされなくてもいい、ということにはならない。

むしろ「人間」と「イヌサル」を区別するのは、「自己客体視」能力の有無なのだということを、決して忘れるべきではない。

それを忘れて「自己肯定的な主観」に耽溺した時、「人間」もまた、右であれ左であれ、「イヌサル」に堕ちる。
その事実を示しているのが、「戦前」日本の知的現実だ。

「目の前の敵」に勝つために、自己検証・自己批判を忘れた、驕った人間の末路が、悲惨な敗戦であったことを、戦後の私たちは、決して忘れてはならないのである。

初出:2021年8月15日「Amazonレビュー」