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片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』 : 右手に告げる事なかれ

書評:片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書)

日本人はなぜ、大国との戦争を支えるだけの、物的・人的資源を「持たざる国」でありながら、狂気にも似た宗教的イデオロギーを掲げて、無謀な戦争にのめり込んでしまったのか?
当時の日本人は、自国がどの程度の力量を持つのか、それを客観視するだけの、知性を欠いていたのか?

そんなことはなかった。日本人は決して、根性主義の阿呆な軍人に率いられ、全国民が一億総阿呆になったわけではなかった。また、軍人だけが馬鹿揃いだったわけでもなかった。
著者が指摘するところ、日本が部分的にしか参加することのなかった第一次世界大戦の段階で、すでに日本の軍人の中にも「これからの戦争は、物量がものを言う、総力戦の時代に入った」ことを正しく認識して「国力を上げることを最優先とすべきであり、それを実現しないまま、根性論的な精神論で戦争することなど論外である」と冷静に指摘する者が、確かに存在していた。
それなのになぜ、日本は「一億玉砕」を呼号したあげく、悲惨な敗戦にいたるまで、戦争をやめられなかったのか。

結局のところそれは、それまでの戦争において、まがりなりにも日本は勝ってきたからである。こてんぱんに負けるという経験をしなかったからこそ、「戦争をしない」という選択肢は考えられなかった。つまり、欲が捨てられなかった。
そこで考えられたのは「いかに戦うか(戦争をするか)」でしかなかった。

ならば次に考えることは「いくら日本が努力をして国力を増強したとしても、大国もまた漫然と現状に止まっているわけではなく国力の増強を進めるだろう。だとすれば、日本が国力において大国に追いつくには相当な時間を要さざるを得ない。では、国力が大国に及ばない段階において、国力の不足を補う戦術とは何か」ということになり、そこでまず考えられたのが「知力を尽くした短期決戦」方式である。

しかし「知力を尽くした短期決戦」と言っても、大国とて「知力は尽くす」だろうから、いくら日本が短期決戦を望んでも、そう希望どおりにはさせてくれないだろう。日本が初戦における決戦を期して猛攻を加え、それで大国側がいくらか劣勢に立ったとしても、大国としてはその急場を持ちこたえて時間を稼げば、国力の差において、いずれ巻き返せるという計算が容易にできるのだから、どっしり構えて受けとめてくるというのも容易に推測できよう。だが、そうなったら日本の負けだし、事実、歴史はそのように展開してしまった。
つまり「知力を尽くす」「奇襲を狙う」ことにより短期決戦を目指すと言っても、大国にも「知力」はあり、かつ「奇襲」ではなく「正攻法で勝てる国力がある」のだから、この考え方は基本的に無理があるのだ。
では、どうするか。

そこで最後に残されたのが「死を怖れない兵隊をつくる」ということだった。わかりやすく言えば「兵隊をゾンビ化する」。
人間とゾンビが戦えば、圧倒的にゾンビが有利である。ゾンビは死を怖れないが、人間は死を怖れるだけではなく、死を怖れないゾンビに恐怖して、その実力を出すことさえ出来ず、ゾンビとの無益な戦いを放棄することすらあるだろう。そのようにしてなら「持てない国」日本でも、大国に勝つことができるのである。

では、どうやって日本の兵隊をゾンビ化するのか。
そこで持ち出されるのが「宗教的イデオロギー」である。「宗教」というものは、人間的な欲望から「解脱」を目指したり、「来世」や「あの世」に「真の幸福」を求めたりするものである。裏を返せば、それは「今の生」が「仮のもの」でしかなく、それに固執する生き方は「真の幸福」に反し、その実現を阻害するものだと観念されるのだ。
だから「今の生=命」を惜しんではならない。むしろそれを「真の幸福」のために投資せよ、というのが「戦争遂行のための宗教的イデオロギー」に化けてしまう。そして、それを受け入れた兵隊たちは、敵兵の前で「死を怖れないゾンビ」を化していくのだ。

だが、ゾンビは死なないけれど、物理的に消滅させることはできる。そして大国には、圧倒的な物理的戦闘力がある。死を怖れない存在でも、消し飛ばせてしまえば勝つことができる。死を怖れないゾンビでも、爆弾で吹き飛ばしてしまえばいいのである。したがって、ゾンビ国・日本に止めを刺すのは「爆弾」である。
そう考えたのは、日本の戦略が招いた、理の当然でもあったのだ。

結局「持てない国」は勝てないのだ。戦争をしてはいけないのだ。しかし、それでも理不尽な外圧があった時には、どうすればいいのだろうか。
「負けるとわかっている戦争をする」というのは、経験に学ばない愚かである。ならば残されたものは「政治的外交」か「戦争を避けるために、敵国を侵略を受け入れる(無抵抗主義)」の二者択一しかあるまい。

無論「戦争を避けるために、敵国を侵略を受け入れる」という、恐るべきかつ嫌悪すべき方法を採用することは、一般の国民感情からして、ほとんど不可能であろう。人は容易に「人に好きにされるくらいなら、死んだ方がマシだ」と考えて、「勝てない戦争」を選ぶからである。
しかし、その選択の方が「マシだ」という判断には、「戦争の現実」がほとんど考慮されていないし、まして「加害者として、殺す側のとしての悲惨な体験」が想定されていない。想定されているのは、あくまでも「被害者としての、冒涜され惨殺される側としての体験」だけなのだ。
だから、「人に好きにされるくらいなら、死んだ方がマシだ」という想定は、必ずしも「正しい見積もり」ではなかったことを、戦ったあとに理解することになり、悲惨な加害体験をした兵隊たちの中には「殺された方がマシだった」と考える人も出てくるのである。

だが、そうした極限的経験は、日本国民全体に共有されることはない。
なぜなら、それは本書でも紹介されているとおり『戦って血を流している人間だけに「戦争」がある』からである。

したがって、私たちが「最悪の場合」を想定して選択すべきことは「政治的外交」しかない。
もちろん、それは容易なことではないが、仮にどんな「汚い手」を使おうとも、「戦争」をしてしまうよりは「マシだ」という「厳しい戦争観=リアリズム」を持つべきであろう。
戦争は、被害者としては無論、加害者としても救いがたく悲惨なものなのだ。それを理解できないのは、「自分の手で、無抵抗な女こどもを虐殺せざるを得ない」といった「戦争の、個人としての最悪局面」を想定することのできない人なのである。

戦争は「ゲーム」ではないし、「ゲーム」にしてはならない。
まして「持てない国」が、毛ほどでも幻想を抱いて、何かを期待していい対象でもないのである。

徹底したリアリズムは教える。
「戦争」とは「自分の手でするものではない」。するのなら「他人にやらせるべきもの」ものなのだと。

事実、人間はそのとおりの歴史を刻んできた。
聖書の「左手に告げる事なかれ」とは、真逆なのである。

『自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。』
  (マタイによる福音書)

初出:2019年4月19日「Amazonレビュー」

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