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上田誠(原作)、進藤良彦(著)『サマータイムマシン・ブルース』 : 無視できない〈順序の問題〉

書評:上田誠(原作)、進藤良彦(著)『サマータイムマシン・ブルース』(竹書房)

本書は、劇団ヨーロッパ企画による舞台作品『サマータイムマシン・ブルース』を原作にした、本広克行監督による同名映画の公開に合わせて刊行された、主として映画版を下敷きにした、ノベライズ作品である。

「主として映画版を下敷きにした、ノベライズ作品」だというのは、本作は基本的には映画版に忠実に小説化されてはいるものの、映画では尺の問題などもあってカットされた舞台版でのセリフなどが、著者の判断によって適宜復活させられたりしているからである。

それにしても、本書は、かなり「映画に忠実であろうとした作品」で、意識的に大きく改変したところはない。
例えば、映画版とは違って、冒頭に「タイムマシンに乗って過去に旅立つ」という、映画版では描かれていないシーンがおかれているが、これは、そうしたシーンのない映画版の冒頭15分の描写が、観客には極めてわかりにくい「我慢の15分」となってしまったという、反省を踏まえたものだと推察される。

つまり、「意味不明なシーンの連続が、後に論理的な一連の繋がりとして説明される快感」というものに馴染みのない読者にも「この小説的に散漫な印象を与える導入部の展開は、後にタイムマシンSF的に合理的に説明されますから、すこし我慢して読んでおいてください」という「心の準備をさせるための前振り」として配置されたものなのである。
SFや本格ミステリ(叙述トリックもの)のこうした形式に馴れた鑑賞者ならば、こういう「一見、意味不明シーン」が出てくると「これは、あとでうまく(合理的に)説明するつもりなんだな」と納得できるが、そういうものに馴れていない人だと、単純に「なにこれ? わけわかんない変な映画(小説)」ということで、先を観てもらえない(読んでもらえない)怖れがある。だから、そのあたりへの配慮としての、これは最低限の改変だったのだ。

このような細かい配慮(としての改変)はあるにしろ、基本的には映画版に忠実に、その魅力を伝えようとしたノベライズ作品なので、映画の良さをそのまま反映している長所があり、その反面、小説としての独自の魅力に欠けるという欠点を併せ持つことにもなっている。

つまり、この小説の「SF的なアイデア」に注目して、それを高く評価する人は本作を高く評価できるし、「小説的な魅力」を問題にする人は、本作を「小説として、かなりぎこちない、味わいに欠ける作品」と評価することになるだろう。

だが、こうした問題の多くは、本作「ノベライズ」だけを読むのか否か、それ以前に「原作舞台」や「映画版」を鑑賞しているか否かで、より大きく変わって来よう。
この「ノベライズ」だけを読むのであれば、その「SF的なアイデア」の部分でそれなりに楽しめるかも知れないが、先に「原作舞台」や「映画版」に接していると、「SF的なアイデア」はそのままなのだから、そこは評価の対象にはならず、「小説的な魅力」の部分が注目され、その結果、「映画版」に忠実に書かれているからこその「小説としての弱さ」だけが目についてしまう、という結果になってしまいがちなのである。

私としては、「映画版」や「原作舞台」を最大限に尊重した、本書ノベライズ版著者の「姿勢」には好感を持つものの、そういう言わば「裏事情」には無縁な読者にとって、本作が独立作品として、どれだけの価値を有するのかを客観的に評価した場合、さほど高い評価をあたえられず、残念ながら「これを読むのなら、舞台版や映画版を見た方がいいよ」と勧めることになるはずなのだ。

初出:2020年8月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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