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特別支援学校教員が「視覚支援と言ったら言い過ぎの落書きみたいなモノ」を示してみた
お前が言うな!!
このテーマでお前が語るな、なのですがまあまあそうおっしゃらず…
スイッチ&ゲームの日
月に何度か小学部のホールを使って、係の先生たちと一緒にスイッチで遊べるおもちゃやゲームなどを広げています。以前も記事にしようとしましたが、なんだか下書きしか見当たらない…ので、この話題で初投稿となります。
で、各種入力スイッチやワンスイッチで動くおもちゃを並べ、自由に児童と教員が一緒に体験
公平性を求めるのなら、先ずは自らが公平に!
思い出した。35年前も同じ事を言っていた。「他の人が何て言おうと、目の前のあなたの言う事が私にとっての真実。」青いなあ…相手は家族でもなければ、親友でも恋人でもない。でも何故か、いま私の目の前の人が言っている事を信じないといけない、ような気がした。オジになっても、青いなあ…
ちゃんと、お願いができない大人は、残念ですが好きではありません。
誰かの言葉をなぞるだけでは、空虚な感じがするんよね…ましてや、自分のものになっていないと余計に…さて、あの方はどちらの「端っこはどこ?」を真似たのでしょう?
特別支援学校教員がiPadのジェスチャ機能をキャンセルしてみた
先日(1月6日土曜日)、本校PTA主催の「ICT活用サークル」活動のお手伝いをしてきました。「ICT活用」なんてちょっと良い感じの名称がついてますが、これは「目標」で実態は「パソコンやタブレット、スイッチおもちゃなど支援機器を体験してみましょう。の会」だったりします。でも、「これで、ええよね。」と会長さんといつも話しています。とにかく、「子どもたちと保護者が支援技術に親しんで楽しむ。」ことが大切
もっとみるその「自己肯定感」とこれは、違うのではないかな?あのね、困っている人は「自分なんて存在しなくても良い…」くらいの話なの。「自分は存在しても良いんだ」と思える環境で感じられる「自己肯定感」の話が大切なやつで、気持ち悪いのは「オレってすっげ〜」ってやつなんちゃうかな?で、一緒やんか…
でた〜!!
「VOCAを使うより、喋って欲しい!!(音声言語)」
いつ、どうなったら「喋った」と認められるのでしょうか?喋れなければ、コミュニケーションを楽しめないのでしょうか?大丈夫か?
特別支援学校教員がTHE- Oに行ってOriHime体験してみた
今日は代休日、ということでこちらへ。
王寺駅の近くには達磨寺があり、そちらには聖徳太子の愛犬雪丸像がある、そうです。次回、伺います。
で、こちらでお出迎えは王寺町のゆるキャラ?雪丸くん。
雪丸くんの隣には大和川の氾濫?に備えて、想定新推深が示されていました。
昭和57年の台風10号の水害はその下です。
で、今日の目的地はこちら、です。
入り口でお出迎え。
そして、OrhiHime シート
特別支援教員が「黙って観るコミュニケーション」を読んでみた
どうして教員・支援者は対象者の行動に自分に(都合の)良いように意味づけをしてしまうのか?
どうして、どんどん教員・支援者は自ら対象者に喋りかけてしまうのか?
不安だから、としか今のところ私の中では答えが出ない。
今日のオンライン研修のために、再度熟読してみた。
それは、そのままこの書籍の題名、どうして「黙って観る」事ができないのか?に返ってくるのかな?と思った。
で、どうして、できないのか?を考
先ずは、「ありのまま」それから「デキるを活かす」、そして経験、体験を増やす。最終ゴールは、「その人の『デキる』を活かした社会への参加」が良いかな?「デキる」を探して、「デキる」を試して、失敗できるのが学校だし、それこそが子どもたちが唯一学校に通う意味なのかな?と思った十五夜前夜…
「できる事を増やす」とか「きらきら」とかどうして常に上昇していける、と思うのかな?本人たちが「上昇」している、と思い込んでいるから、他人もその言葉に感じ入る、と思うんだろうか?