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紗世
2023年6月28日 07:08
泉は5階のレストラン階を見て回った。それぞれの店の前にはメニューと食品サンプルがでている。他県から出張で来ているビジネスマンなのかスーツ姿の男性ふたり連れが「群馬つったら鳥めしが名物なんだよ。テレビで見た」「あ、俺も見ましたよ。登利平ですよね」と泉の後ろで会話をしていた。泉は蕎麦屋のランチメニューを眺めていたが、振り返るとそこは登利平という鶏料理の店だった。群馬では有名な店である。
2023年6月26日 05:56
「泉さんは、これから俺んち家寄ってかない?昨日夕飯食べに来いなんて話になっただろ。立花は今日は夜仕事になって来れないんだと。俺、ケーキ作ってあるんだよ」捨吉が歩きながら言った。泉はケーキと聞いてまたきゅっと胃が動いた。「どんなケーキですか?」気になったことを訊く。「ショートケーキ。苺じゃなくて缶詰の黄桃のショートケーキ。俺ショートケーキが大好きなんだ」自分で作るほど。と捨吉は照れたよう
2023年6月25日 05:57
泉は前橋駅を出てけやき並木を見上げながら歩いた。緑が陽に透けてきれいだった。泣き尽くして母の毒が少し抜けたような気がした。母の存在は拭っても拭っても落ちない汚れのように泉の心に染みついていた。今までは母の言葉が事あるごとに泉を支配していた。でも、それももう終わり。私は勝手に生きていく。あのひとにはもう二度と関わるまい。私は「いい子」なんかじゃない。私は薄情でいいよ。お母さんの都
2023年6月24日 05:45
一刻も早く母のいる場所から遠ざかりたい。泣きながら高崎駅に戻ってきた泉は、止まらない涙をハンカチで押さえながら肩を震わせ泣くのをこらえようとした。しかし、涙は止まらない。うつむきながら自分の靴だけ見ながらエスカレーターに乗る。涙ですべてが滲んで見える。とにかく雑踏の中で人にぶつからないよう歩く。ギュッとトートバッグを握りしめる。ハンカチで顔を押さえながら券売機で切符を買った。早く帰りた
2023年6月23日 05:31
「だってお腹はもう大丈夫なのよ。もう吐き下しは終わったんだから。内臓だって回復してんの!病院だってさ、配慮してくれてもいいと思わない?重湯からお粥くらいにしてくれてもいいじゃない!治ってきたんだから!重湯にペーストじゃだめよ!歯応えのあるもの食べたいの!それとお母さんシュークリーム食べたい」母は泉の手に無理やりブランド物の長財布を握らせた。相変わらず母の手はねっとりしていた。泉は財布を投げ捨
2023年6月22日 05:30
「ほらほら、泉。座って!そこに椅子があるから持ってきて」母はベッドから身を乗り出すと泉の手を両手で握った。母の手はねっとりしていて、体温が高い。反対に泉の手は冷たくなっている。泉は湧き上がる嫌悪感を押し殺した。母はパイプ椅子に泉を座らせるとイヤホンを外しテレビを消した。「随分ひさしぶりね!泉はお母さんの事なんかすっかり忘れちゃったのかと思ってたのよ!いつもお父さんに電話しても泉を出して
2023年6月21日 05:26
しかし空腹感はあるが、あまり進んで食べたい気分にならない。泉は気持ちが重かった。駄菓子を選んでいる時はよかったが買い終わると急速に現実に引き戻された。泉は、タリーズでアイスカフェラテを頼んで席に着いた。冷たい飲み物が胃に染みる。(そうだ。もしかしたら母のやつれ果てた顔をこれから見るかもしれないのだ。もし、食事を、取ってからそんなものを目にしたら具合が悪くなって吐いてしまうかもしれない…
2023年6月20日 05:29
泉はスマホで尾上病院の面会時間を調べた。13時から17時までとあった。午後からなのね…。気持ちがはやってしまったが自分だけ焦っても仕方ない。でも異常事態なのだから。瀕死の病人だったら面会時間にあわせなくても会えるんじゃない?だって死に目に会えないと家族は困るから。私は困らないけどね。むしろ、死んでから会ったほうがいい…。いや、本当は死んだお母さんに会うのも耐えられないかもしれない。は
2023年6月19日 05:25
父と電話を終えた後、泉は呆然としていた。思いもよらぬところから面倒事が降り掛かってきた。今もまだ母の事は冷静に考えられない事柄だった。なのに突然向き合わなければならない事態に直面している。泉は呆然としたまま、シャワーを浴びて寝る支度をした。とりあえず明日も仕事だ。仕事には行かなければならない。悩みながらもやるべき事はやらなければ。布団に入ってからも頭の中に「高崎駅近く、尾上病院303
2023年6月18日 05:32
両親の離婚が成立するまで、果てしなく揉めそうなので父は泉を長野の田舎へ預けた。どうせ小学校は行っていないのだし、嫌な記憶のある場所から離れれば少しは強迫神経症も和らぐのではないか、と考えたのだ。今まで夏休みにはおじいちゃんの家に家族で遊びに行っていたし、泉はおじいちゃんや叔父や叔母に懐いているし、それにいずれ長野に住むのだ。慣れるのは少しでも早い方がいい。叔父夫婦の家に泉は暮すことにまとま
2023年6月17日 05:38
両親の罵りあい、不登校の先の見えない不安、みずきちゃんの憎しみのこもった視線、陰口…。泉はひとの悪意が自分に降り掛かって来ることの恐怖に支配された。その結果、泉を徹底的に苦しめたのは強迫神経症だった。洗っても、洗ってもおぞましい汚れが手にこびりついている気がして洗うのがやめられなくなった。その得体の知れない汚れは嫌な思い出に結びついた。まず、学校で使っていたものが恐怖の対象になった。ラン
2023年6月16日 06:01
「それじゃあ、今までお母さんは私に会いに来たいって、お父ちゃんに何度も電話してきてたのね…」泉は鳥肌が立った。「そうなんだよ…。ごめんな。嫌だろう?嫌だよな。ああ、やっぱり言わなきゃよかったなぁ…」父の声が弱気に掠れる。「じゃ、お母さんはお父ちゃんには通じてたわけなのね。まったくお母さんと切れたわけじゃなかったんだ」「おい、いやな言い方をするなよ。だってあの女は何するかわからんから、様
2023年6月14日 05:18
「今日な、知らないひとから電話があったんだ。家の電話に。親しいひとだったらスマホにかけてくるから、いたずら電話か変なセールスかな?と思ったんだ。でも近所のひとはいまだに家の電話の方にかけてくるしな、と電話に出たわけ」話の先が見えない。「うん。それで?」「そしたら、坂本靖一さんのお宅ですか?って言うわけさ。はい、わたしが靖一ですが、と言ったら相手は私、宝田翔子さんの友人ですって言うんだ」泉は
2023年6月13日 05:32
ボロ家から狭い路地を抜け、道路沿いのアーケード商店街の通りに出る。あたりは暗いが街中は街灯や飲食店のネオンに照らされてうるさいほど明るい。夜の街は昼とは違った顔をしている。通りを抜けると中心市街を流れる川があり、柳の並木がライトアップされて風情がある。川から水気を含んだ空気が発散されていて、顔に心地良い。「じゃあ、僕こっちだから。泉さん気をつけてね」立花は手をあげた。「はい。さよーな