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あなたの好き嫌いはなんですか?第23回

「ほらほら、泉。座って!そこに椅子があるから持ってきて」
母はベッドから身を乗り出すと泉の手を両手で握った。
母の手はねっとりしていて、体温が高い。
反対に泉の手は冷たくなっている。
泉は湧き上がる嫌悪感を押し殺した。
母はパイプ椅子に泉を座らせるとイヤホンを外しテレビを消した。
「随分ひさしぶりね!泉はお母さんの事なんかすっかり忘れちゃったのかと思ってたのよ!いつもお父さんに電話しても泉を出してくれないし、話すのも許してくれないし、なんなのあの男は。そりゃ離婚の時、散々揉めてあたしが嫌いになったのはわかるわよ。でも子供は別よ別。子供の気持ちなんか、あいつにわかるわけないじゃない。あたしは母親なんですからね。会う権利がちゃんとあるわけよ。威張りくさって最低!泉はあんな奴とよく暮らせたわね。あたしに嫌味ばっか言いうのよ、お父さん。ああいうのモラハラって言うんじゃないの。モラル・ハラスメントよ!」
会って何秒とたっていないのに、母の食らいついてくるような喋りは途切れる間がない。
泉はすっかり母の勢いに呑まれていた。
ウワバミに丸呑みされるネズミが泉の脳裏に浮かんだ。
13年ぶりに会う母は容姿が少し老けただけで中身はまるで変わっていなかった。
母の声を聞いていると心の通路をシャッターが自動的に降りてきて感情を遮断する。
「泉が前橋にひとり暮らししてるってお父さんに前に聞いたから、もしかしたら電話したら泉来るかなって思ったのよ!泉来たらいいなって思ったの!お母さん食中毒になったの!それでここに入院したのよ!」
泉は逃げたくなってきた。
「お母さん。東京から群馬に引っ越して来てたの?今、高崎に住んでるの?」
やっとそれだけ母に訊いた。
母は大袈裟に首を横に振った。
「ちがう、ちがう違う。お母さんお友達と磯部温泉に旅行にきたのよ!温泉に入りたいねーなんて来たのよ!住んでるのは東京!それがさ、帰る日にあたしだけ食中毒になっちゃったの!お友達は全然なんともないのにさ!もうあたし吐くわ下すわで死ぬかと思ったのよ!でも我慢して帰りの電車に乗ったんだけど、やっぱり死にそうに苦しいから高崎駅で降りて病院飛び込んだの!ここ駅から近いじゃない!本当に電車の中で吐きそうになるし、お腹は痛いし、旅行なんか全然楽しくなかった!最悪!何に当たったのかわかんないのよ!夕飯に出た刺身か、酢の物かな?もう旅館の夜の食事かお昼のカキフライかわかんないの!でも症状は食中毒なのよ」
とにかく母はしゃべくるので、泉はただ黙って聞いていた。
聞いてるだけで、ひどく疲れる。
「それであたし、脱水症状がひどくってさー!点滴よ点滴!今も点滴してるけど、今はもういいのよ。下痢も止まって明日退院よ!まったくとんだ温泉旅行になっちゃった!お友達はあたしが入院なんかしちゃったから先にひとりで東京帰らなくちゃなんて言うから、やだやだ心細いから付き添いで一緒に病院泊まってよ、ってお願いしたんだけど、看護師に付き添いなんていりませんからッて言われちゃってさ、友達はやっぱり東京帰るって言うし、あたしひとりで置き去りじゃない!もう心細いったらないわよ。だから友達に帰る前に長野の元夫に電話して伝言して欲しいって頼んだの。だってあたし、死ぬかと思ったんだもん。死ぬ前に自分の娘に会って何も悪いことないわよねって。死ぬ前だったら、あの男も泉をあたしに会わせてくれるだろって考えたわけ。だから私が死にそうだから最後に泉に会いたいって言ってもらったの。だってあたしが直に電話したらお父さんは絶対はねつけるでしょ。どうせあの男はさ、君なんか殺しても死なないだろって言うじゃない。言うのよあの男は。嫌味ったらしくあたしに前に言った!」
母は段々ヒートアップしてきた。
父の事を思い出すとムカムカするらしい。
「あ!そうだ。泉お願いがあるの」
「なに?」
泉は平坦な声が出た。
母の毒気は凄まじかった。
対抗できるわけがなかった。
母はテレビ台の引き出しから財布を取り出し泉に突き出した。
「これで飲み物とか買ってきてほしいのよ!あたし点滴が邪魔で動けないし、お昼ご飯は出たんだけど、全部流動食なの!全然食べた気しないの!だから飲み物とお菓子買ってきて」
「ちょ、ちょっと待って。だって食中毒なんでしょ。お腹が弱ってるんだから、やたらな物食べちゃだめでしょう」
泉は母の手を押して、財布を受け取るまいとした。

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