見出し画像

言葉を世界にひそむ無限の豊かさの断片を宿すものとして扱うとしたら

最近家族が英語を勉強しているので、触発されて読み始めた一冊。すごく面白い。

『一億人の英文法 ―すべての日本人に贈る「話すため」の英文法』大西泰斗、ポール・マクベイ(東進ブックス)

英語の参考書だけど、それ以上の発見がある。ネイティブが言葉を使う時の「感覚」の説明に重点が置かれていて、無意識に使っている母語である日本語への意識も研ぎ澄まされていく気がする。

この本の中では、言葉にはそれが表す「意味」だけでなく、方向性や距離感などの身体的な「感覚」も宿っている、ということが繰り返し強調されている。その感覚を習得することがネイティブの思考を理解することであり、他言語を話せるようになる最短経路であると。
モノへの感覚も、英語のように名詞を単数と複数で明確に言い分ける言語とそれ以外とでは変わってくるし、時制や前置詞のバリエーションによって時間や空間認識の在り方も変わるだろう。国語能力というものはそもそも共感覚的なものなのだと、改めて気付かされた。

言葉を単に機械的な意味伝達の道具ではなく、世界にひそむ無限の豊かさの断片を宿すものとして扱うとしたら。そう考えると、それはもはや音楽なのではないかと思った。…迫ってきたり、くっついたり、離れたり、飛んだり、浮遊したり…いわゆる文章の上手い下手は、こういった感覚を鋭敏に察知して、全体のハーモニーを調整できるかどうかなんだろうな。

そう考えて周りを見渡すと、生活の些細な所作にも、秘められたリズムがあり、メロディーがあるんじゃないかと思えてくる。身体と心と言葉は、分かちがたく結びついていて、他者と響き合いながら途方もなく壮大な音楽をこの世界は奏でている。言葉は音楽だ、とか世界はハーモニーだ、とかそういう世界観や物語はこれまでも度々読んだり見たりしてきたけれど、今初めてそういうことを考えた人の気持ちを実感として理解できた気がする。

いちいち全てを分析していたら頭がおかしくなりそうだけれど、きっとそうだ、と感じながら生きることは日々生きる世界を少しだけ明るくしてくれる気がする。その明るさとはまだまだここにも知らないものがあるという広がりであり、卑俗さに追われがちな毎日の中にも美しいものがあるという、小さな光の感覚だ。見知らぬ土地での朝、沁み渡るように気付く太陽の温かさのように。

語学学習でこんなことを考えるのも変かもしれないけれど、勉強ってそういうことだと思う。