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宋時代の画家が描いた想像の地球図

 地球が丸いという事は現代では誰もが知る事だが、それがあまり広まっていなかった近代以前の人々は地球の形を自分の思いのままに想像していた。ある者とって地球は平面であり、端に行ったら「この先行き止まり」と神からポップアップで警告がでるものだったり、ある者にとって地球は見えない壁に囲まれた島々の集合体で、ファストトラベルで別の島にワープしなければならないものであったりと、人によって様々に考えられていた。

 その先人たちの考えた地球の中で私が最も興味を惹かれるのは、中国の宋王朝時代の水墨画家饂飩ワンタン(1045年8月7日~1125年5月10日)が想像で描いた地球である。この徽宗皇帝と同じ時代に活躍した画家は晩年に己が想像した地球の絵を延々と書き続けたという。弟子たちはこの絵を地球図と呼んだが、残念ながらその絵は現代で見ることはできない。だが、もし世界のどこかでこの地球図の連作の一枚でも発見されたらそれは世界美術史を書き換える大発見となるであろう。

 繰り返しになるが、饂飩の晩年の大作地球図を現在みることは不可能である。美術評論家や研究者によると、饂飩の死後満洲族の建てた金王朝の侵略による北宗滅亡のどさくさに紛れて彼の地球図の絵は全て消失してしまったのだという。饂飩の地球図がどのようなものであったかについて本人の日記類も残されておらず、ただ彼の弟子たちが書き残した記録から想像する他ない。その記録も弟子たちがそれぞれ見た絵によって印象が激しく異なっている。構図はどの記録でも全く同じであるが、画想が記録によって著しく異なっているのである。弟子たちの記録によると饂飩の地球図は上に小麦色の泰山があり、泰山の手前にまるで黄玉のような大岩が瑞々しく描かれている。黄玉の大岩をぬって流れているのは透明に澄み切った黄金色の海である。この黄金色の海に五回転に身を捩った黒褐色の龍が頭を下に飛び込んでいる。その海の外側を真っ白な下半円が囲っている。これが地球図全作に共通するものである。これこそ饂飩の考え描き続けた地球であり、地球そのものである中華の想像図であろう。中国では古来より中華こそが唯一の文明であると信じられていた。彼らにとって中華の周辺の民族は等しく動物に等しい蛮人だと考えられていた。恐らく饂飩もそのような考えから地球図を描いたのだと思われる。中華こそ地球なり、他の蛮人は地球に浮いているチリに過ぎないと。

 さて問題は地球図ごとに違うものが描かれているのはどの部分かという事である。それは黄金色の海を埋め尽くすように浮かんでいる物体である。ある弟子はそれをまるで白き海蛇が描かれていると記述し、別の弟子はそれを純白の天女の帯だと書いている。それがどういうものであったかは弟子たちの記述から推測するしかないが、おそらく絵には白く長いものが描かれていたと思われる。饂飩は絵ごとに画想を変えたのか、あるいは同じ画想の絵を見た弟子たちがそれぞれ別の印象を持ったのかそれを知る術はない。

 この白く長いものについては学者の間で長きに渡って論議されているが未だ答えは出ていない。饂飩の孫弟子の一人で彼自身高名な画家である左緯ズオウェイ(1135年5月8日~1210年3月29日)はこの白く長いものを海蛇でも帯でもなく実は白うなぎだったのではないかと記しているが、最近の研究では弟子たちの記述や孫弟子である左緯の記述を書簡の年代順に並べて調査解読した結果、次のような説が有力となっている。すなわちこの白く長いものは中華文明にとって夷狄である満洲族の金王朝ではないかと。中国史に詳しい方なら徽宗時代の宋王朝がどんな状況に置かれていたかすぐにわかるであろう。その頃宋という中華文明のピークに達していた王朝は金王朝の度重なる侵攻によって滅亡への道を歩み始めていた。皇帝徽宗はそのような現実から逃げて世に風流天子と呼ばれるぐらい芸術の世界に没頭していた。饂飩の地球図もその時勢を反映しているのだという。ふわふわとした小麦色の山は当時の滅亡を目前に控えた中華の中心たる宋王朝であるし、黄玉の瑞々しき石は中華の守りであり夷狄いてきを遠ざける聖なる石である。五回転する黒褐色の黒龍はまさに中華の象徴である龍であり、龍は天から五回転して降りてきて大口を開けて夷狄を威嚇しているのである。そして本題の白く長きものだが、これは夷狄である満州族の表象だと見られている。地球図を書いた当初饂飩はまだ滅亡への危機感ももっておらず、白く長きものをエキゾチックに描いていたのだという。しかし海蛇として描いた頃にはそんな余裕はなく、ただ中華から夷狄を排除せよと満洲族を白く長いおぞましき海蛇のように表現した。そして孫弟子の左緯の記す白いうなぎの姿だが、これは金王朝に圧迫されるがままだった宋王朝への鼓舞だという。蛮族など我が中華がうなぎのように飲み込んでやるという勇ましいメッセージだろうか。

 実際に饂飩は自らの絵を何作か徽宗に献上しているが、その中にこの地球図の連作があったかは確認できない。もし徽宗は饂飩の描いた地球図を観たらなんと思っただろうか。素晴らしく壮大な絵と褒め称えただろうか。あるいは評論家たちが論ずるような意図を察知して即刻絵を遠ざけたか、あるいは焼却してしまったか。しかし宋王朝が滅び全てが歴史の彼方に去ってしまった今となってはそれを確かめることは出来ない。

 饂飩の水墨画は巨匠の描いた水墨画が皆そうであるように色彩に満ちている。水墨画を極めた巨匠たちは墨の濃淡だけで極彩色の世界を描く事が出来るのである。きっと彼の畢生の傑作である地球図も目の眩むほどの極彩色の渦のようなものであったに違いない。現代に饂飩の地球図が残らなかったのは美術史上最大の悲劇だが、いつか奇跡的に地球図が発見され我々が見れる日が来るのであろうか。


 先日私の勤めている大学に一本の電話があった。電話は旧知の国営テレビのプロデューサーからである。私はいつもの美術番組の監修かと思って今は大学が忙しいから他の教授にあたってくれと断ろうとしたが、プロデューサーはその私を制してこれはあなたの監修じゃないと出来ないものだと言ってきた。私はプロデューサーにとりあえず番組の内容を聞いたが、彼の答えは驚くべきものであった。なんとプロデューサーは饂飩の失われた連作の地球図を再現させると言ってきたのだ。私は驚きのあまり思わず声を上げた。なんだって?あの饂飩の地球図を再現させるだって?無理に決まっているだろう。あの弟子たちの記述でしか確認出来ず、一枚の模写も簡単な素描さえもない地球図をどうやって再現するのか。これは不可能を遥かに超えた不可能ではないか。それにあの饂飩の地球図を再現できるほど画家が世界のどこにいるのか。

 私は思わずプロデューサーに向かってそんな無謀な企画は今すぐにやめろと言った。しかしプロデューサーはこれはもう上層部どころか日中政府間で文化交流のプロジェクトとして動いているので自分たちでは止めようがないと答えた。そして彼はだからあなたに気鋭の饂飩研究家であるあなたに監修をお願いしたいのだと切迫詰まった調子で頼んできた。私はプロデューサーにでは饂飩の地球図を誰に描かせるのかと尋ねた。饂飩の生まれた中国では水墨画は完全に廃れてしまっている。とするなら世界一の饂飩コレクションを持つ我が日本の画家しかいない。しかし誰がよいのか。プロデューサーは私の質問に今のところ華丸饂飩はなまるわんたん先生を考えていると答えた。私は華丸饂飩氏の名を聞いて少し安心した。華丸饂飩氏は現代の日本の水墨画界で巨匠と言われている画家で、その名の通り饂飩を深く私淑し、自らの画業は饂飩の偉大さを未来に伝えるために捧げられていると言うほどの人である。その人が担当するなら悪いものは出来まいと思った。しかし華丸氏といえどあくまで画家であり我々研究者のように饂飩と彼の生きていた時代を全て知り尽くしているわけではない。まともな監修がつかなかったらプロジェクトは大失敗に終わってしまう可能性だってある。私はこう考えてプロデューサーに向かって華丸氏が担当するなら監修を引き受けると言った。プロデューサーはそれを聞いて喜び早速華丸先生の説得にかかりたいと言って私に何度も感謝しながら電話を切った。

 その数日後プロデューサーから華丸氏も私が監修をやってくれるならとプロジェクトに参加を受け入れてくれたと連絡があった。それで今私はプロデューサーと一緒に華丸氏をとあるレストランの個室で待っているのだが、華丸氏は時間になっても来なかった。なかなか来ないので心配性の私は一瞬氏がやはりプロジェクトを降りるつもりではないかと不安になったが、やがてウェイトレスがやってきて華丸氏の到着を告げたので私もプロデューサーも一安心した。

 華丸饂飩氏は水墨画の巨匠と言われる割には若く私とさほど歳の違わない人だが、やはり世から巨匠といわれるだけあって圧倒的な存在感であった。私はドアに立った彼の姿を見て饂飩もこのような人だったのではないかと思った。ウェイトレスに案内されて席に座った華丸氏は私とプロデューサーに軽く会釈して遅刻を詫びた。

「いや、時間通りにこちらに向かうつもりだったのだが、突然インスピレーションが湧いてきましてね。どうしても素描を描いておきたくて、で描いているうちにこんな時間になってしまったのですよ。いや誠に申し訳ない。で、プロデューサーさん。この方が監修の団瓶清まるかめきよし教授?いやぁ、お初にお目にかかります。団瓶先生のご本はいつも拝読してまして、僕は団瓶先生が監修をやってくれるというからプロジェクトを引き受け受けたんですよ。この先生の力を借りれば饂飩の畢生の傑作『地球図』を完璧に再現できるとね」

 私は華丸氏の思わぬ褒め言葉に感謝し私も先生の絵にいつも深く感動させられていますと褒め返した。プロデューサーは私たちに対して料理が来ている事を伝え、我々三人は早速食べながら今後のプロジェクトの進め方について話し合った。最後に別れる時私たちは必ずプロジェクトを成功させてみせると誓った。

 だがプロジェクトはやはり最初から壁にぶつかった。大体落書きレベルの素描すらないものをどう再現すればよいのか。確かに弟子たち書き残したものはある。しかしそれが絵の全てを語っているとは言えず、また記録が書かれた宋の時代と現代の間には深い歴史の断絶がある。当時の墨を使って当時の画家になりきらなくては地球図どころか宋代の絵すら再現出来ないだろう。私は華丸氏とメール等で頻繁に連絡を取り合ったが、氏の返信から地球図の制作が全く進んでいない事を察した。華丸氏が地球図に手をつけてから二週間ほど経った頃、私は撮影のために初めて華丸饂飩氏のアトリエに入った。私は出迎えにきたプロデューサーと一緒にアトリエに入ったのだが、画家は周りを囲っている撮影スタッフ達とカメラに囲まれて、畳に敷いた空白の掛け軸の前で足を組み両手で筆を持って瞑想していた。しかし私が来たのを見ると華丸氏は瞑想を止めていきなり語り出した。

「こうして瞑想しても何も浮かんでこない。私は『地球図』を描くために評論家さんたちの著作と団瓶先生が翻訳してくれた弟子たちの日記を全て読んだが、何も見えなかった。白く長いものなんか形すら見えなかった。確かに日記の記述通りに描けばそれなりの絵が仕上がるだろう。だがそれは魂の入っていない仏と一緒だ。そんなものを地球図として描いたら私は二度と饂飩の名を口に出来ない。この名前だって相面にでも改名しなくてはならないだろう。全くどうしてこんな企画を引き受けたのだろう。私は自分の身の程知らずさが恐ろしい」

 私は華丸氏の言葉に胸を突かれた。私も氏と同じ気持ちだった。やはり饂飩の地球図は想像のままにしておくべきなのだ。地球図は誰が描いても決して再現は出来ない。きっと想像以下の代物にしかならないはずなのだから。私もまた氏と同じように自分の身の程知らずぶりを恥じた。それから華丸氏は無言で目を閉じていたが、しばらく経ってから目を開けて我々に言った。

「すまないが全員家から出て行ってくれないか。今日は何もする気になれん」

 それから我々は速やかに華丸氏の家から退出した。プロデューサーも撮影スタッフも突然撮影がなくなった事に途方に暮れていた。プロデューサーは私にせめて先生のコメントだけでも撮りたかったのですがと暗い顔で言った。それから我々は今日はこのまま解散するか話し合ったが、その時プロデューサーが全員に飯を奢ると言い出した。全部自腹で奢るそうだ。撮影スタッフ達のリーダーであるディレクターはそれを聞いてすぐに食らいついてきてじゃあそこにあるサイゼリアにしましょうかと言い出した。プロデューサーはディレクターの言葉に呆れてお前らもっといい店選べよと言ったが、撮影スタッフは全会一致らしくすでにサイゼリアへと足を進めていた。プロデューサーは私に先生も一緒に食べますか?勿論おごりますよと聞いて来たが、今日は大学の授業もないし、やはりプロジェクトを今後どうすればよいかプロデューサーと話し合いたかったので代金は自腹で払うからと断って着いていく事にした。

 我々はサイゼリアの席で注文したメニューが来るのを待っていたが、皆一様に疲れていた。ディレクターの話では彼らは撮影が始まったニ週間前から朝晩ずっと華丸氏を撮っているという。彼らは氏のアトリエや、氏の軽いインタビューや、その他番組のためにいろんな映像を撮ったが、氏が一向に地球図の制作を始めないのでもう撮るものがなくなってしまったそうだ。

「毎日、先生のアトリエに行くのが辛くって。行ってずっと瞑想している先生を見ているとなんだかこっちが急かしているような気分になって」

 ディレクターは沈痛な顔で言った。私は一様に疲れ切った顔をしている撮影スタッフの顔からプロジェクトの先行きが思わしくない事を見にしみて感じた。しかし私が悩める芸術家の華丸氏に対して何が出来るのか。私は確かに饂飩研究家としてそれなりの業績を上げているが、しかし芸術家ではない私には饂飩という芸術家について全てを語ることは出来ない。やはり時を待つしかないのだろうか。ディレクターは続けて言った。

「だけどあんな先生初めて見ましたよ。いつもだったら描けない時でも我々を追い出したりなんかしないで、正直に制作が煮詰まっている事を打ち明けてくれるのに。まさか先生がプロジェクトを降りちゃうって事はないでしょうね?」

「バカな!華丸さんに限ってそんな事あるかよ。お前らだって知ってるだろ?あの人は全部更地のパピリオンが一軒しか建たなかった官祭万博だって一人で盛り上げようと万博の期間中ずっとパピリオンの入り口でアートパフォーマンスショー演ってた人なんだぞ。それぐらい責任感の強い人が滅多な事でこのプロジェクトを投げ出すかよ」

 プロデューサーはこうディレクターに言って撮影スタッフたちを安心させようとしたが、スタッフは却って意気消沈してしまった。ディレクターはプロデューサーに向かって反論した。

「先生が責任感のある人だってのはよくわかってるんですけど、万博と今回のプロジェクトはやることが全然違うじゃないですか。先生がやっぱり自分の力では饂飩の地球の再現なんて出来ないとプロジェクトを降りる事だって充分に考えられますよ。先生は本物の芸術家だし、芸術家だからこそ全てを見通してプロジェクトを降りるかもしれないじゃないですか?」

 私はディレクターのこの意見は一理あると思った。華丸饂飩は饂飩の芸術を真に理解しているがゆえに自分如きが地球図の再現を行うのは不可能と断定してもおかしくはない。饂飩の研究家でしかない私だって半信半疑でこのプロジェクトに関わる事になったのだ。地球図を再現しようとしている華丸氏は饂飩という高い壁と毎日向き合っているのだ。その時誰かが私に声をかけてきた。顔をあげると従業員が私の目の前に注文したドリアを置いているのが見えた。

 メニューが来ると撮影スタッフの表情は急に明るくなった。スタッフたちは見慣れてメニューを受け取るなりフォークを突っ込んで食べ始めた。あたりにはパスタを啜る音や容器にフォークや当たる音が鳴り響いた。全く汚い仕草だ。いくらサイゼリアとはいえここは洋食屋ではないか。パスタはラーメンやうどんなどとは違うのだぞ。どうしてプロデューサーは叱らないのだろうと思って、私はプロデューサーの方をチラ見したがなんと彼も思いっきり音を立ててパスタを食べていた。プロデューサーは私の視線にすぐ気づき申し訳なさそうな顔で謝ってきた。

「いやぁ、申し訳ない。スタッフに影響されてしまって。しかし先生お皿綺麗ですね。さすが大学の先生ですな。我々は国営といっても所詮はテレビ業界の人間ですからねぇ。やっぱり自ってものが出てしまうんですよハハハハ!」

 プロデューサーは高らかに笑った。その笑い声はかなり大きかったらしくすぐさま従業員が注意に来た。その後我々は黙して食べていたが、その我々の事を隣のテーブルに座っている若いOLたちが聞こえよがしにこう言っているのが聞こえた。

「ああいうのって最悪だよね。全く周りの迷惑とかちっとも考えていないんだから。たく日本のオヤヂたちってなんでああ無作法で汚いの?ヨーロッパとかアメリカのナイスミドルはちゃんとマナーを心得ているのに。やっぱり日本は半世紀ぐらい遅れているわぁ〜」

「そうだよね。ただうるさいだけだったらまだマシだけど、一番酷いのは食べ方が汚いオヤヂよ。この間入ったはなまるうどんに結構品のいい格好したオヤヂが並んでたのよ。私、隣でそのオヤジ見てこんな品のいい人でもはなまるうどんに入るんだって思ってチラ見してたんだけど、したらそのオヤヂ、注文したかけうどんを受け取ると、そのまんま薬味コーナーに持ってってうどんに天かすと生姜と醤油をジャージャー振りかけたの。私それ見て吐きそうになった。おかげで注文したぶっかけうどん全然食べられなかったもの」

「うわぁ、やめてよ!キモい、キモすぎる!」

 このOLたちの会話を聞いて私は胸が突かれるような痛みを感じた。そういえば私はこの間の昼間大学のある駅前で一人ではなまるうどんを食べた。もしかしたら喋っているOLは私の隣にいた女ではないか。

 私はOLたちに見られぬように身をかがめた。しかしその私を撮影スタッフが見咎めて先生大丈夫ですかと大きな声で呼んだ。店内は騒然となった。店員がこちらに駆けつけてきた。客は一斉に立ち上がって私を見た。私は自分に注がれる皆の視線に生きた心地がしなかった。


 それから三日後の深夜に私の元に一本の電話がかかってきた。電話の相手は華丸饂飩氏であった、今すぐに来てくれという。私はこの三日間一度も連絡をくれなかった華丸氏が急に電話をかけてきたことに不安を感じた。明日は大学の講義が二コマあったが、どうせ合わせても十人以下しか来ないのだから中止しても問題はなかろう。いや授業なんかよりこちらの方が遥かに大事だと思った。私は大学の人事部宛に急用のため明日の講義を中止したいとメールを送るとすぐに華丸氏の自宅へと向かった。

 タクシーに乗っている最中ずっと妙な胸騒ぎを感じていた。深夜に人を呼び出すとはきっと緊急の事態に違いない。もしかしたらプロジェクトの降板の相談なのかもしれぬと思った。華丸氏が降板したら私が残る意味はない。元々私がこの饂飩の地球図の再現プロジェクトの参加を引き受けたのは華丸氏参加してくれたからである。私は地球図を再現できるのは氏しかいないと思ってプロジェクトの参加を引き受けたのである。氏が降りたら私も降りるだろう。タクシーの中で私は最悪の事態を想定しどうすべきか考えていたが、突然運転手に話しかけられたので我に返った。どうやら華丸氏の自宅に着いたらしい。

 玄関のインターフォンを鳴らしたら華丸氏がすぐに出てきて私を迎えた。

「いやぁ、団瓶先生。夜中に呼び出して申し訳がない。別に緊急の用事があるというわけではないんですが、急に先生に会いたくなりましてね」

 三日ぶりに見る華丸氏は頬が削げて髭が伸び放題であった。まともな食事もとっていないように思われた。妙に声の調子が明るいのも気になった。私は華丸氏の様子を見て自分の不安が的中したかとゾッとした。やはり人を深夜に呼び出したという事は。

 華丸氏がアトリエの電気をつけて私に中に入るよう促した。アトリエはこの間と全く変わっていない様子だった。敷かれた掛け軸も筆も硯もこの前見た時と全く同じ配置で置かれているように見えた。私はこの有様に唖然として思わず華丸氏を見た。氏は私をせせら笑うような表情で眺めてこう言った。

「おや先生?どうなさったんですか。そんなに心配そうな顔をして。まさか先生、私がプロジェクトを降りると思っているんですか?」

 まさかというかズバリそのままである。大体こんな夜中に呼び出したら誰だって緊急の用事だと思うではないか。私は華丸氏の人を馬鹿にした態度と言葉に腹が立って思わず氏を睨みつけてしまった。

「先生もしかしてお腹立ちですか?」

 私は氏の言葉に我に返りいやと言葉を濁してその場を取り繕うとした。

「いや先生。顔に出てますよ。メールにもろくに返事しなかった相手から夜中に急に呼び出されてこんな態度を取られたら誰だって頭にきますよ」

「変な勘ぐりをさせるような態度をとって申し訳ありません。ですが先生急にどうなされたんですか?私は腹が立つよりも先生の事が心配でたまらないんですよ」

「ハハハ!心配ね!安心してくださいよ。私はプロジェクトを降りるつもりはありませんからね。今夜はただ先生と一晩中話したくなって電話したんですよ。まぁ電話でもいいですが、電話代が凄まじい事になりますからね」

 華丸氏の口調と態度からあからさまに苛立ちが見えた。そんな氏を見て私はこれから延々と口を聞かされるのではないかと思って身構えた。

 私は東洋美術研究家を名乗り、また大学でも中国美術を教えているが、芸術家とはさほど親交はない。私の専門は古典美術であり、現代の美術界とはさほど関わりがないからだ。テレビやどこかの展覧会のトークイベントで芸術家たちと会話する事はあるが、それ以上の交流はない。だから華丸氏からこうして真夜中に呼び出され対話を迫られてどうしていいかわからなかった。芸術家は常に我儘である。あの饂飩も我儘放題の画家であった。言い伝えによると饂飩は料理人が持ってきた麺料理の具が山盛りに入っていないと文句をつけて彼を丸棒で背骨が折れるほど打ち据えたそうだ。このように芸術家とは不条理なまでに幼児的で我儘な人間である。

 きっと目の前にいる華丸饂飩もそのような芸術家の一人であろう。きっと彼も今宵散々私に八つ当たりをしてくるに違いない。私はこれから起こりうる事態を想像して不安になった。私が華丸氏の罵倒か嫌味に耐えきれず抗議して、それが氏の気に障り、その結果氏がやはりプロジェクトを降りるなんて言い出したら……。その時華丸氏が再び話しかけてきた。

「先生。そこの座布団にお座りになって下さいよ。よかったら酒でも用意しますから」

 苛立ち隠しのわざとらしい喋りだった。私は華丸氏の誘いを断った。氏のペースに取り込まれてはならぬと警戒したからである。すると氏は皮肉めいた空笑いをして言った。

「まぁまぁ先生。そう訝しげな目で見ないで下さいよ。私は先生と親睦を深めたくてお呼びしたんですから。ところで先生。せっかくこうして腹を割って話し合うんだからこれからは名前で呼びませんか?互いに先生って呼んでるのは堅苦しくてね。まぁ、先生がお嫌なら別に先生でいいんですけどね。実際先生は教職に就かれているわけだから私なんかとは違いますし」

「いえ、名前で呼んでいただいて結構です。私も堅苦しいのは好きではないので」

 この華丸氏の挑発的とも取れる物言いに腹が立って私は思わず突っぱねるような口調で答えてしまった。私はすぐに反省し耐えろと自分に言い聞かせた。氏はそんな私をせせら笑うかのように見下したような視線をこちらに向けている。華丸氏がまた口を開いた。

「じゃあ、これからは団瓶さん華丸で行きましょうよ。さぁ、早く座布団に座って。何か食べたくなったらいつでも言って下さいよ」

 私は華丸氏に言われた通り座布団に座ることにした。しかし座った途端に急に背筋が寒くなるのを覚えて体が固くなった。私はクーラーのせいかと思ったが、部屋の中はクーラーがかかっておらず、熱帯夜のうだるような空気があたりに漂っていた。ふと華丸氏の方を見ると氏は真芯で私を凝視しているではないか。私はその氏を見て寒気の正体を一瞬にして察知した。頬が痩け、至る所に皺が走った顔は、まるで幽鬼のようであった。氏はその隈で覆われた目を赤く光らせてこちらを見ていた。私はその華丸氏を見て氏の苦悩を思って胸が苦しくなった。地球図を再現させるにはこれほどの苦痛を伴わねばならないのか。だがこれほど自らを犠牲にしても地球図は影さえも見えないのだ。そうしてしばらく私たちは無言で座っていたが、突然華丸氏が手のひらで畳を叩いて言った。

「団瓶さん、私はね。さっきも話したけど地球図を描くために饂飩に関する文献を手当たり次第読んだんですよ。勿論あなたの本もそうです。弟子たちとの書簡集、饂飩が書いた技法に関する覚書、そしてあなた方学者が書いた研究書。それと私が持っている饂飩の山水画と東洋美術館の饂飩コレクション。それを全て見て饂飩が地球図とは何か、饂飩は地球図で何を描きたかったのかを必死に考えたんですよ。だけどそうやって饂飩の実際の絵や書簡と、あなた方研究家の書いた本の内容を並べて考えた結果、結局一つの答えしか見つかりませんでした。あなた方研究者の皆さんは結局饂飩の事を何も理解していないとね」

 私は華丸氏が論争を仕掛けているのだとすぐに察した。院生時代に同じような感じで論争をふっかけられた事があったからだ。退官する某教授の送別会でたまたま同席したその男も今の華丸氏と同じように苛立っていたらしく、二次会で隣の席にいた私を捕まえて論争を仕掛けてきたのだ。コイツは後にバカ右翼として有名な日本美術研究家になるが、このバカ右翼は私が書いた日本美術は全て中国美術の模倣だと全く正しい事を書いた論文にケチをつけ、無知丸出しで、到底芸術の名に値しない下品な浮世絵なんぞ持ち出して日本美術が中国美術をはるかに超えているのかを力説しまくったのだが、私はこのバカ右翼の全く出鱈目極まりない主張を、バカ右翼が持ち上げるその浮世絵も中国美術の模倣に過ぎないのだと事細かに実例を挙げてその主張を片っ端から論破しまくってやった。あの時私はバカ右翼に全ての文化は上流から下流に流れていくもの。上流には清澄な水が流れているが、下流には澱んだ汚水しか流れていない。しかも中国と日本の文化は川どころか山上の滝口と地べたの滝壺ほどの格差がある。中国文化とは白きどんぶりに入った浄水であり、日本文化はそのどんぶりから溢れて落ちた泥まみれの汚水でしかない。だから泥まみれの汚水を持ち上げてどんぶりの浄水をこき下ろすなど恥知らずにも程があると言って黙らせてやったのだが、今の華丸氏の態度はあのバカ右翼を思わせるところがあった。きっと氏も饂飩について頓珍漢な事を話すのだろう。だがいくら芸術家といえども中国美術の偉大さは我々研究者の方がはるかに知っている。確かに素人を本気で論破するのは学者として大人気のないことであるが、間違ったものを正さずに置くのは学者としてあってはならないことだ。私はこれが挑発であるのを知りながらも学問を守るために応戦してやろうと思った。

「華丸さん、なぜ私が饂飩を理解していないと考えたんですか。私は饂飩という画家を知った高校の頃からずっと彼を研究しているんです。四十年間ずっと饂飩研究に取り組んでいるんですよ。私はそのために教職を投げ打って中国で一研究者として三年間毎日饂飩の調査研究に取り組みました。饂飩の使っていた墨の製法を世界で初めて発見したのは私です。勿論それだけじゃない。饂飩の没地の旧家の地下に保存されていた饂飩の書簡を見つけて初めて公開したのも私ですよ。あなたも私の饂飩の評伝の帯にコメント書いてくれたじゃないですか。この本は現在の饂飩の研究の全てが取り込まれているが研究書としては格段にわかりやすく、まるでうどんをツルツル啜るように饂飩という人間の姿が書かれていると。なのにこの私が饂飩を全く理解していないですって。一体私が饂飩の何を理解していないというんですか?」

 さすがの華丸氏も私の詰問の激しさに驚いたようだ。氏はまじまじと私を見つめた。私は華丸氏を食い入るように凝視して氏の答えを待った。氏は腕を組んで目を瞑りそして答えた。

「団瓶さん、気を悪くさせてすまない。別にあなたの学業全体を否定するつもりじゃない。あなたの饂飩研究はずっと注目しているし、実際に私の創作にも大変役に立っている。だが核心的なところで私とあなたの考えは決定的相容れないものがあるんですよ。だがそれも実際に創作に携わる我々芸術家と文献を調査して読み解くあなた方学者の芸術に対する姿勢の違いからくるものといえるかもしれない。それがハッキリとわかったのはあなた方学者の地球図の解釈だよ」

「地球図?」

 思わずおうむ返ししてしまった。華丸氏の想像する饂飩の地球図とはどのようなものなのか。そして我々研究者が文献から読み取った地球図とどのように違うのか。華丸氏は再びせせら笑いを浮かべた。

「そう地球図ですよ。私は地球図を描くために目を皿にしてあらゆる文献を読んだ。そしてそこから浮かんできたイメージをまとめて筆を入れようとしたんだ。だけどいざ描こうとした瞬間、これは饂飩の地球図とまるで違うと思ったんだ。饂飩がこんな絵を描くはずがないとね。特に違うと思ったのが、団瓶さん、あなた方研究者の地球図の解釈ですよ」

 そう言うと華丸氏は目をかっと見開いて私を見た。一体氏は何がどう違うというのか。我々饂飩研究者がずっと積み上げて来た地球図の研究結果を丸ごと否定するとは。一体あなたは饂飩の地球図にどのようなイメージを持っているのか。それは我々の研究結果より正しいと主張するのか。さあ聞かせてくれ。聞いたうえで徹底的に間違いを論破してやる。

「団瓶さん、あなた方学者は一般的にそうだが、すぐに芸術家とその作品を活動していた当時の時代背景に結び付けるきらいがある。だがね、芸術家は常に時代を超えるんですよ。大体饂飩は美と食の画家ではないですか。彼の水墨画によく登場する福々しい表情で太い麺料理を食べる仙人。あれこそが饂飩なんですよ。饂飩は芸術という桃源郷に生涯生きていた。その彼が安易に時代に流されるはずがない。あの地球図に描かれている白く長いものだって、あなた方学者がいうような夷狄の表象ではなくもっと別のものだ。彼の芸術にふさわしい福々しい、満腹の気分にさせるものに違いない」

 いかにも芸術家らしい素朴な考察であった。華丸氏は無意識に饂飩を己に重ねているのであろう。だから氏は饂飩の生きた時代背景をあっさりと無視してしまっている。だが、芸術家といえども時代の子、いや芸術家こそ時代の精神を最も正確に体現するのだ。饂飩が地球図を描いたのは明らかに王朝の滅亡への危機感があったからだ。私はすぐさま反論した。

「華丸さん、私はそのあなたの主張はあまりにも同時代の記録を無視したものだと思います。確かにあなたがいうように饂飩は美と食を愛し生涯芸術の世界に生きた人間ですが、その一方で彼は衰退してゆく宗王朝に対して深い危機感を持っていたのです。それは彼の弟子たちへあてた書簡のいたるところで確認できます。ある手紙では彼は満州族を罵倒し天子様自らご出陣して満州族を討ち果たして欲しいとまで書いています。饂飩はむしろ桃源郷を愛するがゆえに、それを破壊しようとする夷狄に中華の偉大さを示さんとして地球図を描いたのです。記録に記されている後ろに聳え立つ小麦色の泰山、中央に置かれた黄玉、五回転して夷狄を威嚇する黒褐色の黒龍。そして広大なる中華の領土そのものを描いた器。これを描くことで彼は夷狄に対して中華文明の偉大さを示そうとしたのです。いくら白く長い蛇のような襲ってこようが決して変わらぬ中華文明。それが饂飩が晩年に描きたかったものなのです」

 私がこう言うと華丸氏は目を剥いて言い返してきた。

「あなたのその主張こそバカバカしい。完全に我田引水ではないか。あなたは自分の主張のために饂飩の資料を切り貼りしているだけだろう。一体あなたは虚心坦懐に饂飩の絵画を観たことがあるのか。観た上でそんな主張をしているのならあなたは即刻美術から手を引くべきだ」

「じゃああなたは地球図をどのようなものだと思っているのか。私の主張をバカバカしいというならあなたの考えを今すぐに述べたらいいだろう。何ならあなたの想像する地球図今すぐあの掛け軸に描いてみせたらいいだろう」

「それが出来るのだったらこんなにも苦労はしないよ!」

「自らの考えもないくせにどうして人の長年の研究結果を否定することが出来るのだ。自分の想像したのと違うというならその想像したものを提示するべきだろう」

「あなたは芸術を科学みたいに論理で実証できるものだと考えているのか。芸術とは人間の感性の具現化なんだ。科学みたいに研究で容易く作品が作れるものだったらこんなに苦労なんてしないよ!」

「論旨を逸らすのはやめていただきたい。今我々が議論しているのは芸術に関する一般論ではなくて饂飩の地球図に対する見解についてだ。私は今あなたに自身が想像する地球図はどういうものか聞いているのだ。さぁ答えて下さいよ」


 私たちの論争はどこまでも平行線だった。所詮華丸氏の言う通り学者と芸術家は相容れぬものなのか。今夜の論争でそれが身に染みてわかった。私たちは結局夜が明けてもずっと互いの意見を述べ続けていた。しかし華丸氏がこのままじゃきりがないと笑い出し突然議論を打ち切ってしまった。

「団瓶さん、もう議論はやめにしませんか?私はもう疲れてしまいましたよ」

「すみません、興奮のあまりかなり失礼な事を言ってしまったようで」

「いや私こそ申し訳がない。あなたも夜中に呼び出されて一晩中こんな馬鹿げた事に付き合わされるなんて思っても見なかったでしょう。しかしあなたと怒鳴り合いをした事で少し落ち着きましたよ。あなたも私に劣らず我が強い人だ。一歩も引かないんだから」

 華丸氏はそう言って笑った。

 もう日はすっかり昇っていた。柱時計を見たら十一時を過ぎていた。華丸氏はもうそんな時間かと呟き私に向かって外で飯を食べないかと誘って来た。

「よかったら一緒に飯でも食いに行きませんか?よかったら奢りますよ」

 今すぐ家に帰って寝たかったが、今は華丸氏から離れてはいけないような気がした。だから私は食事に付き合うことにした。

「いいですね。私も丁度お腹が空いていました。でも代金は自分で払うので大丈夫ですよ」

 それから我々は華丸氏の家を出た。あたりは住宅街で料理店らしきものは見つからなかった。一体この住宅街のどこに店があるのだろうか。

「ここ意外に駅近くてこの先を抜けるとすぐに駅前にでます。そこに店が並んでいるのでお好きな店選んで下さいよ。だけど、昼になると近くのビルやら工場にいる連中が一斉に来るので早く行かないと並ぶ羽目になりますよ。さぁ行きましょう」

 確かに少し歩いたら駅前に着いた。小さな駅だったが意外にも栄えているらしくいろんな料理店が立ち並んでいた。通りはまだ閑散としているが、チラホラと通行人が店に入っていくのが見えた。氏は私に店はどこがいいかと尋ねて来たが私はどの店に入っていいか迷ってしまった。あれもこれも良さげに見える。私は食事の店を選ぶのが苦手で迷った挙句結局チェーン店に入ってしまう。

「まぁ、どこでもいいですからさっさと入りましょう。でないとこの炎天下の中でずっと待つ羽目になりますよ」

 華丸氏が急かすようにこう言った。私は良さげな店はないかと前方を見渡した。するとそこに見慣れたオレンジ色の看板があるではないか。白抜きの花のロゴの横に表示された黒字の屋号。はなまるうどんではないか。私は看板を指して華丸氏にあそこに行こうと言った。

「はなまるうどんでいいのですか?まぁ私も食べないことはないのですが……」

 華丸氏は怪訝な顔をしてこう言った。はなまるうどんなど確かに氏のような芸術家が通う店ではないだろう。しかし私は学生時代からずっとはなまるうどんを食べ続けているし、もうそれ無くしては生きていけぬほどのものになっている。その私のはなまるうどんへの熱意を察したのか、華丸氏はじゃあはなまるうどんにしましょうと快諾してくれた。

 ジリジリと焼け付くような炎天下の中を歩いて私たちははなまるうどんに着いた。店内はまだ空いていた。華丸氏はこれを見て助かったと言って笑った。氏によると格安店だからか十二時を過ぎると店の前に長い行列ができるそうだ。

 私たちは店に入ると早速トレーを持って厨房の前に立った。すると店員が早速注文を聞いて来た。私はいつものようにかけうどんを頼んだ。続けて華丸氏も私と同じものをと店員に言った。私はレジで代金を支払い、そのまま薬味コーナーで天かすと生姜と醤油をぶっかけたのだが、華丸氏が隣で目を剥いて固まっているのを見てギョッとして目の前のうどんを見た。ああ!なんてことだ!バカにも程がある!いつも他人と食べる時は天かす生姜醤油なんか入れないって注意していたのに!一晩中議論をしていたせいで判断力が鈍ったか。だがもう取り返しはつかない。美意識の強い華丸氏がこの天かすと生姜と醤油の山を見てなんと思うだろう。私は失敗したと誤魔化してうどんを戻そうと思ったが、その時華丸氏がうどんを指差して聞いて来た。

「団瓶さん、あなたいつもこうやってうどんを食べるんですか?」

 華丸氏は射抜くような目で私に聞いた。この目を前にしては誤魔化しは効かない。私は正直にそうだと答えた。華丸氏は私の答えを聞くと天かすと生姜と醤油が山盛りにかけられた、人に公害だのゲロだのと罵倒されてきた。私のオリジナルの天かす生姜醤油全部入りうどんを眺め出した。私は恥ずかしさで生きた心地がしなかった。こんなゲテモノうどんを現代最高の水墨画家に見られるなんて羞恥プレイもいいところだ。氏はこのゲテモノうどんを無表情で見つめていた。ああ!もうやめてくれ!こんなゲテモノうどんをいつまでも見つめないでくれ!その時華丸氏が顔を上げてこちらを向いて言った。

「あの、団瓶さん。よかったら私のうどんも同じように作ってくれませんか?」

 意外にも意外過ぎる言葉であった。一体どういう風の吹き回しなのだろうか。生きとし生けるものもの全てに忌み嫌われてきた天かす生姜醤油全部入りうどんを作ってくれとは。このゲテモノうどんが芸術家の心に刺さったとでもいうのだろうか。私は華丸氏に向かって頷くと氏のうどんに天かすを泰山の如く山盛りに振りかけた。次にその天かすの泰山の麓に大さじ一杯の黄玉のような生姜を置いた。そして最後に天かすの泰山に向かって五回まわしで黒龍の如く黒光りする醤油を振りかけた。華丸氏は興味深々で出来上がってゆく天かす生姜醤油全部入りうどんを見つめ時折ため息を漏らした。

 天かす生姜醤油うどんを作り終えると我々はうどんを乗せたトレーを持って近くのテーブル席に座った。しかし二人ともなかなか箸に手をつけなかった。私は食べていいものかと思案した。華丸氏は目の前のテーブルに置かれた天かす生姜醤油全部入りうどんを見て露骨に不快な顔をしている。その氏の前で天かす生姜醤油全部入りうどん食べたらきっと不愉快な気分にさせてしまうだろう。その私の躊躇いを見て気を遣ったのか華丸氏がどうぞお先にと私に食べるよう促してきた。私は氏に申し訳なく思いながら箸でうどんを挟みそのまま口に入れた。

 天かす生姜醤油全部入りうどんはいつものように美味しかった。高校の時、私はとあるうどん屋で、これぞ山水画とふざけて天かすと生姜と醤油を山盛りに振りかけて食したのだが、一口食べた途端あまりの美味しさに卒倒しそうになった。私はその時これぞ中国の先人が夢見た桃源郷ではないかと思ったものだった。それ以来私は天かす生姜醤油全部入りうどんと付き合っているが、今なお天かす生姜醤油全部入りうどんは食べるたびにあの頃と同じように、いやあの頃より遥かに深い感動を与えてくれる。

 私はあっという間に天かす生姜醤油全部入りうどんを平らげてしまった。そうしてどんぶりから顔を上げたのだが、その時驚愕の表情でこちらをみている華丸氏と目が合い思いっきり肝を冷やした。きっと氏は思いっきり音を立てて天かす生姜醤油全部入りうどんを食べる私を見たであろう。ああ!恥の上塗りだ。敬愛する芸術家に蔑みの視線で見られるとは。しかしその時だった。華丸氏が突然箸を取り出して私に言ったのだった。

「あなたの食べる姿を見て私も食べたくなりましたよ」

 それから華丸氏は箸を持ったままじっと自分の天かす生姜醤油全部入りうどんを見つめた。

「よく見るとこのうどん、山水画のように見えるな。山盛りの天かすは山で、天かすの脇に置かれた生姜は岩で、五回まわしでかけられた醤油は黒蛇みたいで、そして褐色色の透けたつゆに浮かんでいるうどんはまるで白うなぎのようで……」

 目の前の天かす生姜醤油全部入りうどんを前にして華丸氏はしばらく躊躇っていたようだが、ようやく決心したのか、箸でうどんをつかむと目を瞑ってそのままうどんを口の中に放り込んだ。だがうどんを放り込んだ途端に氏はそのまま動かなくなってしまった。私は華丸氏に異変が起こったのかと思った。もしかしたら嘔吐するかもしれない。いや、最悪なことにこの場で倒れてしまうかもしれない。ああやっぱりこんなゲテモノうどんを食わせるべきではなかった。私は華丸氏に向かって何度も呼びかけた。すると氏は突然目を見開いて異様に輝いた表情で私に言ったのだ。

「なんて美味いうどんなのだ。一口食べただけでこんなにも幸福な気分になるとは!ああっ!さっき私はこの天かすと生姜と醤油の入ったうどんを山水画に似ていると言った。もしかしたら、もしかしたら、いやあり得るぞ。もっと食べて味合わねばならぬ!」

 華丸氏はそう言うと勢いよくうどんを啜り出した。氏はうどんを啜りながら歓喜の表情で喋り出した。

「なんということだ。この天かすはまるで泰山にかかっている雲そのものではないか。うどんのつゆの旨みをたっぷりと染み込ませたこの雲は食べた途端に旨みを残して消えてゆく。ああ!この黄玉のように輝く生姜はその煌めきの如く口の中に心地よい刺激をもたらすではないか。そしてこの五回まわしでかけられた醤油だ。この黒龍のように黒光りする醤油はうどん全体の味を締めている。まるでうどんを守るかのように!なんという事だ。天かすと生姜と醤油をかけただけでうどんはこんなにも美味くなるのか!ああ!一口食べるごとに桃源郷に近づいていくような気がする。ああっ!ああっ!これはまさか!まさか!」

 華丸氏は瞬く間にうどんを平らげると突然笑い出した。私は何事かと慌てたが、氏はその私の肩を叩いて言った。

「ハッハッハ!皮肉な事だ!饂飩の地球図の答えがこんなに近くにあったなんて!団瓶さん、あなたもお人が悪い!どうして私にこの天かすと生姜と醤油が山盛りに入ったうどんを教えてくれなかったのですか?饂飩が地球図で表現しようとしたのはこの天かすと生姜と醤油の山盛りうどんの事だったのですよ。天かすは泰山であり、生姜は黄玉であり、醤油は五回まわしでかけられる黒褐色の黒龍なんです。そして長年議論されてきた白く長いものは天女の帯でもなく、海蛇でもなく、白ウナギでもなく、実はうどんだったのです。饂飩は地球図を描く際にいつも食べていたこの天かすと生姜と醤油が山盛りに入ったうどんをモデルにしたに違いない。白きどんぶりに入ったこの天かすと生姜と醤油の入ったこのうどんこそ彼の考える桃源郷の姿だったのだ」

 私は華丸氏のあまりに突飛な言葉に呆気に取られてしばし氏を眺めた。この天かす生姜醤油全部入りうどんが饂飩の地球図?いきなり何を言い出すのだ。三日三晩寝ていないから幻覚でも見たのか?だが華丸氏の表情は異様な確信に満ちていた。その表情を見て私はさっき食べていた天かす生姜醤油全部入りうどんを思い出しながら饂飩について考えはじめた。

 文献には饂飩がうどんを食べたという記述はどこにもない。大体うどんは中国の麺料理を元に日本で作られたもので中国には存在しないものだ。確かに饂飩がなにかを山盛にかけた麺料理を食べたという記録は至る所にある。だがそれが天かす生姜醤油全部入りうどんであるはずがない。たとえ仮に華丸氏の言うとおり天かす生姜醤油全部入りうどんであったにしてもあの饂飩がそんなものを描くために晩年を費やすはずがない。だが、私は天かす生姜醤油全部入りうどんを食べる時、いつも桃源郷にいるような感覚を味わっていた。その感覚が本物ならば、もしかしたら……

「団瓶さん。私はようやく地球図の手がかりを見つけましたよ。これから早速アトリエに帰って下書きを始めます。団瓶さんありがとう。あなたのおかげで一歩先に進める」

 私は華丸氏の決然とした表情に饂飩の姿を垣間見た。氏は今饂飩と完全に一体化していた。その華丸氏を見て私は自説が間違っていたのではないかと思い始めた。氏は芸術家として真芯で饂飩に向き合ってそして答えにたどり着いたのだ。きっと華丸氏は饂飩の地球図を見事再現するだろう。私に出来るのは研究者として助言を与えるぐらいだ。それから私たちは店を出てそこで別れた。


 華丸氏の地球図の創作はそれから急ピッチで進んだ。今までの停滞ぶりが嘘のような早さだった。彼は何枚かの下書きを書いた後すぐさま本絵に取り掛かった。私は番組のために再び制作中の華丸氏を訪ねたが、氏は見る見るうちに出来上がってゆく絵を私たちに見せながら、天かす生姜醤油全部入りうどんの入ったどんぶりを手ににこやかに笑い、私たちに向かってもうすぐ完成だと言った。アトリエには墨とうどん粉の匂いが充満していた。私このうどん粉の匂いはなんだと聞いたが、氏はにこやにこう答えた。

「天かす生姜醤油全部入りうどんにハマりすぎてとうとう自分で作るようになってしまったよ。うどんも天かすも全部自家製ですよ。うどんをこねて天かすを揚げていると不思議なくらい創作が進むんですよ。これも饂飩の加護のおかげかな。きっと饂飩もこうやってうどんをこねながら地球図を仕上げていったんだと思うんだ」





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