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札幌でサッポロ一番を食べる!

一日目

 九月のシルバーウィークに北海道へ三泊四日の旅行に行った。前々から北海道には行きたかったけれど、なかなか時間が取れず今まで行けずじまいだった。だから今年シルバーウィークには絶対に行こうと決めていたのだ。今回の旅行で僕は子供の頃からの願いを叶えるつもりだった。旅行の前に同僚と連休の予定について会話した時、僕は彼らに向かって北海道旅行するんだと言った。その時彼らは「ヘェ〜、それは凄いな、で、北海道のどこに行くんだ?函館とか?それとも網走か?」と冗談を言ってきたが、僕は彼らをまっすぐ見てこう答えた。
「僕、札幌でサッポロ一番食べてくるんだ。子供の頃からの夢だったんだよ。ずっと思ってたんだ。札幌の大草原でサッポロ一番の味噌味が食べたいって!」
 それを聞いた同僚たちは一斉に笑った。そして同僚の一人が僕に向かってこんな事を言った。
「はぁ?わざわざ札幌まで行ってなんでそんなことするんだよ。おまえ冗談のつもりで言ってるんだろうけどさぁ、ハッキリ言ってスベってんだよ。ホントはススキのとか行くんだろ?隠すなよ。だけど病気は気をつけろよ!ちゃんとソーシャルディスタンス守ってエッチするんだぞ!」
 この同僚たちの軽口に頭にきた僕は、思わず彼らを怒鳴りつけてしまった。
「バカヤロー!僕をおまえらなんかと一緒にするな!僕は本気で札幌でサッポロ一番を食べようと思ってるんだ!そのためにキャンプ用のガスコンロも鍋もセットで買ったんだ!そしてサッポロ一番の味噌味の5個入りのやつも買ってバッグに詰め込んであるんだ!お前ら僕の夢をバカにするなよ!」
 そして僕は呆然と立っている同僚連中を置き去りにしてそのままオフィスに戻り、就業時間になると真っ先に立ち上がりまっすぐ家に帰宅した。

 家に帰ると僕はまず玄関に置いてあるスーツケースのチャックを開いた。うん、全部入っている。ガスコンロも鍋も。ガスボンベとか包丁とかラーメンに入れる食材とかは現地で仕入ればいいだろう。おっと、一番大事なものを忘れていた。これのために札幌まで出かけていくんだからなと、僕は中に5個入りパックのサッポロ一番が入っていることを確認した。封の開いていないサッポロ一番はケースの中でぐっすりと寝ていた。

 ああ!札幌の大地で食べるサッポロ一番はどんな味がするのだろう。もしかしたらあまりの美味のあまり札幌から離れられなくなるかもしれない。しかしこんなところで感激のリハーサルなんかしている暇はない。札幌へと向かう便の時間は刻々と迫っているのだ。僕はスーツケースを両手で掴んで部屋の外に出た。そして外からドアの鍵をゆっくりと閉めた。いざ札幌へ、僕は羽田空港に行くために、マンション前でタクシー会社に電話をかけて、タクシーが来るのを待った。

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 空港の保安検査場に入った途端急に不安になってしまった。あたりの物々しい雰囲気を見ていたら怖くなってきたのだ。恥ずかしながら僕はあまり飛行機を利用したことがない。だから飛行機の検査なんかにあまり慣れていないのだ。一応持ち込み禁止のものについては調べたつもりだ。だけどそれでもサッポロ一番の五個入りパックが引っかかってしまうかもしれない。貴様ラーメン袋持ち込んで何するつもりだ。密輸でもするつもりか!と検査官にサッポロ一番を取り上げられたらどうすればよいのか。そうなったら旅行自体の意味がなくなるのでこの旅行を中止せざるをえない。そんな不安な気持ちで僕はスーツケースをレールの上に乗せたのだが、レールに乗ったスーツケースはまるでパトカーに乗せられた容疑者のように連れされてしまった。
 しばらくすると検査官がスーツケースが無事に審査を通過したことを伝えてくれた。どうやら僕の心配は杞憂だったようだ。これで安心して札幌でサッポロ一番が食べられる。なんか安心したら急に眠くなってきた。僕は寝まいと飛行機に乗るまではずっと手の甲を抓って眠気を抑えていたが、しかし飛行機の窓側の座席に座った途端すぐに寝てしまった。

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 目が覚めたらそこはもう北海道だった。真下には北海道の大地が広がり奥には新千歳空港らしき施設が見える。僕は心臓の高鳴りを抑えることが出来なかった。とうとう来たのだ。ずっと憧れていた札幌に、サッポロ一番の故郷に来ることが出来たのだ。僕は歓喜のあまり思わず泣き出してしまった。そんな僕を隣の席のじいさんが怪訝な顔で見ていたが、僕はじいさんを無視して真下に広がる北海道の大地をひたすら見ていた。
 やがて飛行機が目的地に到着したとのアナウンスがあり、僕はそれを聞くとまた心臓が高まってきた。もう少しだ。僕はいつも大事な時になるといつもどうでもいい心配をしてしまうタイプだが、今回もやっぱりいろんな事が心配になってきた。トランクに詰められている5個入りのサッポロ味噌ラーメンはネズミに食われていないだろうか。乗務員にラーメンを食べられていないだろうか。ガスコンロが爆発しないだろうか。乗務員が僕の鍋で他の乗務員の頭を叩かないだろうか。と余計な心配ばかり募る。しかしそんな最悪の状況を考えてもどうすることも出来ず、あたふたしているうちに着陸準備のアナウンスが聞こえてきたので、僕は我を取り戻し、二度と東京に帰れぬかも知れぬが、それでも構わないと覚悟を決めて降りるための準備を始めた。

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 タラップを降りた僕を待っていたのは、羽田空港と変わらない近代的な設備の空港だった。空港内には、行き交う人々の列の両端に土産物屋が所狭しと並んでいる。僕はこの光景を見て正直少しがっかりした。僕の想像した北の国の空港のイメージと少しかけ離れていたからだ。僕が想像していたのは木造の寂れた空港であり、風が吹けば吹き飛んでしまうようなボロボロの施設だったのだ。いまどきそんな空港が日本にあるかというツッコミを入れられる方はもちろんいるかも知れない。しかしそれも都会人の田舎に対するナイーブな憧憬だと思って許してほしい。とにかく僕は北海道に降り立ったし、あとは札幌の大草原で念願のサッポロ一番を食べるだけだ。
 札幌までの経路は勿論バスを選んだ。それは僕にとって当たり前のことだった。なんといったってここは北海道。サッポロ一番の故郷であり、サッポロ一番を深く愛する僕には第二の故郷と言ってもおかしくない場所なのだ。自分の故郷を窓ガラスから心ゆくまで眺めたい。それは人間誰しもが持つ感情だろう。バス停まで歩いていくと札幌行きの高速バスがちょうど止まっていた。僕は荷物を乗務員に預けてすぐさまバスに乗り込んだ。札幌まであともう少しだ。しかし僕はここでも移動の疲れで寝てしまった。せっかく窓側の席に座ったのに意味が全くなくなってしまった。というわけでバスに乗っていた時の記憶はほとんどない。覚えているのは札幌に着いた時に運転手から無理やり叩き起こされたことぐらいだ。

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 そんなわけで僕はバスから札幌の夜の街へ叩き出されたのだった。外に出るといきなり秋を飛び越えて冬の冷たい風が吹いてきた。その風を浴びて僕はあらためて北海道に来たことを肌身で感じた。この札幌には職場の同僚も言っていたススキノがあるが、僕の目的はそんなところにあるはずがない。そんな不順な動機で北海道なんかに来るものか。僕はスーツケースを引っ張りながら繁華街の中を突き抜けて、予約していた安いビジネスホテルにまっすぐ向かったのだった。

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 ホテルの部屋に入って上着を脱いでベッドに投げると、僕はサッポロ一番のことが心配になってきてスーツケースを開いた。案ずることはなかった。僕のサッポロ一番はケースの中でスヤスヤと眠っていた。僕はサッポロ一番が壊れないように慎重に一つずつ荷物を取り出していった。着替えやカメラの類、次に札幌の大草原でサッポロ一番の味噌味を食べるためのガスコンロと鍋。そしていちばん大事なサッポロ一番の味噌味の5個入りパックだ。僕はそのサッポロ一番の5個入りパックををそっと手で包んで抱き上げた。こうしてサッポロ一番をその生まれ故郷の札幌で見ると、東京で見慣れたサッポロ一番の本当の顔が見えてきたような気がした。それはかつて付き合っていた彼女の生まれ故郷に一緒に行ったときに、彼女がふと見せた表情に似ていたような気がした。僕はサッポロ一番に自身の故郷である札幌の街を見せたくなって、サッポロ一番を抱きしめてホテルの窓のそばに立ち共に札幌の夜の景色を眺めた。
 そのままずっと札幌の夜の景色を眺めていると、旅行前に同僚が言っていた軽口を思い出した。僕は同僚とは違い風俗の趣味などまったくない。しかしそんな僕でさえ、窓に映る北国の街の誘惑に捉えられ、街を散策したいという誘惑がもたげてきた。おまけにお腹まで空いてきた。僕はサッポロ一番を食べる前に本場の札幌ラーメンを食べてみたくなってきた。これは大草原でサッポロ一番を食べるための予行練習のようなものだった。少しでも北海道の気候に体と胃を慣らせないといけない。でないといざというときに腹を下したらすべてがおじゃんになってしまう。そう決めると僕は再び上着を羽織り、空き室に泥棒が入ってもサッポロ一番が盗まれないよう、サッポロ一番を胸に抱えてホテルを出た。

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 こうやってじっくり札幌の街を散策するのは勿論初めだったが、サッポロ一番の生まれ故郷である札幌は、見慣れた東京とあまり変わらぬ光景だったので少しガッカリした。あたりにネオンライトが煌めき、道路ではタクシーがひっきりなしに走っている。せっかくの札幌旅行だというのに、このビルの並んだ東京と地続きのような光景には少々うんざりさせられた。僕が思い描いていた札幌は、雪の積もった洋風の建物が並ぶ街をもんぺ姿の純朴そうな人々が歩いているような街だった。しかし、現実の札幌は東京と何ら変わらない平凡な都会でしかなかった。僕はとりあえずラーメン屋を見つけるために、酔いどれ親父の頭の間から頭を伸ばしてあたりを見た。さすがは札幌ラーメンの本拠地だ。ラーメン屋はわざわざ探さずともいたるところにあった。しかしラーメン屋の看板は東京でも見るようなもので、北国らしいオリジナリティーのあるものではなかった。どうやら僕はさっきから札幌ををディスっているような文章を書いているような気がする。気を悪くされた方がいたら申し訳ないが、僕がこの札幌という街にどれほど憧れていたのかだけはわかってほしい。都会出身者のナイーブな田舎への憧憬だと言われればそれまでだが、都会に憧れて上京したが都会の現実を知って失望した青年のような、サッポロ一番を初めて食べた時からずっと夢見ていた街の現実を知ってしまった僕の失望を、わかってくれとは言わないが、せめて聞く耳は持ってほしい。そういうわけで札幌ラーメンを食べるぞ、と意気込んで街に出たものの、そのありふれたラーメン屋の看板を見たら急にラーメンを食べる気が萎えてきたので帰ろうかと思った時だった。僕は鼻先にふんわりと麺と味噌の混じったいい香りを感じた。どうやら三軒前のラーメン屋から漂っているようだ。僕は麺と味噌の香りを嗅いだ途端よだれが出てくるのを感じて、さっきまでの萎えはどこへやら、いつの間にかラーメン屋の暖簾をくぐっていた。

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 ラーメン屋の暖簾をくぐった僕は店員の「いらっしゃいませ!」という快活な挨拶を受けた。今時のラーメンではありふれた光景だ。きっと地方のラーメン屋でも僕のような観光客のために機械的に挨拶をするよう訓練されているのだろう。あまり悪い気はしないが、特に気分が良くなるわけでもない、そんな挨拶だった。僕は店の派手な、これも東京でよく見るような内装を見て、憧れの札幌がすっかり東京色に染められているのを残念に思った。僕が店の中で立ち止まっていると、店員がサッポロ一番の味噌の5個入パックを持った僕を「さぁ、こちらへどうぞ」と言ってカウンターの席に案内した。カウンターの向かい側には厨房があり、店主らしき男がこちらに背中を向けてラーメンを作っている。そこから先程僕が外で嗅いだ、あの味噌の香りが漂っている。その味噌の香りだけが僕の憧れていた札幌らしさを感じさせた。しかし店の客は僕と同世代か年下の若い連中ばかりで、恐らくほとんどが僕と同じ観光客だろう。彼らはキャッキャと互いに突き合いながら拉麺を食べていた。その中のひとりが、僕がカウンターに置いてるサッポロ一番の味噌味の5個入パックを見て指差して笑いだしたのだ。
「おい、見ろよ!あいつサッポロ一番なんか持ち歩いているぜ!」
 すると店の客が一斉に僕を笑い出した。僕は彼らが何故僕を見て笑うのか理解できなかった。サッポロ一番を見て何故笑うのか。夜のススキノでサッポロ一番を持ち歩くのは恥なのか?だっておかしいだろ?ここは札幌じゃないか?サッポロ一番の故郷じゃないか?おまけに店の店員まで僕を笑い出した。彼はカウンターのサッポロ一番を見て、「珍しいものを持ち歩いてるますねえ!」と笑いながら僕の持ってるサッポロ一番の5個入りパックを指差した。何が珍しいだ。札幌ではごくありふれたものじゃないか!大体サッポロ一番は君らの街で生まれたんだぞ!僕は店にいる連中に向かって、「何がおかしいんですか?これは皆さんおなじみのサッポロ一番じゃないですか!」と我知らず声を高ぶらせて言った。しかし店の連中はますます僕をあざ笑い、とうとう厨房の店主まで出てきて半笑いで僕に言った。
「すみませんねえ~。あの~サッポロ一番って札幌じゃ誰も食べないんですよ!僕も一度も食べたことありません!いったいどんな味するんです?よかったらここで調理してみましょうか?」
 するとその場にいた連中は一斉にギャハハハハ!と笑い出したのだ。僕は我慢できなかった。僕の愛するサッポロ一番をここまでコケにされるとは!これが田舎というものなのだろうか?都会人の純粋さをバカにして!許せん!と耐えきれなくなった僕は、「帰る!」と叫んで勢いよく席を立ちそのまま店を飛び出した。僕の後ろからは「二度と来るなよ!このサッポロ一番野郎!」というヤジが飛んできた。

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 僕はラーメン屋を飛び出して再び歓楽街を歩き出したが、何かがないことに気づいた。そう、何かがないなんてもんじゃない。金よりも大事なサッポロ一番がなくなっているではないか!きっとあのラーメン屋に置き忘れたのに違いない。僕はすぐさま歩いてきた道を戻り、恥を偲んで慌ててさっき入ったラーメン屋に入った。店の連中は戻ってきた僕を見て呆然としている。僕は今しがた座っていたカウンターを見て、サッポロ一番がないことに愕然とし、その場にいた店員にサッポロ一番の行方を尋ねた。すると店員のやつは、「ああ!あれですか。アンタが捨てていった思ったから常連のお客さんに上げましたよ!」と半笑いで答えたのだった。僕は頭にきて「貴様!僕の大事なサッポロ一番をどうしてくれるんだ!」と店員の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてやった。
 すると奥から店主が顔をのぞかせて、半笑いを浮かべながら僕にこう言った。「お客さん、あんなパチモンなんかより本物のラーメン食べましょうよ!さっきも言いましたけどサッポロ一番なんて札幌の人間は誰も食べてませんよお!」
「うるさい!貴様ら僕のサッポロ一番をなんだと思っているんだ!その僕のサッポロ一番を攫った客がどこにいるのか教えろ!僕がそいつに言ってサッポロ一番を取り返してやる!」
 その僕の剣幕に店主も店員もびびったのか。急に素直になり僕に向かって常連客が勤めている店を教えてくれた。

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 その常連客はススキノのとあるお店に勤めているらしい。僕は再びラーメン屋を飛び出すと、ラーメン屋の店主が書いてくれた地図を頼りに店に向かって歩いていたが、足を進めるごとに周りの雰囲気がだんだん怪しげになって来たのを感じた。風俗店の看板が立ち並び、店の前からひっきりなしに呼び込みがあった。しかし何度も言っているように、僕は風俗など全く関心のない人間だ。僕は呼び込みに冷たい視線を投げつつ、スマホの地図を確認して、足早に目的の店を探した。そのまま進んでいくと、もはや周りには風俗店しか見えなくなり、僕は自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまった。スマホで地図を見ても風俗店が並んでるだけだ。コロナだというのに、申し訳程度にマスクをつけた男たちが溢れかえり、血走った目で歩いている。僕はしょうがないので道行く人々に店の場所を尋ねた。しかし、あるものは僕を無視し、あるものはニヤニヤしながらそんな店よりうちのほうがずっといいよ!と勧めてきた。そうして店を訪ね回っているうちに、僕はとうとうサッポロ一番を僕から奪っていった奴が勤めているらしい店を見つけたのだ。その店もやはり風俗店だったので、僕は店の中に入ってサッポロ一番の在り処を尋ねていいものか躊躇った。
 すると僕の前にいつの間にか立っていた店の呼び込みが、「女の子と遊びたいんでしょ!怖くないから店の中へ入りましょうよ!」と僕の腕を掴んで店の中に無理やり入れようとしてきたのだった。
 僕はこの店の連中の勘違いを正そうと、「違う!僕はラーメン屋で攫われたサッポロ一番の味噌味の5個入りパックを探してるんだ!」と言って呼び込みの腕を話そうとしたが、呼び込みは更に力を込めて僕の腕を掴んでこう言ってきた。
「訳のわかんねえ事言うんじゃねえよ!ホントはヤりてえんだろ!恥ずかしがらねえでさっさと店の中入れよ!金出しゃいい女の子つけてやるからよ!」そう言って僕を腕を引っ張って、無理やり店の中へ連れて行こうとする。僕は全身の力を込めて彼に抵抗し、我知らずこう叫んでいた。
「僕のサッポロ一番を返せ!今すぐ僕の前にサッポロ一番を連れてこい!」
「ヤメろこのバカヤローが!お巡りが来たらどうするんだ!」
 店員はそう怒鳴ると、僕の両肩を掴んで道路の方へ投げ飛ばした。だけどそんな暴力を受けようが、僕はサッポロ一番を連れて帰るまではホテルに戻れるはずがない。サッポロ一番を取り戻そうと、僕は何度も店に向かってサッポロ一番を返せ!と叫んだ。だが店からは誰も出てこず、僕はいつの間に来ていたでかい男の二人組みに両肩を掴まれていた。「何するんだ!」と僕は叫んだが、男たちは僕に向かって、「お客さぁ~ん!みんなに迷惑かけるのだけは止めましょうやぁ!でないと外もロクに歩けなくなりますぜ!」と囁いた。その二人組の冷たい、まるで冷血動物のようなその目を見た僕はゾッとして全身を震わせ動くことも出来なくなった。そして僕はススキノの風俗街から連れ出され入り口のゴミ捨て場に捨てられた。
 結局僕はサッポロ一番を泣く泣く諦めてホテルに戻った。僕のサッポロ一番はあれからどうなったのだろうか。ラーメン屋でサッポロ一番を強奪した男に食べられてしまったのだろうか。

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 なんとかホテルの部屋に戻った僕はさっきまでの出来事を思い出して泣きたくなった。サッポロ一番は連れ去られ、現地人には馬鹿にされ、そして最後には東京ではありえないほどの暴力を受けたのだ。しかし一番のショックは、ここ札幌では誰もサッポロ一番なんか食べないと言われたことだった。本当なのだろうか?本当に札幌の住人はサッポロ一番を食べないのだろうか?じゃあ今まで僕が想像していた、札幌市民が夜七時になると、一斉にサッポロ一番の袋を破ってラーメンを作り出すという、心温まるシーンは全部でたらめだったということではないか。いったい僕は何のためにわざわざ札幌まで来たのか。それは札幌の大草原で札幌の人たちと一緒に札幌ラーメンを食べるという夢があったからではないか。
 僕は札幌の人たちが本当にサッポロ一番を食べないのか調べるために『スマホでサッポロ一番 札幌 食べない』と打ってググってみた。僕はその結果を見て、持っていたスマホの手が震えるのを抑えることが出来なかった。まず僕の目に飛び込んできた情報は、サッポロ一番が札幌で作られていないという衝撃的な事実だった。これは自分の彼女が出身地をごまかしていたようなものだ。それだけで僕はもう耐えられなかったが、さらなる事実が僕を打ちのめした。なんと札幌ではマルちゃんラーメンと日清ラーメン屋さんが人気でサッポロ一番には誰も目をくれないそうだ。
 僕はこの悲しむべき事実に、昔付き合った彼女がずっと年齢を偽っていた事を思い出した。付き合っていて怪しいと思って問い詰めたら、彼女はなんと四十すぎのババアだったのだ。僕はそれでも耐えて彼女と付き合って行くつもりだったが、心と身体は常に矛盾するもので、心では彼女を受け入れても、肉体のほうが拒絶反応を起こしはじめてしまい、ついには彼女と別れざるをえなかった。まさか女だけじゃなくてサッポロ一番まで僕を裏切るのだろうか。女よりもずっと長く付き合ってきた、いや生まれた頃からずっと僕のそばにいたサッポロ一番。ずっと札幌出身のどさん子だと思っていたのにこんな裏切りはひどいじゃないか!僕は一体何のために札幌まで来たのだろう。札幌でサッポロ一番を食べるだなんて!良くもこんな性悪即席麺に対してバカげたことを考えたものだ。もう全てがバカバカしくなった。僕はスマホを放り投げるとベッドに飛び込み、そしてそのまま寝てしまった。

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二日目

 札幌滞在二日目の朝だった。しかし僕は札幌という街と、何よりサッポロ一番に裏切られたショックで、もう滞在自体切り上げ帰りたい気分になった。実際にスマホで当日便を検索したぐらいだ。しかしさすがに当日便はバカ高く、手持ちの金はさほどないので東京に帰るのを諦めざるを得なかった。仕方がないので僕はこのままずっと札幌を出るまでホテルに籠もって過ごそうと思った。だけどホテルに籠もったところでますます陰鬱になるだけだ。だから僕はこれからはサッポロ一番のことを忘れて、普通の観光客として、札幌の街をくまなく見て回ろうと思った。そう決めた僕はベッドから飛び起きてシャワーを浴びて着替えを済ますと、ホテルをでて朝の札幌の街を歩き回った。
 札幌の朝もやはり東京の朝のように通勤のラッシュだった。連休中でも働く人は働くのだし、ゴルデンウィークやお正月でもない限り働く人はそれなりにいるのだ。僕も明後日にはこの札幌から東京へと、毎日続く戦場へと帰還しなければいけない。僕もやがて結婚し子供が出来それからは家族の分もこの人生という戦場を生きなくてはいけない。そんなときでもサッポロ一番があれば……。ああ!そんな夢みたいなことを昨日までずっと思っていた。札幌出身のサッポロ一番を札幌で食べるだなんて!ところがサッポロ一番は札幌とは全く無関係の代物だった!ずっと僕はサッポロ一番に騙されていたのだ。だがもう忘れよう。サッポロ一番のことなんか忘れてしまえ。僕はあくまで都会人。もう心の故郷なんか求めたりしない!

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 観光というのは初めての土地だとやはり定番のコースを選んでしまいがちだ。どこに行きたいか地図を広げてあれこれ考えても、結局人の集まる場所へと向かってしまうものだ。僕もやはりそうだった。サッポロ一番を忘れようと、人の波に乗って人気スポットをあちこち彷徨ってしまった。時計台では写真取っているうちに興奮して思わず時計台に登ろうとして警備員のおっさんに止められたりした。

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 あの有名なクラーク博士の銅像にもよじ登ろうとしてまたまた警備員のおっさんに怒られた。こんどやったら警察呼ぶぞと脅された。クラーク博士は、Boys, be ambitious'(少年よ、大志を抱け!)と自分の生徒たちに言い残して札幌を去っていった。思えば僕も博士の言葉を頼りに、札幌でサッポロ一番を食べるという、大志を抱いてここまで来たような気がする。しかしそんな僕にこんな手酷い裏切りが待ち構えているなんて思わなかった!

 北海道庁旧本庁舎、いわゆる赤れんが庁舎の赤いレンガを見た時、僕はサッポロ一番の醤油味のパッケージを思い出して気分が悪くなった。いったいどうしてサッポロ一番のことばかり浮かんでくるのか。すべてが偽りだとわかったはずなのに。お前なんか札幌の名前がつかなきゃ誰も食べなかったはずだ。お前は僕のような純粋な都会人を騙したんだ。ほんとはどっかの貧乏ったらしい田舎の出身のくせに、札幌出身だなんて大嘘ついて!いいかい、お前は札幌じゃ誰も食べてないんだよ!昨日ラーメン屋でお前は思いっきりバカにされたじゃないか!だけどなぜだろう、そうやってサッポロ一番に毒づけばつくほど、あのほんわかとしたサッポロ一番の味噌の香りを思い浮かべてしまう。まさか赤レンガを見て醤油どころか味噌味を思い浮かべるなんて。いったい僕はいつまでサッポロ一番を引きずっているんだ。やめろ!アイツは今までずっと僕を騙していた性悪即席麺じゃないか!全くなんて観光だろう。サッポロ一番を忘れるために色んな所を飛び回ったのに、結局僕がサッポロ一番から受けた傷口を広げただけだった。僕はもう疲労困憊してそれ以上観光を続けるきにならずホテルへと戻った。

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 ホテルに戻ったのは午後四時だった。しかし僕の心はボロボロでまるで未練たらしの男のような気分だった。ああ!なんで僕はサッポロ一番が忘れられないのだろう!もうあんなヤツ忘れてバカな同僚みたいにラーメン二郎でもガッツリ食べられたらいいのに!そうしてホテルの部屋の床にへたり込んだまま放心していると突然お腹が鳴った。そういえば昨日の夜から何も食べていなかった。とはいってもこのホテルは安いビジネスホテルなので当然ルームサービスなんかない。だから僕は食べ物を買いに再びホテルを出て近くのコンビニに向かったのだった。

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 コンビニで弁当かおにぎりでも買おうと思っていたのに気づいたらラーメンコーナーの前まで来てしまった。全くバカバカしい話だ。頭ではサッポロ一番のことなど忘れてしまえと思っているのに体がそれを完全に裏切ってしまっているのだ。僕は棚にサッポロ一番が特に味噌味が陳列されていないことを祈った。札幌のコンビニにはネットの記事通り東洋水産と日清食品の製品が中心におかれ、サッポロ一番は一袋もなかった。本来ならこの事態に喜ぶべきなのに、なぜか悲しい気持ちが頭をよぎったのは気のせいだろうか。一旦ラーメンたちを見てしまったからには、他の食品を食べる気にはならず、目の前にあった札幌で人気の某メーカーの味噌味のカップラーメンを手に取るとそのままレジで買ってホテルへと戻った。

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 ホテルに戻ると僕はテーブルに座って、カップラーメンの蓋を開けて中のかやくと味噌スープの入った袋をそれぞれ取り出した。そしてかやくを麺の上に開けてから、テープルに置いてあったポットでラーメンカップにお湯を注ぎ、蓋を閉じその上に味噌スープの袋を置いた。待ち時間は三分だ。こうして静かな部屋でラーメンが出来上がるのを待っていると、時間は思ったよりゆっくりと流れていった。
 そういえば僕はずっとサッポロ一番漬けだっただったので、他のメーカーのラーメンはさほど食べていない。もしかしたら、今買ってきたこの札幌で実際に人気のあるラーメンを食べたら、僕はサッポロ一番を卒業出来るかもしれない。そうなったら性悪即席麺のサッポロ一番とは永遠にさようならだ。さらば僕を騙し続けた性悪即席麺。コンビニやスーパーでお前にあっても無視するだけだ。やがてスマホのアラームが鳴った。もう三分経ったのだ。
 僕は蓋に乗せていた味噌スープの袋をのけてからラーメンの蓋をゆっくりと開けた。それから味噌スープの袋を開けるとそれを麺の上に注いだ。あたりに味噌の香ばしい匂いが立ち込めてくる。これが本物の札幌のラーメンなのか。サッポロ一番のような性悪な嘘付き即席麺など問題にならない本物のラーメン。僕は早速コンビニで貰った割り箸を割って、いただきますと一礼してから箸でラーメンをつまみそのまま口に運んで啜った。
 確かにうまいラーメンだ。これが札幌で人気と言われるのも納得が出来る。だけど何かが違うのだ。これは客観的に評価すれば確かにうまいラーメンだろう。だがこのラーメンは僕に馴染みのあの懐かしい心の故郷札幌の味を思い出させてはくれないのだ。再度味を確かめようと啜ったがそれでもダメだった。違う、これは僕の札幌ラーメンじゃない。僕が心の中で想像していた札幌の、心の故郷の味ではないのだ。結局ラーメンは完食したものの、このラーメンは僕の心の故郷とはなり得なかった。なぜだろう札幌の人たちがみんな食べているはずのラーメンを食べているはずなのに、どうしてこのラーメンには札幌を感じないのか。もう正直に言おう。僕はこのラーメンを食べながら思い浮かべていたのはサッポロ一番、あの性悪即席麺のサッポロ一番のことだったのだ。

 僕はなぜこの札幌出身でもないくせに、札幌の名前を名乗っているサッポロ一番が何故札幌で大人気のラーメンよりもよっぽど札幌を感じさせるかについて考えてみた。だけど答えなんか見つかるはずもない。だって僕は生まれも育ちも東京出身なのだ。東京しか知らない純粋な人間なのだ。結局僕は再びググるしかなかった。『サッポロ一番』でググるとそこにサッポロ一番の製造元のサンヨー食品のwikiがあった。僕がハッと目を留めたのは概要欄である。そこの出だしにこう書かれているではないか。
『ブランド名の「サッポロ一番」は、当時の専務であり後に社長となる井田毅が全国のラーメンを食べ歩き、札幌ラーメンに感銘を受けたことに由来している。 』
 僕はこの説明を読んでハッと目を見開かれる思いがした。つまりこういうことだったのだ。東京のラーメンに飽き足らず全国のラーメンを食べ歩いた男が最後に見つけた理想のラーメン、それが札幌ラーメンであった。彼はその札幌ラーメンの味をそのままにどうにか袋の中に閉じ込めて、いつでもどこでも食べられるような理想の袋麺を作りたかった。開発を続けていくうちに彼の札幌ラーメンへの思いはだんだん理想化されていき、ついには本物より本物らしいサッポロ一番を作り上げてしまったのだ。そして僕はそのサッポロ一番味噌ラーメンを生まれたときからずっと食べてきた。そう僕は彼らの理想化された北海道を、札幌をずっと味わってきたのだ。ということは僕とサッポロ一番を作った人たちの思いは一緒なのだ。みんなどこかで理想郷を求めている。常に移り変わってゆく現実と違い、何があろうと絶対に変わらない理想郷を。サッポロ一番を作った人たちはそれを全国の人達に伝えるためにその思い伝えるためにサッポロ一番の袋麺を作り、そして僕はサッポロ一番の袋麺に閉じ込められた思いを舌と鼻で受け取り、存分に理想郷でありもはや現実に存在し得ない札幌を味わっていたのだ。
 ああ!なんてことだろう!僕はなんてバカだったのか!理想郷を理想郷と気づかず、目の前の現実に惑わされてサッポロ一番そのものさえ見失ってしまった。謝りたかった。僕はサッポロ一番に性悪即席麺などととんでもない悪口を行ってしまったことを謝りたかった。しかしそのサッポロ一番はもういない。思えば昨日サッポロ一番を見失ってしまったのは、サッポロ一番がいつもそばにいることの奇跡に気づかず、それが当たり前だと思っていた思っていた僕のおごりせいだったかもしれない。彼女はそんな僕に愛想を尽かし風俗店の従業員に自ら食べられに行ったのだ。僕はもう泣くしかなかった。だが後悔してももう遅い。二度とあのサッポロ一番は戻ってこないし、この札幌ではサッポロ一番は売っていないと聞く。しかしそれでも、と僕は立ち上がった。やっぱりここはサッポロ一番の起源の場所なのだ。きっとどこかにサッポロ一番は売っているはず。探そう。彼女を探そう。自分でも驚くぐらい余りに突然の決断だった。きっとこれは神さまが僕に札幌でサッポロ一番を食べろと命じているのだ。一度決めたら迷いなんか捨てろ!そう僕は自分に喝を入れ駆け足でホテルを飛び出しサッポロ一番を探しに出かけたのだ。

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 外へ出てみたらいつの間にか夜になっていた。北国の夜は早く、そして厳しい。札幌の夜は初日と同じように相変わらず人の波が激しかった。しかしそんなことは今の僕にはどうでも良かった。今の僕にとって大事なのはまず第一に早くサッポロ一番を見つけること。それと昨日からのゴタゴタで買えなかった、大草原でサッポロ一番を食べるために必要なガスボンベや包丁やラーメンに入れる食材を買うことだった。僕はとりあえず近くにあるデパートまで行くことにした。

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 デパートに入ってまっすぐ地下の食品売り場に急ぐ。ここにもしかしたらサッポロ一番があるかもしれない。僕はエスカレータを駆け下りたい衝動をどうにか抑えながらずっと立っていたが、地下一階につくとラーメン売り場までダッシュで駆け出した。あってくれ!お願いだ!そこで僕を待ってていておくれ!だが、そんな僕の期待をあざ笑うかのようにラーメン売り場にはサッポロ一番の痕跡すらなく、その代わりに札幌で人気のマルちゃんや日清のラーメン屋が所狭しと並んでいたのだ。だけど今の僕はこんなことで諦めたりしない。僕はマルちゃんや日清の袋麺を引っぺり返してサッポロ一番を探した。しかしそれでもサッポロ一番は見つからなかった。しかたがなかったので僕は別の階でガスボンベと包丁を買ってこのデパートを出て次のデパートへと向かったのだった。
 だがそこでもサッポロ一番は見つからなかった。もうヤケクソだった。こうなったらラーメンが売っている店を虱潰しに探すしかない。いざとなったらこの出刃包丁でも使ってサッポロ一番を出させるつもりだ!というのは冗談だが、しかしそれぐらいの使命感を持って僕はサッポロ一番を探していた。あらゆるスーパー、コンビニ、百均ショップを探してもサッポロ一番は見つからず、そうしているうちにデパートやスーパーなどは次々と閉店時間になってしまった。あるスーパーの扉が閉店時間を過ぎているのに開いていたので入ろうとしたが、入った途端に店員に止められた。それでもサッポロ一番を諦めきれない僕は店員に向かってサッポロ一番を出せ!と怒鳴ったが、あるわけねえだろそんなもん!と怒鳴り返されすごすごと退散した。僕はそれからも食材と包丁の入った袋を持った左手のしびれを感じながらコンビニやら百均やらに入ってサッポロ一番を探したが全く見つからなかった。そしてもう最後はあの因縁の風俗街しかなかった。またあんないかがわしい所にいかなくては行けないのか。僕は怖気づいて思わずホテルに戻ろうとしたが、しかし僕を信じて待っているだろうサッポロ一番を救うためと自分に喝をいれるため、勇気を出して風俗街に足を踏み入れた。

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 たしか風俗街にもスーパーやコンビニはあるはず。そこを虱潰しに探していけばサッポロ一番は見つかるはず。僕は全集中を込めてサッポロ一番の居場所を察知しようとした。だが風俗街に入ったその時だった。僕はいきなり昨日の二人組にばったり出くわしてしまったのだ。二人組は僕をいきなりふんづかまえて投げ飛ばしたのだ。僕は余りに酷いこの仕打に思わず袋に入れてあるはずの包丁を抜いて二人を刺そうかとさえ思った。だがそんなことはサッポロ一番が許さないだろう。だから僕は立ち去ろうとする彼らの背中に向かって叫んだのだ。
「ここにサッポロ一番打ってる店ありますか?僕はサッポロ一番が買いたいだけなんです!それだけなんです!だから、だからサッポロ一番の置いてある店教えて下さい!」
 僕の叫びを聞いた二人組は振り返って再び僕に駆け寄ってくると、僕の胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「バカヤロー!そんなものここで売ってるわけねえだろ!さっさとウチ帰れ!ここはお前みたいな頭のおかしい奴がくるところじゃねえんだよ!」
 彼らの言ったとおりだろう。おそらくここにはサッポロ一番は売っていない。あるとすれば昨日僕が奪われたサッポロ一番の残骸が道端に落ちている可能性ぐらいのものだ。あたりには、さっき二人組に投げ飛ばされたときに袋から飛び出た、食材と包丁が剥き出しのまま落ちていた。通行人が遠巻きに驚いた表情で見ている中僕は慌てて食材と包丁を袋に詰めて駆け出した。そんな僕に後ろから誰かがこう叫んでいた。
「あの~!包丁の箱忘れてますよぉ~!」

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 たしかに僕は箱を置きっぱにして包丁を剥き出しのまま袋に入れてそのまま駆け足でホテルに戻ってしまったが、幸い何事もなく部屋に入れた。食材もどうやら無事だったみたいだ。結局サッポロ一番は見つからず、もはや状況は絶体絶命だった。しかしどうしてなのだろうか。僕の心の中は明日大草原でサッポロ一番を作って食べるというイメージが満ち溢れているのだ。だから僕はスマホを開いてレンタカーの予約をしてしまった。それが終わると僕は買ってきた食材と包丁をスーツケースに詰め込み、それからシャワーを浴びて歯を磨くと明日の準備のために早めにベッドに入って寝ることにした。
 明日がこの札幌旅行の事実上の最終日だ。明後日の午前中には空港に向かわなくてはいけない。だからすべては明日で決まるのだ。明日サッポロ一番が見つからなかったらこの旅行は人生の中で最も惨めな旅行となるだろう。サッポロ一番を札幌で食べるつもりが、サッポロ一番を見失い、そしてサッポロ一番にあらぬ疑いをかけ、勝手に絶縁宣言までしてしまったのだ。この札幌でサッポロ一番を食べないと、僕は東京でもサッポロ一番を食べられないような気がする。昔彼女の田舎に行った時、なんかの行き違いで彼女と酷く大げんかしてして一人で東京に帰ってしまったことがあった。それから僕は東京に帰ってきた彼女と寄りを戻そうと許しを請うたが、彼女は頑なに僕を許そうとはしなかった。結局その彼女とは永遠に別れてしまったが、もうそんな悲劇は繰り返したくない。だから明日はなんとしてもサッポロ一番をこの札幌で見つけなければいけないのだ。
 しかしそう自分に喝を入れるほど追い詰められているのに、どうして頭の中にはサッポロ一番を食べる僕が浮かんでくるのだ。もう悪い結果は考えるな。このままサッポロ一番を食べる姿を浮かべたまま眠るんだ。それから僕はずっとサッポロ一番を食べる夢をずっと見ていた。

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三日目

 三日目、早朝に僕は目覚めた。もう準備は万端で後はレンタカーを取りにいくだけだ。鍋も、ガスコンロも、そして昨日買ったガスボンベも食材もすべてスーツケースに詰め込んだ。僕は朝焼けを見ながらまだ見ぬ札幌の大草原に思いを馳せた。もしかしたら自宅を出るときに思ったことが現実のものになるかもしれない。札幌でサッポロ一番を食べたら、感激のあまり札幌から離れられなくなるんじゃないかと。だが、今僕のそばにサッポロ一番はいない。昨日あれほど探してもサッポロ一番の痕跡すら見当たらなかった。しかしいつまでもサッポロ一番を奪われたことを嘆いてもしかたがない。きっと草原までの道中の店にサッポロ一番はいるはずだ。僕はサッポロ一番を信じろとあらためて自分に喝を入れた。
 そして僕はホテルを出た。スーツケースにはサッポロ一番のために用意したものが全て入っている。後はレンタカーを借りて、道中でサッポロ一番を拾って大草原に向かうだけだ。

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 レンタカーの店舗の受付で申し込みをした僕は早速借りた車の所のバックドアを開けて荷物を詰め込んだ。もう迷いはない。きっと、いや絶対にサッポロ一番は見つかるはず。僕は再度自分に喝を入れて車に乗り込んだ。

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 僕は車でレンタカーの店舗から出た瞬間から妙な開放感を感じ始めていた。大草原と言ってもどこの大草原にいけばよいのか。しかしそんなことさえどうでもいいことのように思えてきた。風のゆくまま、気の向くままに行けばいい。そうすればサッポロ一番にも再会出来るし、そのサッポロ一番と一緒に大草原にたどり着けるだろう。僕はアクセルを踏み道路を突っ走っていった。

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 だけど僕はいつの間にか人里離れた場所へと来てしまったみたいだ。あたりには何もない。コンビニは勿論、地元の人がやっている小売店すらなさそうだ。僕はどうすればいいのだろう。サッポロ一番どころではない。しかしそれと同時にここを進めば道がひらけてくるという、あまりにも確証のなさすぎる確信があった。本当にいいのだろうか。このまま進んでいいのだろうか。この道を進めばサッポロ一番に再会し、そして無限に広がる大草原へと辿り着けるのだろうか。その時である僕は道路の左側に小さな店を見つけたのだ。

お店

 その店を見た瞬間、僕はここにサッポロ一番があると確認した。もういても立ってもいられない。僕は駐車場など構いなしに道路脇に車を止めて店に駆け込んだ。ああ!サッポロ一番!君はそのまま、僕が行くまで待っているんだよ!

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店先には食品がずらりと並べられていて、ラーメンは奥の方に置かれていた。僕は高まる心臓を手で押さえながら奥へと進んでいった。ここでサッポロ一番に再会できなかったら僕のラーメン人生はもう終わりだ。これからは立ち食いのそばやうどんで残りの人生を過ごしてゆくしかない。だが運命はそんな僕をあざ笑うかのように僕からサッポロ一番を隠してしまった。見つからない。どうしてもサッポロ一番が見つからない。ああ!もう終わりだと思ったその時だった!

 僕はダンボールの奥に愛するサッポロ一番を見つけたのだ。ああ!なんてことだこんなに煤まみれになって!だけど君はここにいた。君はずっとここにいたのかい?僕が見つけるまで他人には見つからないように隠れていたのかい?僕は君を再び抱きしめる。やっとまたこうして会えたんだね。僕はサッポロ一番についた煤をはらった。そして裏面を見ると賞味期限はもうギリギリギリギリだった。今日中に食べなければこのサッポロ一番は二度と食べることは出来ない。ああ!こんなになるまで僕を待っててくれたなんて!さて、いつまでも感激にむせんでいてもしょうがない。僕はサッポロ一番を手にレジに向かい値札の金をキッチリ払って出ようとした。しかし店員のおばあさんは僕を呼び止めこれは賞味期限ギリギリだから半額でいいとか言ってきた。だけどサッポロ一番はそのへんの安い女とは違うんだ。僕は店員に定額で買うとキッパリ言って店を出て車に乗った。サッポロ一番を膝に乗せ僕は道なる大草原へとゆくためにアクセルを踏んだ。さあ僕らの目的地へと出発だ。

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 ああ!どこまでいったら大草原に辿り着けるのか!緑あふれる北海道の大草原よ!この永遠に続くような平坦な道の先に大草原はあるのだろうか。僕はこうして車を走らせているうちに段々これが現実か妄想かわからなくなってきた。今ここで車にサッポロ一番を乗せて走っている僕は現実の僕なんだろうか。それとも果てしのない夢を観ているのだろうか。しかし僕はたしかにここにいて、そしてたしかにひざに愛するサッポロ一番を乗せている。僕ら以外誰も走っていない道をただ一台、僕とサッポロ一番を乗せた車は走ってゆく。しかし突然光が僕の視界を奪った。僕は眩しさに目を閉じ、慌てて車を止めた。

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 目を開けるとそこに青々とした緑の草原が広がっていた。あたりを見渡しても全てが緑一色で果てがない。あたりには人の気配はなく、ただ風にそよぐ草の音が聞こえるだけだ。ここなのかサッポロの大草原は、いやサッポロ一番を作った人たちと僕が夢見た理想郷は。僕はサッポロ一番をポケットに入れて車から降り、バックドアからスーツケースを引っ張り出す。そしてスーツケースから道具一式を出して料理の準備に取り掛かる。準備の時僕はポケットのサッポロ一番にもう少しだよとたびたび声をかけた。この大草原は僕らの草原だ。僕は今ここで君を食べる。

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 僕は早速中の食材を取り出してサッポロ一番の料理に取り掛かった。食材は勿論北海道産のじゃがいもとキャベツとコーンにバターだ。僕は東京でも同じメニューでサッポロ一番を作っていたが、今僕は初めてこの札幌でサッポロ一番を作るのだ。この誰もいない大草原で。このサッポロ一番と僕だけの理想郷で!僕はまずじゃがいもを鍋に入れて茹でることにした。ガズコンロにガスボンベを取り付けたら、じゃがいもと水筒の水を入れた鍋をその上に置いてコンロのスイッチを入れる。そしてキャベツを適当な大きさに切ったら後はじゃがいもが茹で上がるのを待つだけだ。僕はその間ずっとサッポロ一番と語り合う。賞味期限ギリギリになるまで僕を待っていた君。僕たち二人は様々なトラブルを乗り越えてようやく再会できたんだ。君は早く僕に食べられたいって顔をしている。そのオレンジの肌がそう言って微笑んでるんだ。今草原にかすかな風が吹いた。太陽はさっきから僕とサッポロ一番だけを照らしている。そう僕と君だけを。
 そうしているうちにじゃがいもが茹で上がってきた。僕は慌ててガスコンロのスイッチを切って、鍋から湯を捨てた。そして僕はじゃがいもの河を剥いてからザックリと大きめに切った。そして拭いて水気をとった鍋に再び切ったじゃがいもと、同じく切って水で洗ったキャベツを一緒に入れて塩を振りかけて炒めた。もう少しだ。後もう少しで君を食べられるんだ。そう僕は隣のサッポロ一番にささやく。そうしてしばらく炒めているとキャベツがしなってきた。僕は再びガスコンロのスイッチを切り、中のじゃがいもとキャベツを取り出した。ついにこの時が来た。


 僕は鍋を水筒の水で丹念に洗い、再び水を鍋の中に入れてガスコンロの上に置くと、ガスコンロのスイッチをゆっくりと押した。ああ!やっとこの札幌で君を料理出来る。そして食べることが出来る。長かった。長過ぎる三日間だった。今僕は君を開ける。僕は不器用だから少し乱暴だけど、我慢して。さあ、君の全てを僕に見せておくれ。僕はサッポロ一番にそうささやくと、手に力を込めてゆっくりとサッポロ一番の袋を破いていった。今サッポロ一番は静かにその全てを見せていく。なんて白い麺なんだろう。まるで絹のようだ。僕は味噌スープを脇にのけてその絹のような麺を沸騰した鍋に入れた。その瞬間サッポロ一番ふんわりとした新鮮な小麦の匂いが立ち込めた。やはり君も僕に食べられたいのかい。僕は箸で君をかき回す。そうしているうちに君は湯に馴染んできてだんだん茹で上がっていった。僕は芯に固さが残る麺が好きだ。だから茹で上がると同時に僕は火を止めた。そして僕は鍋の中にまずはスープを入れて馴染ませ、そしてじゃがいもとキャベツとコーン、そして最後にバターを乗せた。
 僕は鍋の中のサッポロ一番を見て、自分で言うのもなんだが、余りに素晴らしい出来栄えに思わず目頭が熱くなった。ああ!写真に乗せられないのが本当に残念だ。だけど僕はこの札幌の大草原でサッポロ一番と過ごした休日を永遠に忘れないだろう。僕はレンゲでサッポロ一番の味噌スープを救って飲んだ。この札幌の寒空の冷やされて体が温まってゆく。そして僕は箸で挟んでその絹のような麺を取り出す。麺を取り出した時、あたりに味噌の香りと小麦の香りがあたりに立ち込めてきた。

 ラーメンを口に含んだ瞬間だった。僕はあまりの美味しさに倒れそうになった。これは東京で食べていた時には味わったことのないことだった。札幌で食べたサッポロ一番はやっぱりサッポロ一番だった。

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 この旅行の時点では北海道のコロナの被害はさほど酷くなく、だから僕も北海道に旅行できたのだ。今の状況では北海道には行きたくても行けはしない。無理に行ったところで自分がコロナにかかっていたら、愛する北海道の人たちに多大なる迷惑をかけてしまうだろう。だから僕はこの東京でソーシャルディスタンスを守りながら、暮らしてゆくしかない。世界からコロナが消え去り、いつか再び札幌でサッポロ一番を食べられる日がくるのを祈りながら。


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