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ビートルズのいない世界

 ヨーロッパ中に混乱を引き起こしたあの世界大戦から半世紀が経とうとしていた。ヨーロッパ各国の国民が恐れた二度目の大戦はドイツやイタリアのファシズム勢力の急激な退潮によって無事に回避された。先日イタリアのファシスト党の党首であったムッソリーニがファシスト等本部の一室で腹上死し、その連絡を受けたドイツのナチス党のヒトラーをはじめとしたゲッペルスやアイヒマンなどナチス党幹部やその他各国のファシストたちは老体をおして葬儀のためにローマへと駆けつけたが、そのニュースは世界の嘲笑を浴びた。ヒトラーは半ボケでナチス式の敬礼したまま動かず、エヴァがそのヒトラーを運んでいた。ゲッペルスに至っては老いのせいですっかり小さくなり、赤ちゃんみたいに娘夫婦に抱き抱えられている有様だった。このように大戦後の一時期散々もてはやされ、一時期はそれぞれの国の元首になると目された二人であったが、今この二人について真面目に語るのは思い出話に花を咲かせるボケた老人と頭が決定的に足りない者たちだけになってしまった。

 ここ半世紀のヨーロッパは古びたなめし革が引き延ばされたような平和で変化のない時代であった。この退屈に満ちた世界では新しい変革など怒りようがなかった。音楽はストラヴィンスキーの混沌からシェーンベルグの狂気で止まってマーラーに先祖返りし、美術はピカソやブラックが我が物顔で牛耳り、小説はプルーストやジョイスが、詩ではリルケやヴァレリーが最後の光芒を輝かせていた。今名前を挙げた芸術家の中にはとっくに鬼籍に入ったものもいる。しかしそれでも今もなお彼らが芸術の最先端であった。この半世紀、政治や技術や文化は何一つ五十年前からずっと変わらず、人々は今もなお十九世紀と変わらぬ黒い服を身に纏っていた。

 ヨーロッパの島国であるイギリスは最も変化が見られない国であった。イギリスにはフランス革命はなく、アメリカの独立運動もなかった。イギリス社会は未だ厳密な階級制が敷かれ、ワーキングクラスはアッパークラスは勿論、ミドルクラスとまともに交流する事さえ出来なかった。芸術運動は五十年経っても歴史ある先進国であるフランスやドイツやイタリア、あるいはソビエトなどの新興国家の後塵を拝し、未だシェイクスピアとディケンズの世界に生きていた。

 そのイギリスの北にある港町リバプールに四人の青年がいた。名前はそれぞれジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リチャード・スターキーという。彼らは揃って音楽好きで楽器を嗜み、週末には公園などで演奏したりしていた。曲はやラジオで流れているポップソングやフォークソングが半分で残りは自分たちの曲を演っていた。その自作曲の殆どはジョンとポールのものだが、二人の曲は演奏会では大好評で何度もアンコールが飛んだ。町の若者たちは四人に夢中になり、週末の公園の演奏会にはこぞって駆けつけた。四人のファンの少年たちはジョンとポールのどちらが天才か言い争ったり、彼らの真似をして箒をギターがわりに弾く真似をしたりしていた。そんな少年たちを大人たちは醒めた目で見ていた。子供というのはいつだってバカバカしいものに熱中するものだ。しかしあの子らもじきに気づくだろう。あれが所詮ただの暇つぶしの遊戯でしかないことに。

 そう遊戯。この平和で停滞した世界で四人がやっている事はただの遊戯でしかなかった。歌も演奏も多少は上手いがプロの歌手やプレイヤーには遥かに及ばない。ましてや偉大なるクラシックとは比較にさえならない。それは四人が誰よりもわかっていた。

「こんな事いつまでもやってる場合じゃねえんだよな。俺たちもそろそろ家庭を持たなきゃいけないんだから」

 と演奏会の後のパブの席で年嵩のジョンがこんなことをつぶやいた。そのジョンの呟きにポールは不安気な顔で尋ねた。

「ジョン、それってもうやめたいってこと?」

 ジョンは神妙な顔でポールに答えた。

「いや、まだやめないよ。今はこうやって自分の作った曲歌ってんの楽しいからさ。でもこの間街中で演奏会に来ていたらしいヤンキーのメスガキに面と向かって言われたんだよ。『二十歳超えた大人が何が君と手を繋ぎたいよ。ばっかじゃないの』ってさ。それ聞いて俺将来を考えたんだよ。いつまでもこんな事してらんねえなってさ」

「ジョン、君らしくないよ。いつもの君ならそんなバカなヤンキーに尻向けてオナラぶっかけるだろ?」

 このポールの言葉にジョージとリチャードは大笑いした。ジョンは目の前で笑う三人を呆れた顔でみてお前らは気楽でいいよと呟いた。

「ジョン、今日の君の皮肉は面白くないよ。確かに僕らのやっている事は遊びかもしれないよ。とても芸術だなんて言えないものだろう。だけどフランスの偉大な画家セザンヌだってアンリ・ルソーだって素人まがいだって嘲笑されて来たじゃないか。でも彼らはそんな嘲笑にめげずにあの現代芸術の巨匠のピカソにだって影響を与えるような偉大な芸術家になれたんだ。僕らだってそうなれるかも知れないじゃないか。だからそんな皮肉はもう言わないでくれよ。あっ、そうだ」

 とポールは話すのをやめてポケットを弄り初めて一枚のチラシを出して三人に向かって言った。

「これ美術館に置いてあったチラシなんだけどさ。今週の土曜日にロンドンで現代音楽のウェーベルンの演奏会があるんだよ。作曲家も来訪するってさ。ウェーベルンはね、新ウィーン楽派の生き残りで、ストラヴィンスキーやヴァレーズなんかよりずっ新しい作曲家なんだってさ。みんなで行こうぜ。もしかしたらウェーベルンが僕らに新しいインスピレーションを与えてくれるかも知れないぞ」

 ジョージはウェーベルンという聞きなれない名前にただ戸惑った。リチャードは一週間が八日あったら考えるんだけどとか気の利いた事を言おうとしてしたが、他の三人にガン無視された。ジョンは無表情で黙りこくっていたが、しばらくして口を開いた。

「そのウェーベルンってのがどんな奴か知らないけど、君の持ってるチラシには作曲活動半世紀を超え円熟の境地に達したとか書いてないか?半世紀もおんなじ事を延々やっている人間のどこが新しいんだい?いいかいポール。この現代に新しいものなんて一つもないんだよ。音楽も美術も文学も全ては過去の繰り返しなんだよ。みんな過去の模倣だけで食ってるじゃないか。君のウェーベルンだって同じさ。どうせ他の作曲家と変わらないつまらない代物でしかないよ」

 ポールはジョンの屁理屈にまたかと思った。しかし彼はジョンがそうは言いながらもウェーベルンなる作曲家に興味を持っている事はわかりやすすぎるほどわかっていた。だから彼は念を推すように再度ジョンを説得したのだ。

「ジョン、君の言っている言葉はわかるよ。だけど君はウェーベルンを聴きたくないのかい?君は僕がラヴェルやストラヴィンスキーを教えた時も君はおんなじ事を言っていたじゃないか。ロンドンに行こうぜ。ウェーベルンがくだらないものだったら思いっきり貶せばいいじゃないか。ウェーベルンだって歳なんだし伝説の現代作曲家を生で見れるチャンスなんて今回しかないかも知れないんだぜ」

 ジョンはポールに自分が実はウェーベルンに興味を持っている事を見透かされていると感じた。確かに自分はウェーベルンなる作曲家に興味を持っている。勿論そいつがどんな音楽を作っているのかは知らない。だが無性に聴きたい。もしかしたらその音楽が自分の中の何かを変えてくれるのではないか。とそんな期待すらあった。

「まぁ、そんなに君が聴きたがるならついてやってもいい。ジョージもリチャードも勿論ついてくるんだろ?」

 ジョージは大人しくうんと頷き、リチャードは一週間は八日あるからねと冗談を言って承諾したが、またしても皆リチャードの冗談に無反応だった。


 土曜日にジョンとポール、それにジョージとリチャードの四人はコンサートホールにいた。演奏会は終わり、作曲家のウェーベルンとオーケストラがカーテンコールで登場し生真面目な拍手が鳴り響く中、四人はようやく苦痛から解放された安心感からぐったりしていた。四人はさっきまで流れていた音楽にそれぞれの反応で応えた。リチャードは始まってからすぐに爆睡し、ジョージはトイレで暇を潰し、ジョンは足を組んだまま無表情でただステージの演奏家を見ていた。ポールだけが熱心に曲に耳を傾けていたが、しかしその彼にもウェーベルンの曲は全くわからないようだった。

 コンサートホールを出た四人は夜の道を予約を取っていた安宿までトボトボ歩いていた。演奏会中に雨が降っていたようであちこちに水溜りができている。四人とも無言であった。彼らは互いにどう話を切り出していいかわからないようだった。その時前から白いロールスロイスがやってきてジョンたちのそばにできていた水たまりを跳ねた。思いっきり水を浴びた四人は車に向かって中指を立てて怒鳴った。すると車が止まりその車の中から二人の青年が降りて来た。一人は見栄えのいいスーツを来たミドルクラスの青年で、もう一人は薄汚れた感じの四人と同じワーキングクラスの青年だった。ミドルクラスの青年は笑みを浮かべながら声をかけて来た。

「いやぁ、服を汚してしまっようですまない。僕はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生のミック・ジャガーって言うんだ。そしてこいつが僕のお抱え運転手のキース・リチャーズ。この男とは子供の頃から友人でね。その縁でこうして雇っているのさ。君たち随分フォーマルな衣装着ているね。どっかのクラシックコンサートの帰りかな?」

 ミックと名乗る青年のミドルクラスらしい洗練された態度に四人はさっきの勢いはどこへやら急に臆してしまった。

「いや、ウェーベルンっていう作曲家の演奏会の帰りなんですよ」

 とジョンが答えた。するとミックは大きな口を開けて笑った。

「ハッハッハ、ウェーベルンね。そう言えばそんな作曲家の演奏会があるってクラシック好きの友達から聞いたなぁ。まぁ、今の僕には音楽なんてどうでもいいけど。僕は昔大学に入る前にそこのキースとデュオくんで遊んだものだぜ。だけと大学入ったらもう遊んでいる余裕なんてないんだよ。いずれ僕は我が国の、いや世界の経済を管理しなくちゃいけないんだから。おっとキース彼らにハンカチを渡してあげなよ。じゃ僕は車で待っているから」

 ミックはそう言うと素早く車に乗り込んだ。キースという青年がミックから手渡されたハンカチを持って四人に近寄ってきてハンカチを渡した、その後で四人に向かって深く一礼して運転席に乗り込んだ。


 夜のテムズ川は酷く汚く思えた。四人は歩きながらこれが夕暮れだったらどれだけ美しかったろうと思った。先頭を歩いてきたジョンは突然立ち止まって言った。

「ウェーベルンってやっぱりわからなかったな。あれが本当に新しい音楽なのか?」

 それに対してポールが答えた。

「多分あれが今の音楽の中では一番新しいものなんだと思う。ただ……」

「ただ……なんだポール、正直に言えよ。俺はあんなものくだらないって思ったぜ。確かに難しい事をやっているのはわかる。だけどつまらないんだ。あれは俺たちの望んでいる音楽じゃないんだ」

「その通りだよジョン。残念ながら君の言っている事は全て正しい。あれは僕らが望んでいる音楽じゃないよ。人の心を震わせる。圧倒される。そんな音楽じゃないんだ」

「でもあの演奏聴くと僕たちの演奏なんて子供の遊戯だよ。この聴衆に僕らの演奏なんてとても聞かせられないよ」

 このジョージの言葉にジョンもポールも落ち込みため息をついた。リチャードは落ち込んだ三人を慰めようとして笑顔でこう言った。

「トゥモロー・ネバー・ノウズ。明日どうなるかなんてみんなずっと前から知っているんだよ」

 このリチャードのしょうもないジョークに三人は思いっきり笑った。

「確かにそうだ。明日、そして未来がどうなるか俺たちが一番よく知ってるよ。このしょうもなさを歌にしてやりたいぐらいにさ」

 ジョンは皮肉を込めてこう言った。その皮肉にポールがアホみたいなカモメを飛ばしてやりたいよとツッコミ、そのジョークに四人はまた笑った。夜の汚水が流れるテムズの川辺でお上りさんの四人は自分たちを待っているつまらない未来にただ笑うしかなかった。






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