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感動ストーリー 〜もし社長が契約社員になったら

 某大手企業の社長である田村昭義は常日頃から社員たちの動向を気にかけていた。社員達がコンプライアンスをちゃんと守っているか、あるいはセクハラやモラハラをしていないか。しかしどんなに気にかけても社員数五千人を超える大企業である。部下からの報告だけでは到底把握できるものではない。もしかしたらその部下が嘘の報告をして自分の目から隠しているのかもしれないのだ。しかし社員の動向をどうやって把握したらよいものか。田村は妙案を思いついた。今度長期休暇をとってしばらく会社の連中から雲隠れしよう。そして他人のふりをしてこの会社に契約社員として忍び込むのだ。そうすれば一社員の立場から社員の実態が把握できる。そして問題点が見つかったら適切に処理すればよい。彼はこう考えると早速村田義昭なる偽名を使って電話で契約社員の面接に応募した。そして自宅に帰ると妻と子供に社用が出来たのでしばらくはホテルに泊まる、と言って家を出た。田村はホテルの部屋に入ると早速履歴書を書き上げた。そしてバスルームに入った田村はそこで別人になりすますために長年蓄えていたヒゲを剃り落とした。その翌朝、目覚めた田村は古着屋で買った冴えないスーツに着替えると、カツラをつけぬまま面接に向かったのである。

 田村は道すがら通りの店の窓で自分の姿を見て思った。カツラとヒゲをとったら全くの他人に見える。そこには社長としての威厳のある自分ではなく、全く冴えない初老の男がいた。自分でさえ他人と思うくらいだ。社員は絶対に私だと気づくまい。さてこの私を見て人事は私にどう対応するか。田村は期待と同時に不安を感じた。
 面接とは勿論会社のコンプライアンスにとって重要な場面である。面接に来るのは当然社内の人間ではない。であるからもし面接に問題があればネットかなんかで会社の悪評はすぐに広まってしまう。いや、それ以前に応募者をそんなに邪険に扱うことはあってはならないのだ。自分も就活で学歴を理由にけんもほろろの対応をされたことがある。自分はその悔しさをバネに経営者として成り上がったが、しかしその会社にとっては途方もない人材を取り逃がしたことになったのだ。そうあってはならないのだ。我々は応募者に懇切丁寧に対応しその人物を的確に見定めなければならないのだ。
 田村はこうして社長ではなく、契約社員の応募者として会社に来たのだがこうして来てみるとどこか妙な感じがした。そして彼はいつも丁寧に挨拶してくる受付の女子に案内されるがままにエレベーターで面接が行われる部屋の階へと向かったのだが、どうやら対応には問題はなかった。こんなしょぼくれた老人にも社長のときと同じように対応していたのだ。彼はとりあえずは受付の女子に◎をつけた。とりあえず最初は問題はなかった。
そして田村は廊下で待たされた後に面接を受けたのだが、人事の面接官は彼の顔を見ると一瞬止まりそれから首を前に乗り出して彼を見た。田村はまさかバレたかと思ったが、面接官は平静に戻ると彼に向かって、いや失敬あなたが知り合いに少し似ていましたのでと言って謝ってきた。田村は自分の正体がバレなかったことに安心すると、面接官が席に座るように言ってきたので一礼して座った。面接にも問題はなかった。面接官は田村のいわゆる大東亜帝国以下のレベルの大学の名を見ても嘲笑しなかったし、それどころか彼の職歴を見て凄いと素直に感嘆していたのである。
 田村は就活の時その学歴を嘲笑されて大手企業の面接にことごとく落ちてしかたなく某中小企業に就職したのだが、彼はそこで才能を発揮して瞬く間にその中小企業幹部クラスとなり、さらにその才覚が各大企業の注目の的になりヘッドハンティングされまくった。しかし彼は常々自分で企業を立ち上げるのが夢だったので、最後に勤めた某大企業の本部長の地位を投げ打ってついに自らの会社を立ち上げたのである。田村は履歴書には勿論自分の会社を除いてだが、全ての職歴を正直に書いた。そして自分の会社を立ち上げてからの履歴は全て日雇い労働者であったと嘘を書いた。その経歴を最後まで読んだ面接官はこんなにすごい人が日雇いで暮らしていたとはもったいないと思わず嘆息した。
 田村の自己紹介とそれに対する面接官との質問応答があって面接は終わったのだが、彼はここでも問題はないと判断して◎をつけた。田村は嬉しかった。貧相なハゲヅラでしょぼくれた着慣れない感丸出しのスーツをきた男でも社員の対応は変わらなかった。社員の反応からして採用は間違いないだろう。田村はホテルに戻ると早速フロントにロマネコンティを注文して早すぎる就職祝いをした。

 三日後会社から田村のサブ携帯に電話があり、当社での採用が決まったとの連絡があった。田村は嬉しくなり思わずガッツポーズをとった。実はもしかして落ちたらどうしようかと考えていたのだ。そうなったら自分を落とした人事を呼び出して小一時間にわたって何故私を落としたんだと責めていただろう。ともかくこれで社員の調査を始められる。後は配属先に向かうだけだ。

 それから一週間が立ち田村は一社員として某営業所に配属された。業務は単純な事務作業だ。主にPCでデータを入力し、それと取引先や社員からの電話の取次作業だ。まあ契約社員であるから当然だがあまり責任のかからない作業である。田村は初日から三日間みっちり研修を受けそしてココでも社員のコンプライアンスチェックを行ったが特に問題はなく◎の対応だった。ここでそろそろ自分の正体をばらして終わりにしようかと彼は考えたが、しかしどんな会社でもあるように社員が優しいのは最初だけだと思い直し、ある程度勤務してから評価を下すことに決めたのだった。

 そして研修を終えた田村は通常業務に入ったのだが、彼はより細かくチェックをすることにした。とはいってもコンプライアンス以外での社員たちのちょっとしたルール違反は見逃すつもりだった。例えば社内でのおしゃべりや女性のメイクなどは見逃すようにした。人間ルールづくめでは息が詰まってしまう。ルールは破るためにあると昔の誰かも言っていたではないか。
 その代わり田村はコンプライアンスに関しては今までより遥かに厳しくチェックすることにした。もし社員が彼をハゲだと言ったら自分の正体を明らかにしてコンプライアンス違反だと処分するつもりだった。それは女性でも例外ではない。女性からのモラハラだって当然ある。彼は女性にも遠慮するつもりはなかった。女性が一言でも彼をハゲだと笑ったら同じように正体を明らかにしてコンプライアンス違反で処分するつもりであった。あとはパワハラである。自分に向かって叱ったり残業を強制したりする上司がいたら早速正体を明らかにしてコンプライアンス違反で処分するつもりだった。
 しかしである。通常業務を開始してから一週間経っても問題は何も起こらなかったのである。勿論彼は経験不足でしかもPCに疎いため何度も単純なミスをしたがそれでも他の社員はかばってくれた。そして適切なアドバイスをくれたのである。彼は周りの社員たちを見て教育が行き届いているなと感心した。やはり自分のやってきたことは間違っていなかったのだと彼は嬉しくなった。

 しかしある日大事件が起こってしまった。上で少し触れたようにPCに疎かった田村はエクセルが全く動かなくなったのに動揺して動かそうといろいろいぢくってなんとエクセル内の全データを消してしまったのである。彼は真っ白になってしまったエクセルを見て思わず大声で叫んだ。すると社員たちが駆け寄って来て何事かと彼に聞いた。彼は正直にエクセルが突然真っ白になってしまったと正直に言った。すると社員一同顔が真っ青になって彼に向かって左端のフロッピーディスクのアイコン押してないですよねと質問してきたので彼はこれもまた正直に押したと告白した。すると社員が言うではないか。このデータは取引先との大事なデータでこれは今日中に仕上げなきゃいけないものなのだと。田村は思わず頭を抱えた。もうコンプライアンスチェックどころではない。自分の凡ミスで業務に迷惑がかかるとは!彼は今の自分は社員から怒鳴られて当たり前だと思った。みんなが自分を冷たい目で見ている。ああ!報連相すら守れず勝手な判断で操作して!今の自分は罵倒されて当然だ。だが社員は怒らなかった。それどころか彼らは村田さんを助けてやろうぜ!今日は村田さんのために一晩中残業するぜ!と言って大事な用事のあるもの以外はみんな残って田村の消したデータの復旧作業をすることになった。社員は田村に向かって「村田さんは疲れているから帰っていい」と言ってくれたが、当たり前だが田村はこの会社の社長であり、自分のしでかしたミスを放っておいて帰るわけにはいかない。彼は自分も残ると言った。そして社員は一晩中データの復旧作業を行って明け方ようやく終わった。田村は今ではぐったりと寝ている彼らを見て涙があふれるのを抑えることが出来なかった。自分のミスを必死でカバーしてくれた仲間たち。彼はこれが会社と言うものだと思った。仲間でかばい合い一つのことをやり遂げる。これが常々自分が社員たちに求めてきたものであるが、彼らはそれを見事実践してくれたのだ。田村はそんな社員たちにせめて感謝の気持として社員たちの机に自販機で一番安かった水を置いた。

 田村はこうして契約社員生活を続けているうちに何だがここから離れるのが辛くなってきた。ここにいる連中は男女問わず彼にとって最高の仲間と言える存在になっていた。もう社長なんかやめてこのまま村田義昭として暮らしていこうとさえ考えた。彼は社員たちに向かってこの会社に入って本当に良かったと話した。上長も含めた社員たちはそうだよなと笑顔で答え、さらにその中の一人が続けてこんなことを言った。
「確かに社内環境はすっごくいいよな。これでもうちょっと給料が良けりゃいいだけどな」
 それに答えて別の社員が言った。
「ほんとだよ。あのカツラのクソハゲ社長がよ!俺らの給料差っ引いて毎日ロマネ・コンティなんか飲んでるんだぜ!お前カツラでしょぼいヒゲで貧相なツラ誤魔化してるくせに何気取ってるんだよ!全然似合わねんだよ!このハゲ!ギャハハッハハッハ!」

 田村はこの言葉を聞いて自分が契約社員として見てきたもの全てが崩れ落ちてゆくのを感じた。あの受付嬢の◎も面接官の◎も、そしてさっきまで感じていた今いる社員への感謝も全て。今田村の頭の中ではさっきの社員たちの言葉の渦ががとぐろを巻いていた。彼は突然絶叫すると社員一同に向かって怒鳴りつけた。
「このバカどもが!貴様ら俺を誰だと思ってるんだ!俺はこの会社の社長だぞ!お前らの名前はしっかり覚えたからな!今度お前らを社内会議にかけて首にしてやるから覚悟しろ!」


《完》


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