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うどん紀行 第四回:献身うどん ~戦国に散った実らぬ恋

 長いトンネルを抜けたらそこは雪国だった。私は列車の窓に映る雪景色を見て先程の停車駅のホーム食べたうどんの汁の味を思い出し、知らずのうちに指をしゃぶっていた。その行為は確かに指にうどんの汁の味など残っているはずはないので馬鹿げており、また切符を確認しにきた女性の車掌が引くほど酷いものであったが、しかしこれは天かす生姜醤油全部入りうどん好きである私には抑えきれない行動であった。積もった真っ白な雪はうどんを思わせ、空に舞っている雪は天かすを思わせてしまう。その光景を見ていると何故か女の柔肌を連想しエロティックな妄想が止まらなくなってしまったのだ。

 しかし私はこれから自分がどこに向かうのかを思い出し、今はそんな不謹慎な事を考えている場合ではないと首を振ってこのいかがわしいうどん妄想を断ち切ったのだった。

 今私が行こうとしているのは新潟県の上越市である。確かに新潟は北国ではあるのだが、そこは残念ながら私の向かう北ではない。何故東北に向かわず新潟に向かうのかというと、古き友人から突然の電話があったからである。

 将門公を見送り、公のうどん職人だった男の末裔のうどん屋を追い払われるように出た私は這う這うの体で古河駅にたどり着いた。そしていざ東北線で北へと行かんと切符売り場に向かった時、突然ポケットのスマホが鳴ったのだ。私はもしかしたら会社はまだ自分を見捨てていなかったと喜び勇んでスマホを手に取った。しかし通知画面を見るとそれは会社ではなく長らく連絡を取り合っていなかった友からのものだったのだ。私はかなりのがっかり感とちょっぴりの懐かしさを感じながら電話に出た。すると友人は開口一番自分が一昨日病院で余命一週間の命だと宣告された事を語ったのである。それはあまりに衝撃的な知らせであった。友人は何を言っていいかわからぬ私に向かって必死に懇願してきた。

「最後の最後にお前に会いたい。同じうどん好きの友として会ってちゃんとお別れをしたいんだ。今から来れるか?いや来れないんだったら来れないって言ってくれていいんだぜ。こうして最後に会話してくれるだけでもありがたいんだから」

「バカやろ!何を言っているんだ!俺たちはうどんのように太く長く繋がっている友じゃないか。今すぐお前の所に行くさ。で、今入院先は何処なんだ?すぐにそっちに駆けつけるから教えてくれ!」

 私はスマホに向かって必死に呼びかけた。あと一週間で我がうどん友が死んでしまう。いや、余命宣告されたのが一昨日だと話していたからもういつまで意識があるかわからない。早く行かねばならぬ。この太く長く結ばれた友人と顔を合わせずに別れるなど、天かすが半分しが入っていないうどんを食べるよりも遥かに耐えられぬ。私は友人から上越市にある差廟クリニックという所に入院している事を聞くとすぐさま上越新幹線に乗るために大宮行きの宇都宮線の切符を買った。行かねばならぬ。そして最期の時までうどんについて語らねばならぬ。私は無我夢中でホームまで駆け、そして駅員に思いっきり怒鳴られた。

 そんなわけで今北陸新幹線で上越市にあるという差廟クリニックへと向かっている。この友人とは大学の頃に知り合った。話したら彼もうどん好きなのでたちまちのうちに意気投合し二人で全国うどん行脚をするほどの仲になった。二人でうどん八十八ヶ所巡りもしたことがある。入社した会社も同じだったので私たちはよくランチでうどんを食べた。だが、友人はある日突然田舎に帰ると言い出した。地元でリゾート関係の会社を立ち上げるという。友人が故郷に帰ってから疎遠になったが、彼が事業に成功した事は風の噂で聞いていた。だがこんな事になってしまうとは。もし私もリタイアしたら彼にお金を融通してもらって悠々自適のうどん終活をおくると決めていたのに。

 私は彼と果てしなくうどんを食べまくっていた日々を思い出した。思えば私たちにとって青春とは天かす生姜醤油全部入りうどんを食べまくっていた日々そのものであり、決して若かりし日々の事ではないのだ。ああ!思い出すよ。二人で初めて本場の讃岐うどんを食べた日を。あの四国うどん八十八ヶ所巡りはなんて素晴らしかった事だろう。本場の讃岐うどんに纏わり付いた天かすと生姜と醤油。それが喉から腹に染み渡りうまさで私を天国に昇天させる。ああ!もう一度あの感動を味わえたら!

「まいう〜っ!」

 と私は思わず小っ恥ずかしく雄叫びをあげてしまったが、すぐに我に返って恐る恐る周りを見た。他の乗客と雄叫びを聞いて慌てて駆けつけたらしい乗務員たちが冷たい目で私を見ている。私はその視線に耐えられず自席に縮こまった。何という事だ。死の淵にいる友人とうどんを食べまくっていた青春時代を思い浮かべていたら、友人そっちのけであの時食べたうどんの味に恍惚となるなんて!私は病院で今か今かと私を待ち焦がれている友人に心の中で水たまりより深く頭を下げて謝罪した。

 そうこうしているうちに新幹線はもう隣の新潟駅を出てもうすぐ上越駅に着こうとしていた。この上越市に来るのは実は初めてである。友人が住んでいながら全く訪ねもしなかった自分を今更のように悔いる。だが仕方がなかったのだ。仕事は忙しかったし、いろんな所でうどんを食べなくてはいけなかったし、北日本なんて夏はつまらないし、冬は寒いだけだし、電車賃は勿体無いし。そんなわけで今まで全く来る気がなかったのである。しかし今は違う。私の心はこの凍てつく冬を突っ切る新幹線のように友人の元へと向かっていた。早く会いに行くぞ。私が行くまで死ぬんじゃないぞ!

 新幹線が上越駅に着くと私は一目散にホームの階段を降りた。実は私は新幹線の中で何度も友人にメールを送っていた。しかし返信は全くなかった。まさかもうアイツは!……と、私はもう涙目になって改札へと駆けていた。死ぬんじゃないぞ。死ぬんじゃないぞ。俺が行くまで死ぬんじゃないぞ。と、改札を抜けて出口を探していたら誰かが「よお」と声をかけてきた。私はその懐かしい声の方に空耳かと思いながら振り向いたが、見てみるとなんとそこに余命一週間の友人がにこやかに立っていたのである。

「やぁ〜!遠路はるばる来てくれてありがとうな!メール返せなくてごめんなぁ。いろいろ立て込んでいたからなぁ〜!」

 友人は余命一週間ってのが信じられないぐらい健康そうだった。東京にいた頃に比べると福々しいまでに太ってとても死を間近にした病人とは思えない。

「立て込んでいたからじゃないだろ!なんで駅にいるんだよ。電話で余命一週間って言ったのは嘘だったのか?」

 私が問い詰めると友人は真顔になって話を始めた。

「いや嘘じゃないんだ。お前に電話をかけた時は本気で自分がもう時期死ぬと思っていた。あれは一昨日の夜だった。その夜俺はホテルで商談が終わってさて家に帰ろうとしたんだがその時急な腹痛に襲われたんだ。ホテルの入り口で歩けなくなってその場にしゃがんだ俺をまるで仏のように救ってくれたのが今さっきまで入院していた差廟クリニックの医長だったのさ。ほんと奇跡だったよ。あのまま倒れていたら俺あそこで死んでしまったかもしれないんだから。だけどタクシーで差廟クリニックに連れて行かれた俺に待っていたのは余命一週間というあまりに無情な宣告だった。病でマジックみたいに真っ黒に塗り潰されたレントゲン見せられて俺は泣いたよ。院長はうちなら治せるかもしれない。奇跡にかけてみないかと二億で奇跡の療法を試してみないかと勧められたんだけど、俺はそんなものを試しても無駄だと完全にやけになってどうでも良くなっていた。それで院長の説得を無視してクリニックから処方された痛み止めの薬を飲みながらただ死を待ち、やっぱり恐怖に耐えられなくなってお前に別れの電話をしたんだ。したら急にうどんが食いたくなってきたのさ。幸いにも痛み止めで腹は痛まない。食欲もちゃんとある。いいさ、もしうどんのせいで腹が破裂して死んでも悔いはないぜと俺はこっそり脱走したんだ。それから市内に出てうまそうなうどん屋を探していたんだが、ふと駅前通りの裏に入ると年季のある木造の作りのうどん屋があるじゃないか。店の看板には『献身うどん』とある。俺はその献身って名前に惹かれてこれが生涯最後のうどんだと覚悟してうどん屋に入ったんだ。うどん屋のメニューの中にはお前も好きな天かす生姜醤油全部入りうどんが入っていたんで早速注文しそのうどんを食べたんだ。したら急に体が健康になっていくような気がしたんだ。ああ!余命一週間ってのが嘘みたいだ!俺は夢中になってうどんを啜りまくった。で、食べ終わってからふと思ったんだ。俺の病は完全に癒えているんじゃないかって。それでうどん屋を出た後近くの小児科に行って診察してもらったんだ。病が消えているって言われたんだ。俺はこのあり得ない奇跡に思わず号泣したよ。この二日間俺を絶望させた病があの店のうどんを食べた瞬間に飛んでいってしまったんだ。全く奇跡のうどんとしか言いようがない。で、話は変わるがこれから二人でその献身うどんに行かないか?同じうどん好きとしてお前にあの奇跡のうどんを食べてもらいたいんだよ。あのうどんは絶対お前も満足するだろうし、何よりお前の気づいていない病だってあっという間に治してくれるぞ。さぁ行こうぜ。俺はさっき食ったばかりだが、また食いたくてしょうがない。奇跡は何度だって味わいたいからな」

 私はうどん好きの友人が熱を帯びた口調で話す献身うどんといううどん屋に俄然興味を持った。友人を死から救った奇跡のうどんとはどんなものなのか。ぜひ行かねばならぬ。食べなければならぬ。しかしそう思いながらも彼の話に出来過ぎなものを感じた。だが友人は本気でうどんが自分を救ったと信じているし、この男が嘘をつく人間でなく、どちらかと言うと騙されやすい人間であるのはよく知っているので私は素直に彼とうどんに行く事に同意したのであった。

「うどん屋は駅を降りてすぐだ。早く行くぞ」と見ない間にすっかり弛んでしまった腹を弾ませて友人は先へと歩いた。私も早足でついて行くがデブリ切っているくせに歩くスピードが早く、こちらの息が切れそうになる。友人はそんな私を見咎めてそんな歳でもないくせに何息を上らせているんだとからかい半分で言う。私は何クソと気を張ってさらに足を早めて彼に追いついた。そうして私たちは駅を出てそして駅前の裏道にある『献身うどん』の前に着いたのだが、ここで友人は立ち止まって私に言った。

「ここが献身うどんだよ。店内は普通のうどん屋とさして変わらないが、なんか妙な緊張感があるんだ。まぁ、詳しい事は実際に自分で確かめてくれ。それじゃ行くぞ」

 確かに年季のある建物であった。ずいぶん大昔からある建物に見えた。看板の『献身うどん』という看板も誰か有名な書家の筆によるものなのか異様に達筆だった。友人はサッとのれんを潜って入った。私もその後に続いて入ってゆく。その私たちを見て店員が驚いた顔で尋ねた。

「あら、お客さん。さっきも来ませんでしたか?」

「いや、あまりにも美味かったのでまた来てしまったんだ。今度は知り合いも連れてきた。この男もうどん好きでね。三百六十五日ずっとうどんを食べているやつなのさ」

「それはまたご贔屓にしていただいて。ささっ、お連れ様もどうぞお好きな所に座ってください」

「じゃあ、カウンターに座らせてもらうかな。さっきの天かす生姜醤油全部入りうどんまた出してくれないか。コイツのも同じでね。なぁ、お前それでいいよな?」

「ああ、構わないが」

 私は友人にそう答え、店員に軽い相槌してからカウンターに座った。私はカウンターの席から店内を見渡した。確かに年季のある作りだが、全く普通のうどん屋に見えた。だが、先程友人が言ったように妙な緊張感がする。私たちと挨拶した中年の女性の店員。そしてカウンターの向こうの厨房でうどんを作っている主人の包丁や湯を切る澄み切った音。それらを聞きながら改めて店内を見渡すと、何故か馬に乗った白頭巾の武者が敵の本陣めがけて突撃している姿が浮かんでくる。これはなんぞと私が思った所で店員がうどんを運んできた。

 目の前に置かれた天かす生姜醤油全部入りうどんを見た瞬間私はその白き天かすに純白の雪を見た。ここまで綺麗な天かすは見たことがなかった。春日の山に積もる新雪を思わせるようなこの天かすに見惚れ私はいつの間にか箸でうどんを掴んでいた。うどんにつく雪の結晶のような天かす。せせらぐ小川の煌めく岩のような生姜。そして春日の雪山を五回まわしで曲がっている山道のような醤油。ああ!その宋代の水墨画のような白と黒の美に圧倒され食べるのをためらってしまう。だがこの美しいものを独占するには食べてこの舌でしゃぶりつくしかない。私はいささか背徳的な気分を覚えながら箸で挟んだうどんにむしゃぶりついた。

 うどんを一口噛んだ時、私の頭の中に再び馬上の白頭巾の武者が現れた。その武者は先程のように敵陣にまっすぐ突っ込んでゆく。頭巾の下の武者の顔の肌は雪よりも白く、そして美しく輝いていた。ああ!何者にも穢されぬ処女のようなその顔は、まさか女?私はしっとりと女の柔肌のように胃に溶け込む天かす生姜醤油全部入りうどんに恍惚となっていた。清純とはとても言えぬ汚れ切った私の心をこのうどんはその純潔さでクリーニングしてゆく。これはもしかしたらうどんが私の中に隠れている病を治癒しているのだろうか。友人の死の病を一瞬にして取り去ってしまっように。おお、一口食べるごとに体が清くなっていく。天かすも生姜も醤油も私の中の澱んだものを全て取り去って浄化してゆく。ああ!最高のうどんだ!もっと食べねばならぬ!

 私はあっという間にうどんを食べ切った。すでに食べ終わっていた友人は私に向かってどうだ美味かっただろうと聞いてきた。私は高揚して思わず声を上げて答えた。

「とんでもなく美味いうどんだよ。まさにこの北陸の都市のように厳しく強いうどんだった。俺はこのうどんを食べているとき白頭巾をかぶっていた馬上の女武者の姿が浮かんできて、体の中の悪いものを薙ぎ払ってくれたように感じたんだ。さっきお前がうどんを食べた途端に一瞬にして治ってしまったって話した時、正直に言って怪しいものだと思ったが、今この天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてお前の言っている事が全て正しいってわかったよ。一体このうどんは何なんだ?白頭巾の女武者を呼び出し、あらゆる病を一瞬にして治癒するこのうどん。俺はこのうどんの事を知りたい!」

「やはりお前もこのうどんに白頭巾の女武者を見たか。さすが生涯のうどん友だ。俺もこのうどんに女武者を見た。女武者が馬で俺の病の本陣まで駆けてきて病の大将の首を刎ねる姿をはっきりと見たんだ。このうどんには何かがある。コイツは他のうどんとは明らかに違う!」

 というと友人はまっすぐ主人の方を向いて言った。

「御主人、突然ですがこのうどんについてお尋ねしたい。このうどんは一体どうやって作っているんですか?中国秘宝の漢方とか薬味とかそんなものを入れているんですか?」

 突然友人に質問された主人は呆気に取られた顔で友人と私をみた。友人はその主人に向かって畳み掛けるように言葉を続けた。

「どうしてこんな質問するのかっていうと、実は私一昨日に腹痛で倒れて運ばれた先のクリニックで余命一週間の宣告受けたんですよ。それで死ぬ前に大好きなうどんを食べようとさっきここに来たんです。そしてこの店のうどんが生涯の食べ納めだって思って噛み締めるように食べました。食べていると突然頭に馬に乗った白頭巾の女武者が現れて病をぶった斬る映像が浮かんできたのです。一口啜るごとに元気になっていってそれで食べ終わった頃にはもう病は完全に吹き飛んでいたんです。僕はここを出た後医者に診てもらったんですよ。したら医者は言うじゃないですか。あなたは軽い胃炎にかかってるだけだ。処方する薬を飲めばすぐに治るって!驚くじゃないですか!余命一週間の病があなたのうどんを食べたらただの胃炎にまでなっていたんです。だから知りたいんですよ!このうどんのことを!」

 うどん屋の主人はこの友人の問いにただ唖然としていた。あまりにも突飛な質問なのでなんと答えていいかわからないようであった。私の気持ちも友人と同じであった。このうどんの正体を絶対に知りたかった。それで私も重ねて主人に問うた。

「ご主人、私もこの天かす生姜醤油全部入りうどんの事が知りたい。私もうどんを食べている時彼と全く同じ経験をしたのです。勿論お店の事情で話せない事はおありでしょう。だけどそれでも話せる範囲内でいいから聞かせてくれませんか?」

 この私たちの問いにうどん屋の主人は考え込んだ。そしてしばらくしてからやっとその重い口を開いた。

「いや別に話せない事はないんです。うちの天かす生姜醤油全部入りうどんはありふれたかけうどんでしかないし。ただ私は話の内容にびっくりしたんですよ。失礼だけどお客さんが途方もない勘違いをしているのかと考えたりしたんですが、でもお客さんの話でふとうちの店に代々に伝わる話を思い出したんです。お二方、この話は少しばかり長くなりますがお時間は大丈夫でしょうか?」

 問題ないと私たちはきっぱりと答えた。そして主人を見つめ今か今かと話の始まるのを待った。

「実はうちの初代はあの上杉謙信公お抱えのうどん職人でありまして」

 私は主人から上杉謙信の名を聞いて何故か背中にゾワッとするものを感じた。これはきっと長年うどんを食べ歩いて身につけた一瞬の勘だろう。私は聞き漏らすまいと主人の話に耳を集中させた。

「最初に言っておくと先祖からの言い伝えによれば謙信公は女性だったそうです」

 上杉謙信が女性?あの謙信女性説は本当であったのか。という事はあの白頭巾の女武者はやはり謙信か?と私が一人推測していている横で友人は主人に向かってほおほおと何度も相槌を打ちいきなりデカい声で喋り出した。

「へぇ〜!上杉謙信が女だったなんて事私初めてききました。あんなむさい肖像画のおっさんが女だったなんてねえ。だけどそれとうどんに何の関係があるんですか?」

 私は黙って人の話を最後まで聞けない友人に心底腹が立った。自分のためにわざわざうどんの事を話してくれている人を茶化すような真似をするとは!大体この男はうどん以外の事には全くの無知でしかも空気を読むことが出来ないから意図せず時に人を苛立たせる。だから私は友人を黙らせようと思いっきり一喝してやった。

「お前少しは口を慎まんか!今自分の命を救ってくれたご主人がお前のためにわざわざうどんについて語ってるとこなんだぞ!」

「いえいえいいんです。別に深刻な話でもありませんから」

 うどん屋の主人はこう友人を庇ってにこやかに微笑んだ。その主人に友人は話を邪魔した事を詫びた。場が落ち着いたのを見てか主人がさっきの続きを話し始めた。

「その謙信公は若い頃戦国の世を憂いて出奔してしばらく寺に隠遁していた事があります。うちの先祖は、その寺にいたうどん職人だったのです」

 やはりそうかと私は思った。このうどんには妙な緊張感がしているとずっと思っていたのだ。今私と友人が食べたうどんが謙信に謂れのあるものだとすると、うどんが醸し出していた緊張感は間違いなく謙信に関わるものだ。献身なんて店だから何かいわくがあるんじゃないかと勘付いていたが、やはり上杉謙信が関わっていたのか。

「私の先祖は毎日謙信公にうどんをお出ししていたのですが、ある日の事いつものように厨房でうどんを作っていたら人の気配に気づいたそうです。背中のあたりからふんわりと人肌の温かさと、そして白粉のかすかな匂いが漂ってきました。祖先はその匂いにハッとして振り向いたのですが、その拍子にまな板にあった天かすを……」

「うどんにこぼしてしまったのですね」

 この言葉を思わず口に出した後でハッと口を覆った。ああ!また口に出してしまった。今主人と友人が私を冷たく睨みつけている。しかし私はただ事実を口に出しただけだ。大体それは今まで尋ねたうどん屋の連中が話していたことではないか。主人の先祖も同じようにうどんに天かすを落としたのに違いないのだ。

「お前さっき人に人に口を慎めって言ってそれかよ。全く呆れるぜ。いくら主人のご先祖がうどんに天かすを落としてそれが天かす生姜醤油全部入りうどんの誕生に繋がったって事がわかったからってガキみたいにはしゃぐんじゃねえよ!」

「いえ、それは全く違います!」

 と主人が我々を諫めるかのような調子で言った。私はこの思わぬ否定にかなり衝撃を受けた。

「確かに先祖は天かすをこぼしそうになりました。ですが済んでの所で止め、そして謙信公に向かって平伏して許しを乞いました。しかし謙信公はその先祖に向かって笑って仰せになられたのです。『お主が謝ることはない。突然厨房を尋ねたわしのせいじゃ。わしはお主がどんなふうにうどんを作っているのか知りたくてここに来たのじゃ。声をかけようと思うたが、その時ふとこの白き天かすに見とれての。それで我知らずついお主のそばにきてしまったのじゃ。しかしこの白き天かす。真に美しい。のうお主。この天かすうどんにかけてくれぬか?』それを聞いた先祖は天ぷらの残り滓の天かすなど殿の食べるものではありませぬ。これは我らのような下賤のものが天を夢見てたべるもの。すでに天におわす殿には差し上げられませぬと諌めました。しかし謙信公は先祖に向かってこう仰せになったのです。『たわけ、何が下賤のものの食べ物じゃ。この天かす、あの春日の山に降り積もる雪のように美しいぞ。お主この天かすをうどんに入れて春日の雪山を作れ。それと雪だけでは寂しいからそこの生姜と醤油も入れよ。生姜は琥珀のように、醤油は春日の山を流れる川のように五回まわしでかけよ』と仰せになりました。先祖は謙信公に命じられた通りにうどんを作りましたが、そのうどんはなんと美しかった事でしょう。ご先祖は自分で作ったこのうどんにすっかり見惚れていました。謙信公もうどんの美しさにその白い肌を熱らせて先祖に言ったのです。『お主、ワシと一緒にこの天かすと生姜と醤油が全部入ったうどんを食わぬか』先祖はその誘いを受けてどれだけ喜んだことでしょう。ああ!まさか謙信公と共にうどんが食べられるなんてと!」

 ここまで語ったところで主人は話を止めた。そしてため息をひとつしてから再び口を開いた。

「二人で食べたその天かす生姜醤油全部入りうどんはどれほど美味しかったのでしょうか。ご先祖はあまりのおいしさに涙さえ流したと言います。そして謙信公です。先祖によるうどんを食べた途端謙信公は眩くばかりの白木光を発したといいます。謙信公はうどんを食べ終わるとすくっと立ち上がり、『わしはこの天かす生姜醤油全部入りうどんに仏を見た』と言われ、そして今すぐ城に帰ると仰せになられたのです。『今わしは毘沙門天より戦国の世に蔓延る無法者を討ち果たせとのお告げを受けた。今より城に帰還し世を乱す無法者共を討ち果たす!でお主。わしと一緒に城に来ぬか。毘沙門天のお告げを果たすにはお主のうどんが必要なのじゃ!』この謙信公の仰せを聞いて先祖は天にも昇る気持ちになったそうです。謙信公とこれからもずっと一緒にいられると。それからの謙信公の活躍はあなた方もよく知る所でしょう。毘沙門天の生まれ変わりと語り継がれるその武勇で世を乱す悪党共をバッタバッタと切り捨てていきました。うどんからこの力を得た謙信公は先祖に感謝の言葉を述べたそうです。お主の作った天かす生姜醤油全部入りうどんを毎日食べているから無敵なのだと。ああ!先祖はその言葉を聞いてどれほど感激したでしょう。謙信公が私の作ったうどんをこれほど褒めてくださるとは。そしてこう願ったことでしょう。いつまでも謙信公のためにうどんをお作りしていないと。もう正直に話しましょう!先祖は謙信公にずっと恋していたのです。お寺に入ってきたまだ少女の面影を残した謙信公に一瞬にして夢中になったのです。だが、この先祖の想いは謙信公に届きはしませんでした。最も謙信公と親しんでいたのに。うどんで互いの全てを打ち明けあったのに。だけど……」

 切ない話だがこれは謙信が背負った宿命ではないかと考えた。男を演じるためには恋など切り捨てねばならぬ。重臣は勿論ましてやうどん屋に恋したなどと家臣や他の大名にバレたらたちまちのうちに国が崩壊するだろう。私はうどん屋を憐れに思ったが、その時主人はいきなり衝撃的な発言をしたのである。

「だけど謙信公には別の想い人がいたんです。その男が誰かと言うと、皆さんもご存知のあの武田信玄です!」

 なんと謙信は武田信玄が好きだったのか!私と友人はこの驚くべき話を聞かされて思わず互いを見た。私は思わず立ち上がって主人に聞いた。

「まさか、上杉謙信が武田信玄を好いていたとは。しかし謙信はどうして信玄を好きになったのですか?それにいくら戦国時代でも普通好きな相手と何度も戦をするものでしょうか」

「それは謙信公自ら語っています。謙信公は出家していた時とある温泉につかっていた時運悪く信玄と鉢合わせしてしまったのです。一度として男に見せぬ裸体をまさか親不孝の極悪人の信玄に見られるとは。謙信公は怒り狂いましたが、その謙信公を見て信玄は下品な笑みを浮かべたのです。この屈辱を生涯謙信公は忘れなかったそうです。だが先祖は謙信公の信玄への憎しみをぶちまけるその熱っぽい態度に信玄に対する恋を読み取ってしまったのです。『悪逆非道の信玄だけは打ち果たさねばならぬ。奴こそこの戦国の世の元凶。奴の首を毘沙門天に捧げ天下を安堵させねばならぬ。信玄こそ!信玄こそ!災いそのものじゃ!』と泣きそうな顔で信玄への憎しみをぶちまける謙信公を先祖はどれほど辛い想いで見つめたでしょうか。そこに会ったのは憎しみとそれ以上の愛だったのですから。謙信公は頭からひと時も信玄が離れぬと語りました。奴を打ち晴らさねばこの忌まわしい妄念は断ち切れぬ。そうことあるごとに語る謙信公に先祖は実らぬ恋の切なさを感じたでしょう。いっそ謙信公が信玄公にラブアタックをすれば先祖だってあきらめの心が点いたでしょう。だが謙信公は不幸なことに恋愛というものをまるで知らなかったのです。だから自分の中の信玄に対する思いを恋愛だと気づくことが出来ず、ずっと純粋に信玄を激しく憎んでいるせいだと思っていたのです。その誤解の果てに謙信公は信玄に五度の戦を挑み、恋を実らせる代わりに沢山の命を犠牲にしてしまったのです」

 それは現代ではまずあり得ない壮絶なまでの悲恋物語であった。戦国の戦こそが全ての時代で己が心に目覚めた恋を恋であることすら気づかず、思い人を打たんとしていた謙信。それはあまりにも哀れであった。しかし謙信は最後まで進言への思いに気づかなかったのか。

「しかし五度に渡る信玄との戦が終わった後、謙信公は変わったのです。四度目の合戦で信玄と相対したのがきっかけなのでしょうか、謙信公は合戦以降信玄の事を全く話さなくなったのです。先祖はこの謙信公を見てようやく安心したのです。謙信公に仕えてから嫁も取らずにひたすらうどんを作りづけた日々がようやく報われたと喜びました。しかしそれは先祖の五回だったのです。謙信公は信玄が今川の塩止めに苦しんでいると聞いた瞬間取り乱して家臣に向かって今すぐ信玄に塩を送れと命じたのです。勿論謙信公はその際秘められた思いを決して口にしませんでした。ですが動揺し切ったその態度から謙信公の信玄への思いが溢れ出ていたのです。謙信公はすぐさま信玄に塩を送りました。その時に謙信公は貴公がいつまでも健やかであるようにと願いを書いた御文と共に先祖が作った天かす生姜醤油全部入りうどんも送ったのです。だけどこれが悲劇の始まりでした。信玄はなんと塩だけもらって天かす生姜醤油全部入りうどんを突き返してきたのです。信玄はその返礼文にこう書いていました。『塩はもらっておくけど天かすとかがたくさん入った変なうどんはいらないよ。キモいだけだし。大体麺ものなら信州そばがあるからこんな不味そうなうどんはいらないよ。』この文を読んで謙信公がどれほど傷ついたでしょうか。その後謙信公は全くうどんを食べなくなりました。恋する人間に自分の好きなうどんをバカにされたショックでうどんが厭わしくなってしまったのです。気性の激しい謙信公はすぐさま先祖をクビにして城から追放してしまいました。先祖は当然これを深く悲しみました。しかし彼は謙信公への想いを断ち切りここにうどん屋の開いたのです。その名も『献身』とそれが先祖のかつての主君に対する餞だったのです。それからも謙信公は無敵の活躍で悪党どもをバッタバッタと切り捨てていましたが、そこにはもう天かす生姜醤油全部入りうどんを食べて戦場を駆け回っていたころの輝きはありませんでした。それどころか天かす生姜醤油全部入りうどんを食べなくなったことで病に侵されてしまったのです。信玄が亡くなった時公が何を語ったか先祖は知るすべがありませんでしたが、きっと謙信公はその報を聞いても無反応だったでしょう。彼女の信玄に対する思いはあの地元の信州そばを持ち上げて謙信公と先祖の天かす生姜醤油全部入りうどんを腐したあの文を読んだときに終わってしまったのですから」

 ここまで話したところで主人は感極まって言葉を詰まらせてしまった。主人は手拭いで涙を拭きながら私たちに謝った。私もこの戦国にあった悲恋物語に涙を抑えられなかった。そば好きの男にうどんをバカにされたショックでうどんを嫌いになってしまった女の悲しみ。あの無敵と言われた謙信もただの恋する女であったのか。その時隣の友人が両手を上げ思いっきりあくびをした。

「あっ、すみません。ついあくびをしてしまいまして。で、お話はもう終わったんですか?」

 ああ!最悪のタイミングでこいつの悪いところが出た。せっかく話が完結へと向かっていたのに、これじゃすべてぶち壊しだ。この男は本当にうどん以外の事にまるで興味がなく、歴史などにとんと疎いのだ。私は悲しい顔でうつむいている主人に向かって友人のバカさ加減をあやまり話の続きをせがんだ。

「はぁ、だけどもう私が喋り下手なせいで随分話が長引いてしまったし、これ以上話したらお連れ様のお気を悪くさせはしないかと……」

「大丈夫です!このバカには勉強が必要ですから!」と私はまず主人に謝りそして友人をきつく怒鳴りつけた。

「おい、お前いい加減にしろ!元々ご主人さんはお前のためにこの店の天かす生姜醤油全部入りうどんの歴史を教えて下さってるんだぞ!ちょっとは真面目に聞け!」

 この私の説教を聞いて友人は目をぱっちりと開いて慌てて主人に謝った。そして彼も頭を下げて主人に話を続きをお願いした。主人は私たちに向かってそうですかと答え、では最後は手短にまとめますと言って再び話し始めた。

「それから先祖と謙信公は長い間会うことはなかったのです。会わなかった間に世は変わっていきました。信玄の死亡。彼に代わって現れた大悪党織田信長。謙信公は信長をはじめとした悪党どもをうち果たさんと以前にもまして動いていたのです。ですが、天かす生姜醤油全部入りうどんを食べずにいたその体は完全にボロボロでした。信長と初めて戦い、それを見事撃退し、そのまま討ち果たさんとした時、突然謙信公は倒れてしまいました。その夜でした。先祖のうどん屋に謙信公から使いの者が来たのです。使いの者は先祖にこう言いました。『殿はお主の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたがっている。早く支度を済ませ城に参上せよ』先祖はその使いの者の顔の表情の深刻さから謙信公が余命いくばくもないと悟りました。先祖は寺で謙信公に初めて天かす生姜醤油全部入りうどんを作った日の事を思い出しながらすぐさま城に向かって駆け出したのです。そして城に入るとさっそく天かす生姜醤油全部入りうどんを作り自らどんぶりをもって病で臥せっている謙信公の元に参上したのです。ああ!なんとお労しい。しばらく見ぬ間にこんなにもやせ衰えてしまうとは。ああ!あの日切腹覚悟で謙信公の口にうどんを放り込めばよかったのに。謙信公は先祖がどんぶりを持っているのを見て起き上がり、そして箸でうどんを掴んで啜ったのです。ああ!その瞬間家臣たちの間にざわめきが起きました。やつれ切った謙信公の顔にみるみる生気が沸いてきたからです。謙信公はうどんを食べ終わるとどんぶりを床に置いて突然先祖に向かって深く頭を下げました。そしてあっけにとられている先祖に向かって『わしはお主になんて酷いことをしたのだ!お主のうどんがあったからワシはここまで活躍できたのに!それなのにそば好きの信玄などに心を奪われてしまって!私はお主に謝る!この通りじゃ!』先祖はこの自分に謝るか弱き女を抱きしめてやりたかったといいます。だけど彼はそれに耐えてただ謙信公に向かって伏したのです。それから間もなくして謙信公は亡くなりました。謙信公は最後まで天かす生姜醤油全部入りうどんのような美しく生きたのです。先祖はそれから謙信公を思って生涯うどんを打ち続けました。そしてこの天かす生姜醤油全部入りうどんを謙信公への想いとともに子孫に託したのです」

 素晴らしい話であった。まるで大河ドラマを二年分にしたような圧倒的なうどん愛に満ちた物語であった。友人でさえ感動して主人に向かって拍手をしていた。私に至っては歓喜のあまり何度もブラボーと声を張り上げた。ここで私はこれから行くであろう北の地の情景を思い浮かべたのである。きっと北の地にもこのような大河ドラマになりそうなうどんストーリーがあるはず。早く行かねばならぬ、と私は思った。行かねばならぬ、北の地が私を呼んでいる。私は友人に向かって言った。

「すまない。私はこれからうどんを求めてここより北へと向かわなきゃいけないんだ」

「いや、いきなり突然どうしたんだよ。せっかくこうして見舞いに来てくれたんだしさ。今日は家に泊まっていけよ」

「いや」と私は頭を横に振った。

「うどんが俺を待っているのさ」

 そう言うと私は友人に向かって背を向けてそのままドアの方に向かった。その私を友人が引き留めようと声をかける。

「おい、自分のうどん代ぐらい払え。俺は奢る気なんかねえぞ!」

 その後私は主人に勘定を払ってから逃げるように店を出た。目の前は謙信の心のように真っ白な雪景色だった。人の心もこのように真っ白であればいい。飯代ぐらいおごってくれるような清き心を持つ友人ばかりであってほしいと思い、そしてまだ見ぬ北の地を思った。北の地もこのように白に雪が舞っているのだろうか。その地にあるうどんはどのようなものなのか。私はそれを期待しながら駅へと向かった。

追記:その後一週間ぐらいたって全国紙に友人が担ぎ込まれて数日入院していたという差廟クリニックの院長以下そこに勤める医師と職員全員が逮捕されたというニュースが載った。なんでも彼らは通院してきた患者や、友人のような体調の悪そうな人間を見つけてあなたは余命一週間だと嘘の宣告をし怪しげな治療をしては法外な治療代を請求していたらしい。その怪しげな治療というのもまた下剤をたっぷり飲ませるというしょうもないものだったそうだ。


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