それぞれの持つ言葉の違いを
それぞれの持つ言葉の違いから齟齬が生じて、コミュニケーションを難しくさせる。と、思う。
難しい、のは、自分の持つ言葉が絶対的なものになり、相手の言葉に心のチャンネルを合わせてかかわろう、と思えないからかもしれない。
単純な言語の違いであれば、私はそれが話せないから、で終わってしまうかもしれないが、たとえば知的障がいの方、自閉症、精神、認知、重心等々、独自の言葉や表現を持つ方の場合、人によっては、あぁその人は〇〇だから、のように、初めからコミュニケーションを遮断? 諦め? 切り捨てる? しない? 人もいる。そもそも、そんな人がこうした仕事に就くかはどうなのかしら、とも思うけれど、中にはいる。
こちら側…‥という表現も、もしかしたら上から目線なのかもしれないけれど、こちら側、支援をする側から見たときに、たとえそれが、おうむ返しであったり、まったく話せなかったり、しても、何かしら思うことはあり、感じるものはあり、何か、何か、伝えたいものがあるのではないか、と。そう思う。
それは動きであれ、表情であれ、体調であれ、何かしらに影響を与えるし、それもまた、表現のひとつにも思う。
もちろん、支援者だって人である以上、相性もあると思うし、中にはどんな人にも好かれてしまう人もいるけれど、なかなか、そうもいかない。
けれど、だからといって、かかわらなくていい、というわけでもない。今は、私がかかわるべきではない、というときはあるかもしれないけれど。
その人の持つ言葉がある。その人それぞれの言葉がある。私だって、どちらかと言えば伝えることは苦手だ。それは、きっと、同じこと。
だからこそ、伝えること、を諦めてしまわないように。伝えたって何も伝わらない、なんて、無力さや絶望を与えないように。
楽しい、って。笑顔でいられる、って。そんなふうに、過ごせるように。
かかわりたいな。
Ohzaさんのこちらの記事を読んで、改めて、そうですよね、って思いました。
いつも、すてきな言葉をありがとうございます。
読んでいて楽しいですし、参考にもなるし、まだがんばれる、がんばろう、って思える。
いつも、勝手ながら言葉を伝えさせていただいております。ありがとうございます。