naru

落ち穂拾い。

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最近の記事

深淵で軋む 『王国(あるいはその家について』

「我々はいったい何を見せられているのか?」 そんな戸惑いから映画の組成に順応するまで、すこし時間がかかる。 フィクションなのか、リハーサルの記録なのか。スクリーンでは、こまぎれにされた「読み合わせ」の光景が執拗なまでに繰り返される。 まったくのリプレイもあれば、バリエーションもある。同じシークエンスでも、カットのタイミング、切り取るフレーム、演じられる場所や時間、俳優たちの配置、さらには演技そのものの質も変わっていく。 ある帰結が冒頭で提示されてはいるが、そのあとに続

    • エッグプラント・エレジー

      「氷とソーダ、あとタマふたつ」 カウンター越しにキンミヤのキープボトルを受け取りながら、心もち声を張ってマスターに伝える。おしぼりで手を拭き、ついでに顔をぬぐい、壁に掛けられたホワイトボードを眺めながら本日の組み立てに考えをめぐらせる。 マジックペンでみっちりと書き込まれた本日のおすすめ。筆頭には「朝〆ひらめ刺し」「ほや酢」が燦然と輝いている。まずはスタメン入りだ。梅雨の真っ只中なのに、お品書きの世界はすっかり夏の様相である。「マカロニサラダ」「野沢菜漬け」などの盤石の1

      • 黄昏の『一人称単数』

        某日、読書会のために『一人称単数』を読み返してみた。やはり難解さとともに凄みを湛えた、一読しただけでは「分かりにくい」短編集である。 ここでなされているのは、いわば人生の黄昏(作中の季節はおおむね秋、しかも晩秋である)を迎えた一人の作家の来し方を見つめなおす作業であり、タイトル通り「僕」という一人称単数の棚卸し的な側面もある。一人称からスタートし、長い孤独な道のりを経てやがて「書きたいものが大体書けるようになった」と語るまでに円熟した作家が、晩年を見すえ

        • ねずのばん

           人生最大のピンチが訪れたそのとき、「きなこ」がやってきた。 「ここです、ここです」  あまりにもかそけき声だったので、はじめは空耳かと思ったのだが、足元で小さな影が跳びはねているような気がして見下ろすと、靴の上に一匹のネズミが乗っていた。 「お忘れですか? きなこです」  ネズミは後足で器用に立ち上がると、私に向かって右手をひらひらと振っている。    かつて祖父の家には小さなビニールハウスがあって、奇抜な形をしたサボテンや色とりどりの熱帯植物であふれていた。むっとする温

        深淵で軋む 『王国(あるいはその家について』

          あなた(たち)の人生の音楽。

          「うたは闇だ。バンドは光だ!」 ボーカルの椎木知仁が叫ぶ。 数年前、渋谷の小さなライブハウスのフロアには、新潟から駆けつけたのであろう制服姿の高校生が混じっていて、彼女たちが背負っていた色とりどりのデイバッグを今でも憶えている。あぶなっかしいMCからグズグズにくずれていったライブのことも。 最初のフルアルバム『narimi』がリリースされ、1曲目の「アフターアワー」を聴いたとき、「ひょっとして」という予感を抱いた。この音楽はもっと広くずっと深く届くのではないか。その手ごた

          あなた(たち)の人生の音楽。

          面白がる、という才能。(前編)

          平成30年の12月某日、文京建築会ユースの栗生はるかさんからのお誘いに便乗して、路上観察家・林丈二さんの本郷まちあるきに参加させていただきました。暖冬にしてはめずらしくぐっと気温の下がった一日でしたが、とても刺激的だったので、忘備録的にざっくりまとめておきたいと思います。 当日は東大の赤門前という、いかにも本郷散歩っぽい場所からスタート。さっそく林さんから本郷界隈の古地図コピー(明治40年調査)が配られます。さらに、当時の資料がまとめられた特製お宝ファイル(大判!)も登場。

          面白がる、という才能。(前編)

          事件はGoogle Mapで起こってるんだ!

          「さて、ふつうの探偵物ならこのあたりでいよいよ現地に飛ぶわけですが…。われわれはデジタル歴史探偵ですから、ここで現地に【飛ばない】! はい、それではストリートビューで見てみましょう」 竹中朗さんの『デジタル歴史探訪術入門・日本編』を聴講しました。巷間を騒がせた謎の巨大前方後円墳(?)を端緒に、条里、山城、廃寺、御土居、生麦事件「現場」、芝浜(落語で有名な)、吉原、塹壕など、現存しない(あるいは忘れられた)歴史の痕跡を、さまざまなデジタルアーカイブを駆使して発掘(幻視にも近い

          事件はGoogle Mapで起こってるんだ!

          誰が映画を殺すのか。

          『三度目の殺人』をようやく観た。世界中どこに出しても恥ずかしくない意欲作である。いや、むしろ日本国内より海外の方が(相対的に)より素直に受けとめてくれるのではないだろうか。 「心理サスペンス」と謳われてはいるが(まあPRとしてはそれが正道であろう)、あくまでもそれは手法であって、曖昧模糊とした虚実皮膜のあわいから浮かび上がってくる「問い」こそが主題である。そして本作の問いかけは重い直球であるがゆえに、所謂サスペンスの解とカタルシスを求める人たちを呆然とさせてしまう。 終劇

          誰が映画を殺すのか。

          伊部来訪記

          今回の岡山出張、打ち合わせ終了後、いつもよりは体力的に余裕があったので、行きの新幹線でテキトーに当たりをつけておいた小旅行を敢行してみました。ちなみに、出立そうそうイヤホンが断線し、途中ネットにもあまりつながらなかったので、音からも情報からもむしろ自由だった。 土曜は倉敷泊。翌日は岡山に戻り、備前焼の里と呼ばれる伊部(いんべ)まで。岡山から伊部までは赤穂線で40分ほどかかり、川を渡るたび景色はのどかになっていく。乗り合わせた中学生たちの会話を聞くともなしに聞きながら、ゴトゴ

          伊部来訪記

          辺土の風景 #1

          その絵と出会ったのは、凛とした冷気に街が包まれた冬の午後だった。正確には「囚われてしまったのは」と言うべきかもしれない。その日、僕は仕事の打ち合わせを終えて銀座の街を歩いていた。寒さのせいか通りには人の姿がほとんど無かった。東京にしてはめずらしい、ピリッと肌を刺すような乾いた空気を潔く感じたのを憶えている。そのとき、ふと目の端を何かが掠めていくのを感じた。それが何なのか、いったい何を意味しているのか、それを把握するまでに数十メートルは歩いていたと思う。タイムラグのある二つの地

          辺土の風景 #1

          波のように。花火のように。

           映画館を出てからしばらく放心していた。ただウェルメイドなだけではない。マスターピースとして語り継がれるべき作品である。  瑞々しいローポジション、シンメトリーなフレーム、風のようなドリー、繊細なイマジナリーライン、指示語によるダイアローグ。かつて小津や溝口が体現した技法を昇華して、さらには現代版「陰翳礼讃」を思わせる薄陰りの美と質感にまで到達した。  ここで描かれるのは「喪のこどもたち」であり、生と死がシームレスにつながることの受容であり、生きるよすがとしての孤独である

          波のように。花火のように。

          P's Bar

          「合言葉は?」 ドア越しに無機質な声が響いてくる。僕はサングラスのブリッジを苦労して押し上げながら、その日27回目になる溜息をついた。 「だから、合言葉なんて知らないんだよ」 赤錆の浮いた鋼鉄製のドアには細長いのぞき穴が穿ってある。まるで禁酒法時代のもぐりのバーみいだ。 「何かヒントをくれよ」 足下に転がった煙草の吸い殻をつつきながら、僕は溜息まじりに頼んでみる。28回目。 「それは、北極にはいない」 はじめてのヒントだ。北極? 「わからない。北極にいないも

          かぼちゃ姫

          そうなのだ。この頑なさは私ゆずりなのだ。 色とりどりのクレヨン。ままごと用のカップやスプーン。ぬいぐるみのうさぎコレクション。リビングの床いっぱいに娘のおもちゃが散らばっている。 「いま片づけるところだったのに」 思わず溜息をついた私を見上げながら、ふくらんだ頬に悔し涙がこぼれる。それから30分。カラフルな爆弾が炸裂したかのような床にぺたんと座りこんだまま、彼女はひたすら悲嘆に暮れている。なだめすかしてみても無言でいやいやするだけ。こうなったらもうお手上げ。いつもの持久

          かぼちゃ姫

          彼女のポトフ

          はじめてポトフを食べたのは、大学生の時だった。風邪をこじらせて寝込んでいた僕のために、当時つきあっていた彼女が作ってくれたのだ。 ひとり暮らしのアパートの狭い台所。研いだことのないなまくら包丁を使いながら、心もとない手つきでジャガイモの面取りをしている彼女の後ろ姿を、僕は熱に浮かされた意識の片隅でぼんやりと眺めていた。しばらくしてできあがったポトフは、どことなく心もとない味付けだったけれど、野菜の甘みがやさしかったことを憶えている。 それから1年も経たずに、些細な行き違い

          彼女のポトフ

          彼女のペンギン

          「私、アラスカに行きたいの」 それが彼女の口癖だった。 そのフレーズを耳にするたびに、 僕の頭の中はなぜかペンギンでいっぱいになった。 流氷の上にたたずむ無数のペンギンたち。 北極にペンギンが棲んでいないことを知ったのは、 彼女と連絡を取れなくなった頃だった。 今でもときどき、ひとりで酒を飲みながら ぼんやりとペンギンのことを考える。 ところで、 彼女はアラスカへ行けたのだろうか。 からん、とグラスの中の氷が答えた。 ©Naruhide Nakamur

          彼女のペンギン

          春・猿・狂言

          春だ! 笑いだ! 狂言だ! …というわけで、 「第15回 吉次郎狂言会」のフライヤーを作らせていただきました。 イラストレーションのモチーフは「小猿」の面。 今回は「靭猿(うつぼざる)」という、 可愛らしく萌え〜でおめでたい番組も上演されるそうです。 お花見も一段落したし、ポカポカ陽気に誘われてひと笑い、 お散歩がてらにいかがでしょう? 【nu_works】

          春・猿・狂言