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P's Bar

「合言葉は?」

ドア越しに無機質な声が響いてくる。僕はサングラスのブリッジを苦労して押し上げながら、その日27回目になる溜息をついた。

「だから、合言葉なんて知らないんだよ」

赤錆の浮いた鋼鉄製のドアには細長いのぞき穴が穿ってある。まるで禁酒法時代のもぐりのバーみいだ。

「何かヒントをくれよ」

足下に転がった煙草の吸い殻をつつきながら、僕は溜息まじりに頼んでみる。28回目。

「それは、北極にはいない」

はじめてのヒントだ。北極? 

「わからない。北極にいないものなんていくらでもある」

そう答えると、ドアの向こうで苛立ちの目盛りがひとつ上がったのがわかる。そういうのって、ちゃんと伝わってくるのだ。

「それは、アザラシのことを憎んでいる」

「あざらし?」

「そう、どんなに深い海溝よりもずっとね。我々の海は奴らへの憎しみで満ちているんだ」

僕は北極にはいなくて、アザラシのことを強く激しく憎んでいる存在について考えをめぐらせてみる。でも、残念ながら僕の頭の中では真っ白な地球儀がくるくると回っているだけだった。

「それは、空は飛べないけれど、海では自由に泳げる」

沈黙に業を煮やしたのか、頼んでもいないのに次のヒントが提供された。しかし、頭の中の空白の大陸には何の兆しもあらわれることはなかった。昔からなぞなぞは苦手なのだ。

「だめだ。わからない」

溜息とともに静寂の重さが増していく。29回目。

そのとき、僕は背後に妙な気配を感じる。大きな樽を引きずるような音もかすかに聞こえてくる。

「合言葉は?」

ドアからの声に怯えが混ざったように感じるのは気のせいだろうか? ずるっ、ずるっ、と後ろの音はゆっくりと、だか確実に近づいてくる。

「合言葉は?」

ふいに、血に染まった海原のイメージが頭に浮かぶ。孤絶した大陸と朱色に泡立つ水面。そして延々と続くデス・マーチ。

やがて、強い潮の匂いとともに忘れようのない息づかいが耳元にふれる。

僕はふり返ることもできず、飛べない翼をふるわせた。




〜 ペンギン奇譚 #3 〜



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