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深淵で軋む 『王国(あるいはその家について』

「我々はいったい何を見せられているのか?」

そんな戸惑いから映画の組成に順応するまで、すこし時間がかかる。

フィクションなのか、リハーサルの記録なのか。スクリーンでは、こまぎれにされた「読み合わせ」の光景が執拗なまでに繰り返される。

まったくのリプレイもあれば、バリエーションもある。同じシークエンスでも、カットのタイミング、切り取るフレーム、演じられる場所や時間、俳優たちの配置、さらには演技そのものの質も変わっていく。

ある帰結が冒頭で提示されてはいるが、そのあとに続くシーンの反復は、ストーリーへの安易な没入を阻む。まるでCDプレイヤーの音飛びのように、時間と意識が断片的にループさせられるからだ。

同期と非同期。遅延と先行。分岐と複合。アンビバレントな感覚をともなって「いま」が繰り返され、重なり合い、ズレを生み、内圧を高めながら過去と現在とを往還する。反復がもたらす差異や変容は、「そうであったかもしれない」という可能性の振幅であり、人間の記憶に設けられたバッファーのようでもある。

こうした非線形なカットの反復は、やがて観る者をゲシュタルト崩壊にも似た状態へと陥らせる。

繰り返される「台詞=言葉」から、意味はしだいに剥がれ落ちていき、それと相反するように俳優の目くばせや視線のうつろい、微かな表情の揺らぎ、そして沈黙といった「語られない」ものが注視され、そこに隠された意図を掬い取ろうとしはじめる。

眼前で繰り広げられる出来事が「芝居」であることは、あらかじめ示されている。にもかかわらず、テキストが俳優の血肉となり、その内面に深く浸透していくにつれて、我々はより生々しい情動を感じ取り、いつしか見えないはずの情景や存在しないものまでを想像し、補完していくのだ。

そうして最終的に虚構がリアルな悲劇として立ちあらわれたとき、観客はかれらが行き着いた慘しい結末と、二人の濃密な結びつき=「王国」が収斂することで生じた歪みの前に立ちすくみ、慄然とする。

観賞後、高橋知由による脚本も読んだが(むしろこちらの方が分かりやすく映画的である)、映画では省かれた箇所がいくつかあり、けれどもそれらが直截語られないことで、「二人だけの王国」の底知れない昏さと豊かさを暗示しているようにも見える。

草野なつか監督が「もうひとつの身体」と呼ぶシナリオ(強固な骨組み)が、俳優や映像という「肉体」を得ることで、テキストから離れて読み直されていく。それを目撃する我々もまた、ある種の共犯者としてこのラディカルな試みに包含されることになる。なぜなら、この虚実の鏡が映し出しているのは、私たちが抱えているそれぞれの「王国」の影でもあるのだから。

「演じる」とは何か。「撮る」とは何か。そして、「観る」とは何か。

そんな深淵を覗いてしまったかのような、ある種の畏れと静かな興奮に揺さぶられる150分だった。


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