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黄昏の『一人称単数』

某日、読書会のために『一人称単数』を読み返してみた。やはり難解さとともに凄みを湛えた、一読しただけでは「分かりにくい」短編集である。

ここでなされているのは、いわば人生の黄昏(作中の季節はおおむね秋、しかも晩秋である)を迎えた一人の作家の来し方を見つめなおす作業であり、タイトル通り「僕」という一人称単数の棚卸し的な側面もある。一人称からスタートし、長い孤独な道のりを経てやがて「書きたいものが大体書けるようになった」と語るまでに円熟した作家が、晩年を見すえて「僕」という原点に立ちかえり、自らをじっくりと再検証をしているようにも受けとれる。

「クリーム」に出てくる「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」とは、まさにこの『一人称単数』のことを指しているのではないだろうか。「僕」「ぼく」「私」といういくつもの中心によって語られる出来事が、物語というフォーマットで共有されることで、それをくぐり抜ける語り手自身と、一人称というヴィークルを通じて体験する読み手の内界が結びつき、無限に広がっていくがゆえに外周を持たない。それこそが物語が担うべき役割のひとつなのだ。もっともミニマムで、もっとも深く、そして個々に開かれた世界。それは「山の上」でもたらされた啓示であり、恩寵/呪いであり、ある意味において遺言でもある(だからこそこの作品だけが「ある年下の友人」に向かって語られるのだ)。

ここにある8つの短編には、作家自身の体験や影響が幾分ストレートに投影されているので(巧妙に秘匿されてもいるが)、これまでの村上作品の「原石」に触れたかのような読書体験が得られる。愛読者にとっては幸福な既視感とでも言えるだろう。さらに耳を澄ませば、内からだけでなく外からの響きも聴きとることができる。たとえば「謝肉祭」の意表をつく展開は、吉行淳之介の「やややのはなし」。「一人称単数」に漂う静かで激しい暴力の気配は、レイモンド・カーヴァーの「足もとに流れる深い川」などを想起させる。いずれも村上本人がその影響や関わりについて語ることの多い作家だ。

さまざまな形をとった「悪意」にフォーカスした作品も少なくない。締めくくりに唐突に置かれたかのように見える「一人称単数」も、けれども角度を変えれば作家の行く末を暗示しているようで暗く重い。気持ちのよい春の宵の景色は、ある人物の登場によって反転してしまう。十代の夏を眩しげにふりかえり、黄昏の思索にふける秋と冬を越してめぐってきた春は、これまでとはまったく異なる様相を見せる。そこにかつての春はない。世界そのものがいびつに変容してしまっている。まるで叶えられなかった祈りからの復讐のように。彼にはまだ見つめなければならない新しい闇があり、底知れぬ地獄は続いていくのだ。

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