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エッグプラント・エレジー


「氷とソーダ、あとタマふたつ」

カウンター越しにキンミヤのキープボトルを受け取りながら、心もち声を張ってマスターに伝える。おしぼりで手を拭き、ついでに顔をぬぐい、壁に掛けられたホワイトボードを眺めながら本日の組み立てに考えをめぐらせる。

マジックペンでみっちりと書き込まれた本日のおすすめ。筆頭には「朝〆ひらめ刺し」「ほや酢」が燦然と輝いている。まずはスタメン入りだ。梅雨の真っ只中なのに、お品書きの世界はすっかり夏の様相である。「マカロニサラダ」「野沢菜漬け」などの盤石の100円小皿打線も手堅い。

大ぶりのグラス、氷がぎっしり詰まったアイスペール、注ぎたての炭酸が入ったプラ容器の三点セットをサカイさんが運んでくる。小皿には半分に割ったスダチが四片(すなわちタマふたつ)。それを受け取りながら「茄子揚げとほや酢ください」と注文する。サカイさんは黙ったまま耳に挿したエンピツで伝票に書き込み、いつものようにのったりと引き返していく。

グラスに氷を放り込み、焼酎を四分目まで注ぎ、スダチを搾ってソーダを注ぎ足す。いつだったかサカイさんに「よくそんなまずいもん飲めるね」と呆れられたが、ひょっとしたら下戸なのかもしれぬ。

そういえば、新宿のゴールデン街で呑んでいたとき、オーストリアから観光に来たという碧眼の青年二人連れが、キンミヤを生のままグラスで立て続けに飲み干しているところに出くわしたことがある。思わず「それは何かしらで割って呑んだ方が…」と言いかけたが、まあハードリカーだからアリなのか、と思い直して放っておいた。楽しそうだったし。

スダチハイを三口も飲まないうちに、ほや酢が到着する。この店は焼き台と刺身系をマスターが受け持っているので、よほど立て込んでいないかぎり、生ものの提供の方が早い。ここ十年ほどで、東京近郊でも「ほや」はすっかりおなじみの食材となった。ひょいと口に放りこむと磯の香りがひと足はやい夏を運んでくる。

やがて茄子揚げが届く。油をたっぷりと吸って艶めく濃紺の肌。端がきつね色になった切り口とのコントラストに見惚れてしまう。ひとつまみの生姜の上で、ざっくりと散らされたかつお節が揺らいでいる。

この茄子揚げを序盤に投入するのが当方の流儀だ。茄子揚げとたこぶつ。茄子揚げと空豆。茄子揚げとマカロニサラダ。茄子揚げさえ押さえておけば、その日の御膳立てには遺漏がない。ダイヤモンドは傷つかない。茄子揚げは裏切らない。

それにしても「茄子揚げ/揚げ茄子」問題と、「ニラレバ/レバニラ」論争は、ときおり思い出したように巷間をにぎわすが、いまだ決着がついていない。ちなみにこの店は「茄子揚げ」派である。けれども焼いた茄子は「焼きなす」と書かれていることが多い。表記揺れの是正が求められる。

やくたいもないことを考えているうちに盃は重なり、食欲は次のイニングを迎えている。あらためてスコアボード、もといホワイトボードを見やる。朝〆ひらめはブルペンで肩をあたためている。串焼きにはまだ早いので中継ぎをどうするか。「白センマイ」「小いかの丸焼き」「はまぐりバター」あたりが胃袋をうかがっている。当店名物「厚揚げ」も手堅い。

そのとき、信じられない文字が目に飛び込んできた。

「水茄子漬け」

ホワイトボードの中ほど、麗々しく自己主張するルーキーたちの影に隠れるように、彼女はひっそりと佇んでいた。涼やかな水気をたたえたインディゴブルー。子ども時分、海水浴でおにぎりと一緒にほおばった爽やかな香気と酸味が口の中によみがえる。思えば初恋の味とは、水茄子漬けのことではなかったか。

だがしかし、すでに茄子揚げとねんごろになってしまっている。茄子揚げに続いて水茄子漬けを頼むような暴挙は避けたい。それがこの懶惰な日々に浸ったやつがれの、いわば最後の美学なのだ。

仕方ない、あきらめろ。まだひらめがいるじゃないか。いくらそう自分に言い聞かせても、恋の焼けぼっくいは胃の腑を焦がす。そうだ、たしかこの店の水茄子漬けは自家製のはずだった。皿に添えられた練り辛子のあざやかな黄色の記憶が、頑なに閉ざした意志の扉をこじ開けようとする。

何分が過ぎただろう。気がつくと嵐は去っていた。内なる悪魔からの誘惑についに打ち克つことができたのだ。居酒屋のにぎやかな孤独の中で、ふと目を上げるとサカイさんがこちらを見つめている。そのどんよりとした瞳には、激しい欲望の渦に飲み込まれながらも、辛うじて生還した孤高の魂に対するねぎらいの光が微かに宿っているように感じられた。

これでいい。これでいいのだ。サカイさんがのっそりとこちらに歩いてくる。彼に伝えたい言葉が、語り継ぐべき魂の物語がたしかにある。スダチサワーをぐっと飲み干し、今宵の神託を告げる。

「すいません、水茄子漬けください」

こうして今宵も酒場のささやかな矜持は、欲望に呑み込まれていくのであった。

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