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ねずのばん
人生最大のピンチが訪れたそのとき、「きなこ」がやってきた。
「ここです、ここです」
あまりにもかそけき声だったので、はじめは空耳かと思ったのだが、足元で小さな影が跳びはねているような気がして見下ろすと、靴の上に一匹のネズミが乗っていた。
「お忘れですか? きなこです」
ネズミは後足で器用に立ち上がると、私に向かって右手をひらひらと振っている。
かつて祖父の家には小さなビニールハウスがあって、奇抜な形をしたサボテンや色とりどりの熱帯植物であふれていた。むっとする温気と、飛び交う虫たちの羽音と、土と草と花の甘やかな匂いと、祖父がくゆらせていたエコーの煙。そんな遠い日の思い出の中に、きなこはずっと棲んでいたのだ。
きなこは五センチくらいのヒメネズミで、淡い黄色の毛並みが愛らしかった。鳥飼いでもあった祖父(多趣味な人だった)が豆皿に取り分けておく稗や粟をお目当てに、彼女はちょくちょくハウスに遊びにきていた。いわば半野ネズミである。
「お久しゅうございます」
きなこはぺこりと一礼すると「その節はたいへんお世話になりました」と言った。
いや、もうずいぶんと昔のことだし、そもそも世話してたのはじいちゃんだし、と私があわてると「そうではあるのですが、この世にはやはり分際というものがありますから」という律義な答えが返ってきた。なるほど、ネズミにはネズミなりの筋の通し方があるのだろう。
「わたしが駆けつけたからにはもう大丈夫。あとは大船に乗った気分でおまかせください」そう言い放つと、きなこは目の前に立ちふさがる危機的状況をはっしと睨みつけた。
よく分からないけど、とにかくありがとう、といささか面くらいつつお礼を言うと、きなこは私の方をふり返り、「とんでもない。大恩に報いることができて、わたしは嬉しいのです」と静かに微笑んだ。そして、もしも差し支えないようでしたら——と一呼吸おいてから「いつの日か、あなたがおじいさまにふたたびお会いになるとき、私からのお礼を伝えていただけないでしょうか?」と控えめに付け加えた。どうやら彼女と祖父とは、じかに会えない決まりらしい。思い出の中の住人とはいえ、すべてが思い通りになるわけではないようだ。
分かった、かならず伝えるね、と私が約束すると「ありがとうございます。これでもう思い残すことはありません」ときなこは深々とおじぎをした。
いつしか彼女の身体は光を帯びて白く輝いているようだった。ごま粒ほどの瞳はらんらんと輝き、鋭い前歯はかちかちと音をたて、ぴんと立てた尻尾にも闘志がみなぎっている。さしもの致命的事案も、その気迫にたじろいでいるようだった。
なんとか今回の窮地は乗りきれそうだ。私はほっと胸をなで下ろしながら、きなこの小さな後ろ姿を見つめていた。
***
このように、人生にはささやかな、けれどもずっと心をあたためてくれる記憶のようなものが必要なのだ、きっと。
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