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誰が映画を殺すのか。

『三度目の殺人』をようやく観た。世界中どこに出しても恥ずかしくない意欲作である。いや、むしろ日本国内より海外の方が(相対的に)より素直に受けとめてくれるのではないだろうか。

「心理サスペンス」と謳われてはいるが(まあPRとしてはそれが正道であろう)、あくまでもそれは手法であって、曖昧模糊とした虚実皮膜のあわいから浮かび上がってくる「問い」こそが主題である。そして本作の問いかけは重い直球であるがゆえに、所謂サスペンスの解とカタルシスを求める人たちを呆然とさせてしまう。

終劇後、グループの会話が聞こえてきたのだが、「ねえ、分かった?」「ぜんぜん分かんない」「でしょー、絶対におかしいわよねえ」といった調子で、「これ日本だと厳しいかもな」という私感をいみじくも補強してくれた。

念のためことわっておくが老若男女関係ない。主題が受け取れないなら薄ぼんやりとした印象しか抱けなくて当然である。あるいは気がつきたくなかったのかもしれない。あるいはやわらかいものばかり食べすぎて顎が退化してしまったのかもしれない。あるいは(以下略。けれども恐ろしいことに、この手の人たちにとって分からせてくれない映画はすなわち失敗作なのである。ポピュリズムここに至れり。それにしてもみなさん、そんなに一から十まで説明してくれる映画が観たいんですかね? 観たいんだろうなあ。

分からないから嫌い、というのはガキの言い草である。いや、子どもですら「分からない」を起点として世界を広げていくのだから、それはたちの悪い幼稚さと言って差し支えないだろう。結局のところ「分かりやすい」ワイドショーも「分かったようにふるまえる」SNSも狢の糞であることに変わりはない。

ちなみに、分からないことにうっとりできるのは大人の特権だが、そもそも本作は難解ではない。むしろ確信犯的に「分かりやすく」している側面すらある。ただ、有名俳優という見慣れたフォーマットのせいで、うっかり未知のコードにふれてしまい、投げかけられた問いの重さに戸惑った挙句、なぜか憤っている一部の人たちがいるだけだ。

とはいえ、たしかに「間口は広いが出口が見つからない」タイプの映画ではある。平易だが説明的でない台詞まわしは間を埋める作業を求めるし、その背後には複層的な意味が織り込まれていて、あたかも点と点をつないでいるかのような錯覚に陥らせる。けれども、架けられた梯子はことごとく外されていき、私たちはいつしか茫漠とした辺土に取り残される。この観る者のポジションを揺り動かし乖離させていく手腕は是枝監督の真骨頂と言えるだろう。状況を重ねるほど事実は混沌のなかに溶解し、主客はいつしか転倒し、示唆される疑念のやるせない重みだけが増していく。

冒頭のミスディレクションも中盤まで見事に観客を欺いてくれる(途中から筆者は筒井康隆『モナドの領域』を思い浮かべていた)。そしてある瞬間、その「問い」はただ一言ぽつんと発せられる。まるで不意に口をついて出てきた、とり返しのつかない言葉のように。このあざやかな「恐怖」の転写(言うまでもなく「鏡」のメタファーは十全に機能している)によって、われわれは自らに架せられた役割とそれが抱える矛盾について直視せざるをえなくなる。そして鏡の向こうには、神を持ちえない私たちの苦悩の影が彷徨っている。

—それにしても、暗示も隠喩も通じない「分からせてほしい」観客ばかりになったら、日本映画は早晩滅びるしかあるまい。自滅ではない。客が芸を殺すのである。


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